おいてかないで

 キルトを貫いた剣が、背後からねじるように引き抜かれた。胸に空いた穴から血を吹き出し、キルトは膝をつく。キルトの後ろにいる者の姿がチコの眼に映る。


 そこには、血がしたたる剣を手に提げ、狂喜の笑みを湛えた犬獣人が立っていた。


「っぁぁあああ!」


 チコは自らの剣を抜いた。駆け寄りざまにキルトを飛び越えて犬獣人の肩を斬りつけ、続けて蹴りを放つ。手加減なしの連撃は容易に犬獣人を霧の奥へと吹き飛ばした。急所を外したのは、チコの最後の理性だった。


「キルトさん、キルトさん!」


 呼びながら、チコはキルトの隣に屈み込んだ。地面についたキルトの腕が耐えかねたようにがくりと曲がる。倒れ込んだキルトの下から、あかがぬかるみに広がっていく。震えながら胸の傷を押さえる手は、火傷と裂傷でぼろぼろだった。ひゅ、ひう、乱れた息が耳につく。それが自分の呼吸音だとチコが気づいたのは、キルトの口元が動いたときだった。


『——チコ』


 チコが何度も見てきた動きだった。その声を思い返すのになんの苦労もないほどに。しかし今のキルトの口から、音はもう出ていなかった。苦痛を宿した一対の黄金が微かに笑む。どうにもならない、と言うように。


「いやです、いや、【癒せ、癒せ、癒せ】!」


 魔力を使い果たす勢いで、チコは治癒魔法を唱えた。けれど、チコが冷静でないからか、それともキルトの方にすでに受け皿となるものがないからか、魔法の効果は現れない。魔力だけがチコの中から消えていく。


 チコの震えは増すばかりなのに、キルトの震えは止まっていく。黄金はどこか遠くを映していた。血を零した口の端が引き攣るように動く。


『——ゆ、る……して』

「いやだ、置いてかないで、置いてかないでぇ……!」


 我慢していた涙が落ちて、キルトの頬で弾け散った。引きちぎれそうなチコの心の中に記憶が閃く。






 ——いざとなったら、私がキルトさんに使ってあげます。


 チコは鬼気迫る勢いで鞄の底を漁った。震える手を押さえつけて、取り出した小瓶の栓を抜く。


 そして、薄く開いたキルトの口に、『天使の涙』を注ぎ込んだ。

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