魔物たちの乱戦

 チコを人質に取ったのは、双頭犬の討伐依頼を出した犬獣人の一人だった。鋭い鼻を使い、こがね級一行の案内人としてついてきていたのだ。キルトは瞠目してチコを見つめている。犬獣人はさらに吠え立てた。


「剣を捨てて手を上げろ」


 キルトはすぐには動かなかった。躊躇いを見て取った犬獣人が剣を揺らす。チコは木に背中を押し付けるように身をよじった。キルトはゆっくりと腰から剣を外し、手の届かない場所へ放り投げる。そのまま顔の横に両手を掲げた。口元は引き結ばれ、目が据わっている。犬獣人が興奮したように叫んだ。


「さあユリウス殿、今のうちにその魔物を殺してください!」


 チコは息を引きつらせた。協会から下りたのは捕縛命令なのに、この犬獣人はまだキルトを殺す気でいるのか。ユリウスが痛みに喘ぎながら非難した。


「命令されたのは捕縛だ、殺害は許可されていない。それに彼は獣人だろう」

「一緒にしないでいただきたい! それは災いを引き起こす魔物です、早く始末せねば!」


 犬獣人は聞く耳を持たない。気持ちが昂ぶっているのか手元もあやしく、ぶれた剣がチコの首元に傷をつけた。


 鋭い舌打ちが響いた。


 唐突に犬獣人が倒れ込んだ。チコに突きつけられていた剣が離れる。犬獣人の腕には太い氷柱が突き刺さり、地面に縫い留められていた。自分の身に起きたことを把握した犬獣人が甲高い叫びをあげる。


「すみません、今は制御が難しくて」


 キルトは思い出したように微笑んだ。遠隔で氷魔法を撃った者の言葉とは思えない。動けないユリウスとセーラの横を通りすぎ、犬獣人のもとに歩み寄る。


「ねえ、あなたがたが躍起になって消したがっているのは禁忌の魔物ですか?」


 犬獣人が落とした剣を拾い上げてチコの縛めを切り払い、剣を後方に放り捨てる。


「それともあなたがたの過去の失態?」


 しゃがんだキルトは犬獣人の恐怖に満ちた目と目を合わせ、囁くように言った。


「あのとき忠実に法が執行されていたなら……こうも苦しむことはなかったのに」


 ローブの裾が持ち上がる。鼠色の下から淑やかに現れた二本の黒い尾が、蛇のように妖艶にしなった。犬獣人はがくがくと震えだす。逃れようと足を突っ張ったが、氷柱の楔はびくともしなかった。


 チコは首の傷を押さえてはくりと口を動かした。キルトに声をかけたくて、けれどどう言葉をかければいいかわからない。キルトの微笑みはチコが見てきたどんな笑顔とも違った。ありとあらゆる感情を笑顔で覆うのはキルトの常だったけれど。


 今のキルトには、ぽっかり空いたからっぽ以外、なんの感情も感じられなかった。






 不意に地鳴りが聞こえた。キルトが顔を上げる。黒い三角耳がぴんと立ち、忙しなく動く。チコはキルトが戻ってきたように感じてほっとした。


「……まずい」


 地鳴りが大きくなる。キルトが片手で犬獣人の襟首を掴み上げた。もう片腕でチコの体を抱き込んで地面を蹴る。ユリウスとセーラのそばまで退避した瞬間、先ほどまでチコが括られていた木へ、赤々と光る巨体が轟音を立てて激突した。キルト達のもとに熱風が吹き付ける。


 その身体は見上げるほどの大きさで、霧の奥まで続いている。下の方にびっしり並んだ丸い足がもじょりと蠢く。木を焦がし傾がせた頭がキルトたちの方に向けられた。


 溶岩のように赤く輝き熱気を放つ、巨大な芋虫がそこにいた。頭をもたげ、十人くらい一呑みにできそうな大口を開ける。鳴き声らしきものはなく、しかしその場の全員が気圧されるほどの暴威がそこにあった。


