子猫は手を伸ばす

 戦いは案外長引いた。チコの全身は打撲と浅い切創でじくじくと痛んだが、致命傷は一つもない。ほぼ一方的に痛めつけられながらもチコは苦笑する。理由には心当たりがあった。


 チコは致命傷を受けた経験がない。おそらく一番死にかけたのは蛇の毒が全身に回った時で、一番大きい外傷は木から落ちて擦り傷切り傷打ち身まみれになった時だと記憶している。ずっとキルトに守られていたから、大怪我の機会がなかったのだ。

 怪我の量としてはキルトとの稽古でついたものが一番多いし、それも後に残るような怪我は負わされたことがない。完璧な手加減で、それができるだけの実力差がキルトとチコの間にはあった。


 つまり、致命傷の経験も、キルトの本気の攻撃を受けた経験もないが為に、チコは幻に簡単には殺されないのだった。だからと言って勝てるわけではないので、ただ痛みが長引くだけとも言えるのだが。


 チコが再び吹き飛ばされて落ちた場所はやけにぬかるんでいた。体勢を立て直し、手と剣の握りの泥を手早くぬぐいながら視線をやると、すぐそこに平らかな水面が広がっている。霧に隠れて対岸は見えない。戦っている間に湖のそばまで移動してきたらしかった。

 何がいるかもわからない水中に叩き込まれては敵わない。チコは水際から離れようとしたが、それより早くキルトの幻に足を払われ、腕をひねり上げられる。チコの手から剣が落ちた。


「——さようならだよ、チコ」


 放り投げられる。背中から落ちていきながら、チコは思わずキルトに向かって手を伸ばした。幻は微笑むばかりで、手を差し伸べてはくれなかった。


 チコが水面に落ちる寸前、肌を刺すような冷風が吹いた。


 水面はチコを中心に瞬時に凍りつき、そこに叩きつけられたチコは予期せぬ衝撃に呻いた。何が起きたのかわからず混乱している間に、幻の方から金属音が響く。

 そちらを見やれば、キルトの幻と剣を交える人影があった。全身を鼠色のローブとフードに覆われて外見はほとんどわからないが、幻の剣と同じつくりの剣を振るい、幻とそっくりな動きを見せている。チコの心臓が高鳴った。


「本当に悪趣味な幻だよ、いつ見ても」


 呟く声をチコは聞き逃さなかった。痛みを忘れて起き上がり、氷の足場を踏み切って岸へと飛ぶ。飛距離が足りず膝まで水につかったが、気にせず飛沫をあげて走りよった。


 横薙ぎの一閃。受けきれなかった幻が、破れて解けて消えていく。散々苦しめられた幻の最期は、けれどもうチコの目には入っていなかった。ローブの人影だけを一心に見据え、チコは呼ぶ。


「キルトさん!」


 ローブの人影が振り向いた。フードの陰から黄金がのぞく。駆け寄りながらチコは目を輝かせた。


 そのチコの鼻先に、剣の切っ先が突きつけられた。


 チコは息を呑んで立ち止まった。疲労で足がもつれたが、転ぶのはこらえてキルトを見上げる。向けられた剣先と冷たい視線を信じられない思いで受け止めた。


「何故斯様な場所にいるんですか」


 冷気すら漂ってきそうな声に、チコの背筋が寒くなる。怖気付く心を押し込めてチコは言い返した。


「キルトさんを追ってきたに決まってるじゃないですか!」

「なるほど。殺す為に?」


 チコはきょとりと若葉色の目を瞬かせた。一拍おいて意味を理解し、悲鳴のような声を上げる。


「どうしてそうなるんですか?! 私はただ、」

「存在すべきでない魔物は討伐対象でしょう。紡錘熊と変わりありません」


 これも幻なのだろうか、チコはそう疑った。けれどチコの直感は目の前のキルトを本物だと判断していたし、その声音にも覚えがあった。それがチコに向けられたことが今まで一度もなかっただけだ。

 それは、キルトが敵に向ける声だったから。気づいたチコの足が震えた。それでもチコは叫ばずにはいられなかった。


「違います、違いますったら! 確かに捕縛命令は出てましたけど、私にキルトさんが捕まえられるわけないじゃないですか! 違う、そうじゃなくて、私はただ、」


 フードに隠れて見えない顔を睨みつける。チコの視界が滲んだ。


「会いたいから、会いにきたんです!」


 知らず身を乗り出していたのか、刺さりそうなほど近づいた剣先がほんの僅かに引かれた。それを見てチコは焦った。逃げられてしまう。考えるより先に身体が動いた。


「っチコ! 離せ!」


 咄嗟に伸ばしたチコの手は、剣先を握りしめていた。あっという間に血が溢れて手と刃を濡らす。唐突な痛みと怒声に驚いたチコは手を離した。血だらけの手を、一回り大きな手が包み込む。


「【癒せ】」


 剣を放り出したキルトが、チコの目の前に立っていた。治癒魔法の暖かな風がチコの全身をめぐる。まん丸に見開いたチコの目から涙が次々溢れ出した。チコはキルトの手を握り返す。もっと長いこと会えない留守番もあったのに、そのときよりずっと長く離れていたような気がした。


「全身ズタボロじゃないか、だから無謀はよくないって、ああもうそんなに泣いて」

「全部キ"ル"ト"さ"ん"の"せ"い"です"」


 涙でチコの視界は悪かったが、近づいたフードの中はさっきよりもよく見えた。困り顔のキルトがいつものようにチコの頭に手を伸ばし、途中で動きを止める。チコはその手を掴んで自分の頭の上に導いた。


「幻にも本物にもそこそこ傷ついたんですよ、私。慰労を所望します」

「ここのは見たくない幻だものね……じゃなくて、チコ。本当に、それだけでこんなところまで来たの? 会いたい、だなんて」


 戸惑う黄金に、チコは涙を拭って満面の笑みを見せた。


「もちろんです!」


 泣きそうに揺らいだ黄金は。


 次の瞬間かき消えた。

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