追憶

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 その人は、いつも笑っていた。

 時に楽しそうに、時に困ったように。

 そして、いつも優しげに。


 その人は滅多に怒らなかった。

 その人は決して泣かなかった。


 ただ、涙にならない悲しみを——私はいつ知ったのだったか。






 最初に違和感に気づいたのは、きっとあのとき。

 その人に借りた短剣を、どこかでなくしてしまったとき。


 町から町への移動中、私が使っていた短剣に突然ガタがきた。あまりいい品でもなかったし、使い手も下手っぴだったからしかたない。

 でも短剣というのはなかなか出番が多くて、狩も料理も何もかも、短剣がなくては困ってしまう。だから次の町で買い換えるまでの繋ぎとして、その人が昔使っていたという短剣を貸してくれた。


「私くらいの頃のですか?」

「そうです。旅暮らしを始めたばかりの頃は、一等頼もしい相棒でした」


 渡された短剣は私の手にしっくり馴染んだ。いつも見ている短剣より一回り小さくて、軽くて、柄も細身で、子供用にあつらえられたんだとわかる。この人の手も私と同じくらいだった頃があったんだな、とちょっぴり感動を覚えた。


 その短剣はとにかく使いやすかった。手からすっぽ抜けそうになることもないし、かけた力が全部刃に伝わる感じがして、獲物の骨まですんなり切れる。その人に聞いた、短剣一本で熊の首を獲ったという話。てっきり冗談かと思っていたけれど、本気でただの思い出話だった可能性が高い気がしてきた。


 あんまり使いやすいから楽しくて、どうせ次の町までなんだし、短剣の出番を少しでも増やそうといつもよりたくさん手伝いをした。それでも借り物だから、大事に大事に使っていた。


 ……そのはずだったのに、私は短剣をなくしてしまった。気づいた瞬間真っ青になって、行った場所を思い出せる限り捜し回って、でも、見つけることはできなかった。半泣きになりながらその人に謝りに行った。


「ごめんなさい……短剣、なくしてしまいました……」


 その人は目を瞠った。片手を上げて目元を覆って、顔を拭うように下げて。現れた顔は、仕方なさげに笑っていた。


「そんなこともありますよ。たくさん捜してくれたんでしょう? 俺も後で捜してみます。見つからなくても、自分を責めないでくださいね」


 どうして私は泣いて、この人が笑っているんだろうと思った。その時はそれだけ。


 結局、短剣は見つからなかった。






 ちゃんと気づいたのは、たぶんあの時。

 久々にさらわれた私を、その人が助けに来てくれたとき。


 喧騒の中で目を覚ました。頭はがんがん痛くて、全身だるくて、尻尾の先さえ持ち上がりそうにない。睡眠薬なり麻酔薬なり盛られたんだろうな。気力を振り絞って薄目を開ければ、私の周囲に倒れる双容デュオたちと、不本意にも見慣れてしまった檻の格子が見えた。その先に、大立ち回りを繰り広げるその人と無法者たちの姿。戦況は圧倒的にその人が優勢で、申し訳ないけれど私は安心して寝転がっていた。


 次々なぎ倒されていく無法者たちの一人が悪態をついた。


「この、化け物が!」


 次の瞬間そいつは昏倒させられて、あっという間に、その場に立っているのはその人だけになった。片手が上がって目元を覆い、それから静かに下ろされる。


「っはは」


 穏やかに笑んだ横顔を目にして、私は静かに目を閉じた。






 笑っていたのに、苦しそうだ、と感じた。怒ったんだろうか。でも、それはきっと違う気がした。じゃあ悲しいんだろうか。——ああ、きっとそうなんだろう。


 あの人は悲しいくせに泣けないんだ。






 帰る場所をなくしてから、私はずっと泣かなかった。騙されても、いたぶられても、不思議と涙だけは出なかった。悪夢から逃れた先、微温ぬるいミルクでいたわられ、寄り添う体温に安堵して。そうしてやっと、私は泣き方を思い出した。悲しくて泣いて、苦しくて泣いて、なぜかずいぶん昔のことまで思い出して泣いて、最後は泣く理由がわからなくなっても泣いて。泣き止んで、深呼吸したとき、息のしやすさに驚いた。


 泣いたって現実は変わらない。でも、心の痛みはマシになって、ほんの少しだけ前向きになってみようかな、と思う。それだけだけど、悲しくって苦しいときにはそれが必要なんだ。

 ただ、泣くのも結構大変で。悲しいって言っても否定されなくて、苦しいって言っても追い打ちをかけられないところでないと、泣いて無防備な心に致命傷を負う。欲を言うならうんうん頷いてくれる人がいるといい。そういうところがないと泣けなくなって、いつしか泣き方を忘れてしまう。


 きっとあの人は、泣き方を忘れたままなんだ。心がどんなに痛んでも、泣いて和らげることもできずに、笑顔の裏に押し込めている。笑顔に隠れて苦しんでいる。


 そうして私は寂しく思った。

 私じゃ、あの人が泣くには力不足なんだ。

 私は、あの人が安心して泣ける相手じゃないんだ。


 泣けないあの人が心配で、泣かせられない自分が悔しくて。

 私が弱く頼りない子どもだから、あの人は泣けないんだと思った。


 守られてばかりの子どもでいたくないと、最初に思ったのはそのときだった。


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