子猫は霧中に再会する

 肉球に細かな傷をたくさん作りながら、チコは霧湧く森までたどり着いた。肌寒さに一つくしゃみをして、チコは人型に変容する。視界が悪い霧の中なら見られることをさほど気にする必要もなく、何より獣型で魔物とやりあうのが不慣れだからだ。変容の一瞬の隙を許されるかどうかもわからない以上、最初から戦うにも逃げるにも慣れた人型になっておくのが最善手だった。


 真っ白な視界の中をゆっくり進む。霧の中から唐突に現れ出る木や岩を避け、魔物の立てる音に耳をすませる。今回は協会の図鑑で予習することもできなかったし、そもそもはがね級制限地域の魔物となんて極力出会いたくないので、チコはいつになく必死だった。


 地面の振動を感じ取り、チコは素早く手近な木に駆け上がった。息を殺して地上を注視する。霧がふわりと揺れて、チコの顔に熱気が吹き付けた。

 霧の奥を大きく長い影が蠕動している。かき混ぜられて所々薄まった霧の奥から、赤みがかった光がのぞく。時折ぺちゃりと水気を帯びた音がした。どこか厳然とした地鳴りはチコの足元を通り過ぎ、何事もなく遠ざかっていった。

 チコは息をついて木から下りた。ほのかな熱が残されている。先ほどまではなかったはずの黒い石がいくつか地面に転がっていた。まだ微かに響く地鳴りを気にして聞き耳をたてる。


 そのとき、声が聞こえた。


「チコ」


 チコは機敏に顔を上げた。三角耳を動かして声の方向を探る。ゆっくり首を巡らせて、霧の奥に立つ人影を認めた。その影はどこまでも見覚えのあるかたちをしていた。


「キルト、さん……?」


 震えるようなチコの問いは霧に吸い込まれていく。人影の周りの霧が揺れ——その奥から現れ出たのは黒髪に黄金の目、腰にはいつもの剣を佩いて、柔和な笑みをたたえる好青年。キルトだった。


「……キルトさん?」


 チコの呼びかけにキルトは笑みを深めた。その姿はチコに最後に笑いかけてくれた時のままだ。キルトが口を開く。


「よくここまで来られたね、チコ」


 チコはわずかに違和感を覚えた。けれど何がおかしいのか、すぐにはわからない。


「でも俺はいつも言ってるよね、無謀は愚か者のすることだって」


 何度も聞いた言葉だった。けれど、一度も聞いたことのない声色だった。チコは身を固くした。


「チコは本当に俺の言うことを聞いてくれない。いいかげんお守りにはうんざりだ」


 苦々しげな言葉だった。チコは息ができなくなった。手が震えて、足が勝手に後ずさる。


「追ってこられても迷惑なんだ」


 ため息をつくような声だった。チコは逃げるように目を瞑った。


「まあ、はっきり言わなかった俺も悪かったね。——さよならをしようか、チコ」


 ことさらなだめるように言われて、チコは目を開けた。滲む視界の向こうで、キルトの輪郭が揺らいで見える。チコの口元が震え、歪んだ笑みを浮かべた。


「なんて悪趣味な幻」


 呟き、チコは剣を抜き放った。目尻に涙を残しつつ、微笑むキルトを睨めつける。胸の痛みを誤魔化すように細く息を吸って、吠えた。


「キルトさんの心折る用の笑顔はもっとえげつないので! きちんと勉強して出直してください!」


 一息に踏み込んで振り下ろしたチコの剣は、キルトの剣に受け止められた。甲高い音が上がる。剣の輪郭が揺らぎ、しかし消えずにとどまった。


「猫獣人なのに幻もろくに扱えなくて、そのくせ見破るだけ見破るなんて面倒臭いよ、チコ」

「その顔と声やめてください! 本物じゃなくても傷つきます!」


 幻だった安堵と、本物でなかった落胆と、幻だろうが十分傷つく言葉の数々で、チコの心は大荒れだった。キルトの姿を攻撃するのには躊躇を覚えるが、これ以上の精神攻撃はチコにも耐え難い。チコはキルトから離れ、短期決戦を図った。


「【燃え盛れ】!」

「【湧き上がれ】」


 キルトの幻を包み込んだ炎は湧き上がる水に相殺された。幻の輪郭に変化は見られない。チコは唇をかんだ。幻の強度が高すぎる。そして幻が破れないなら、チコに勝ち目はないのだ。


 腹部に蹴りを食らってチコは吹き飛ぶ。接近に気付くこともできなかった。かろうじて受け身をとって、続けて振り下ろされる剣を横に転がり避けて跳ね起きる。


「俺に敵うと思うの?」


 困ったものを見る目で、キルトの幻はチコを見ていた。チコは咳き込みながら睨みつける。チコはキルトに敵うとは思えない。だから、中級術製であろうキルトの幻には、決して勝つことはできないのだ。同じ理由で、きっと逃走も許されなかった。


「だからいつも言ってるのに。無謀は愚か者のすることだって」


 穏やかな表情と隙なく構えられた剣があまりにちぐはぐで気味が悪い。チコは歯を食いしばり、剣を強く握りしめた。

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