 芋虫が勢いよく頭を振り下ろした。真っ赤に溶けた溶岩が飛び散る。それを防ぐように、五人の前に氷の壁が立ち上がった。溶岩は音を立てて氷を溶かしながら滑り落ち、地上で黒く冷え固まる。チコが道中で見かけたものと同じだった。


 癒しの風が吹き抜ける。チコの首の傷が、ユリウスとセーラの全身の刺創が、犬獣人の腕の貫通傷が治っていく。氷の向こうの赤い光を見据え、キルトは声を張り上げた。


「ここから出て、回避に専念してください。下手な攻撃も防御も無意味です。溶岩は黒いものも含めて触れないで、火傷します」


 真っ先に氷の陰から走り出たキルトに再び溶岩が飛ぶ。その間をすり抜けて、キルトは芋虫へと接近する。氷の壁が流れ弾に当たって崩れ始め、チコたちも急いで離れたが、芋虫はキルトに集中しているのか溶岩はそれほど飛んでこなかった。


 森の奥から飛来した氷矢が芋虫に辿り着く前に溶けて消える。キルトは自身の身の丈の数倍ある氷杖を作り出すと、芋虫の頭に向かって振り下ろした。芋虫の頭が地に叩き落とされ、地面を揺らす。半ばまで溶けた氷杖をキルトが作り直す間に、冷えて黒変した芋虫の頭頂も赤く戻った。


 叫声とともに、ユリウスが芋虫の胴に斬りかかった。芋虫の腹はたやすく切り裂かれ、しかしそこから溶岩が噴き出してユリウスを襲う。思いがけない逆襲にのけぞったユリウスの前に氷杖が差し込まれ、ユリウスを後方へ弾き飛ばした。


「死にたくなくば退がっていろ!」


 キルトが怒号を放つ。ユリウスの剣は溶けて変形していた。使い物にならなくなった剣を目にして呆然とするユリウスを、セーラが引きずって退避する。


 芋虫が頭を引っ込めるように身を縮めた。すかさずキルトの指示が飛ぶ。


「物陰に隠れて体勢を低く!」


 キルト以外が森の陰に身を潜める。キルトは氷杖を放棄して手元に炎鞭を作り出した。芋虫が縮めていた身体を勢いよく伸ばし、バネのようにキルト目掛けて飛びかかる。横に走って躱したキルトは熱風に煽られつつ、炎鞭を振るって芋虫の胴に巻きつけた。そのまま鞭を手に絡めて力一杯引く。飛んだ芋虫は弧を描くように方向転換させられ、その無数の足が浮いた。長い身体が辺りの木々を焦がしながらキルトを中心に回る。キルトはぬかるむ地面が深くえぐれるほど踏ん張り、タイミングを見極めて炎鞭を手放した。


 振り回された芋虫は遠心力のままに霧の奥へ投げ飛ばされて見えなくなり、直後に大きな水音が聞こえて大波が湖畔を襲った。しゅうしゅうぼこぼこと水が沸き立つ音が遠く響き、一際濃い霧が流れてきてあたり一面を覆い尽くす。


「チコ! 無事?」


 霧の先にキルトの声を聞いて、チコは木陰から身を起こした。視界は真っ白で自分の足元すら見えない。三角耳を動かして方向を探りつつ、そろそろと足を進める。


「キルトさん……?」

「っチコ! ——ぐぅっ」


 どすりという音とともに、キルトの呻きがチコの耳に届いた。チコは一瞬歩みを止め、次の瞬間走り出す。ほんの数秒の距離が憎い。限りなく嫌な予感がチコの背筋を撫で上げた。


 風が吹いた。霧が流れて晴れていく。チコの駆ける先に見えたキルトは、






 苦悶の表情を浮かべ、己の胸から突き出す刃を両手で握りしめていた。

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