子猫の手は届かない

「——え?」


 チコは呆けた声をあげた。さっきまですぐそばにあった体温も、握っていた手も、撫でてくれた手も一瞬にして何処かへ行ってしまった。


 次いで、チコの眼前を熱風が通り過ぎる。どこからか飛んできた炎の矢はキルトがいた場所を横切り、じゅわりと音を立てて湖面で消えた。


 最後に、離れた場所に鼠色のローブが降り立った。いつの間にやら剣を持って、最初よりチコから遠い場所に。剣を握っていない方の手がフードの下の目元を覆うように当てられた。その手が顔を拭うように下ろされる。


「——なるほど、なるほど」


 ぞっとチコの毛が逆立った。キルトの表情はまたほとんど見えなくなっていて、ゆがんだ口元と皮肉げな声だけがキルトの感情を伝えていた。芯から凍える激情を。


「狩のやり方としては王道ですね。囮を使う、というのは」


 キルトの言葉をチコが否定するより先に、木々の奥から何者かが躍り出た。その者はキルトの前に立ちはだかり、剣を構えて啖呵を切った。


「黒髪黄金目の双容デュオの片割れ。協会のめいにより貴様を捕縛する。我が名はこがね級のユリウス! 大人しく従えば丁重な扱いを約束しよう」


 金髪翠眼。鎧も含め、霧の白と木の焦茶で慣れた目には痛いほどのキラキラしい出で立ちだった。けれど無駄にキラキラしているわけではない、よく使い込まれ手入れされた装備だということがチコの目にもわかる。ユリウスの口上を聞いたキルトはゆっくりと首を傾けた。


「……こがね級。ここの通称をご存知で?」

「知らん。それは従わないという答えか?」

こがねの死に場所、というんですよ」


 剣戟の音が響いた。ユリウスの強烈な一太刀を受け止めたキルトのフードが外れる。現れた三角耳を直視したチコは息を呑んだ。暴走したときの記憶があるとはいえ、正気で見るとどうしても違和感が先に立つ。


こがねの強さを侮ってもらっては困るぞ」

「それ以上の魔物の存在を忘れられては困るのですが……」


 力強く打ち込むユリウス、それを柳のようにいなすキルト。それを見て呆然と立ち尽くしていたチコの腕が誰かに取られた。チコははっとして振り向いたが一歩遅く、見慣れぬ女性がチコの腕を素早く縛めた。女性は一つウインクしてみせる。


こがね級のセーラよ。暴れなければ怖いことないわ、大人しくしててね、捕縛対象の猫獣人ちゃん」


 チコを木の幹にくくりつけたセーラはユリウスの加勢に向かう。キルトが眉をひそめた。


「……彼女も捕縛対象だったんですか」

「そうだな、貴様を捕らえれば依頼の三分の二は完了だ」

「すぐ見つかってよかったわ、案内人がよかったわね」


 二人分の剣と時折飛来する魔法が相手では、キルトも少々分が悪く見える。けれどチコは気づいた。キルトは回避と防御に徹して、一度も攻撃をしていない。


「慮外の魔物と出くわす前に、お帰りになった方がよろしいですよ」

「ふん、臆したか?」


 ひときわ強烈なユリウスの一撃を利用し、キルトが飛び下がった。すかさず飛んできた炎矢を身をひねってかわし、ため息をついてユリウスたちを見据える。


「まあ退いてはいただけませんよね。……こがね級なら大丈夫でしょう。今は手加減できませんので、全力で生き延びてくださいね」


 言い終わるや否や、周囲の気温が急激に下がった。


 キルトに接近するユリウスとセーラを無数の氷の針が取り巻く。星の数ほどきらめく針の何割かは二人の剣に打ち砕かれ、あるいは鎧に阻まれたが、半数以上は二人の身体に突き刺さった。血煙がうっすら霧に混じる。


「ぐうっ……」

「ああ"っ」


 二人は膝をついた。ユリウスはなおもキルトを見据えているが、セーラは剣を取り落として身を震わせている。キルトの眉が寄った。


「……これが捌けない程度では、ここの魔物は相手取れませんよ。最寄りの町までは送りましょう。はがね級になるまで、もうここには立ち入らないことです」


 剣を収め、キルトはユリウスに手を差し伸べた。魔法は飛んで来ない。ユリウスは顔を歪めたが、隣で痛みに耐えるセーラを見遣り、歯を食いしばって片手を持ち上げた。


 それを食い入るように見つめていたチコの首筋に、ひやりと冷たいものが触れた。






「抵抗をやめろ! さもなくばこの娘の命はないぞ!」


 犬獣人が一人、チコの首に剣を突きつけていた。

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