追憶
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その人は、いつも笑っていた。
時に楽しそうに、時に困ったように。
そして、いつも優しげに。
その人は滅多に怒らなかった。
その人は決して泣かなかった。
ただ、怒鳴り方が独特だった。初めて怒られた記憶を、今でもよく覚えている。
古びた地図が机の上に広げられていた。紙の端は丸まり、折り目にはところどころ穴が開き始めている。椅子に乗って眺めていると、部屋の主が帰ってきた。
「先生、これ、何の印ですか?」
指差して尋ねる。地図の片隅にある丸印は、明らかに後から描き加えられたものだった。
「ああ、これですか。なんと言いましょうか……最終目的地、の目印ですよ」
指先で丸をなぞる先生は、どこか遠くを見る目をしていた。
先生はそこがどんな場所かも、どうしてそこに行きたいのかも教えてくれなかった。地名の読み方だけは聞き出せたから、時々おやつをくれる協会職員のお姉さんに訊いてみた。
「ナガネノシンジョ? そんな名前の場所あったかなあ」
地名だけでは通じなくて、お姉さんはわざわざ本棚から地図を引っ張り出してきてくれた。先生のものよりも大きなその地図の上で目をうろつかせ、私は一点を指差す。
「このあたりだったはずなんですけど」
「んん? 何も書いてないねえ。もっと詳しい地図にしよっか」
本棚から出して広げてを何度か繰り返し、一番拡大された地図を見つけても、そこに地名は書かれていなかった。その代わり知らないマークが描いてあって、お姉さんが驚きの声をあげる。
「
協会の定める階級は六段階ある。下から順に、
私は
いつの間にかずっと先生といられるような気になっていた私は動揺して、そうして馬鹿な考えを起こした。
近頃は九割がた一人で行動するようになっていた。先生と私は別々に野営していて互いの姿は見えないけど、私一人で対処しきれない事態には助けを求められるくらいの距離が保たれている。
保たれていた、のだけど。今私はたった一人で、月光も届かない森の最奥に足を踏み入れていた。頭の中には協会で見つけた依頼書の内容がぐるぐると巡っている。
『
もちろん私は
階級の違う冒険者でも、一階級差までなら一緒に依頼を受けられる制度があるらしい。だったら私が
昼でも立ち入ったことのない深部は猫獣人の目にも真っ暗で、闇に呑み込まれそうな空恐ろしさがある。しんと静かな森の中、自分の足音と呼吸音がやけに響いて、森中の魔物が息を潜めて私を狙っているような気がした。たくさんの腕を広げて仁王立ちする木々、覆いかぶさるように立ちふさがる藪を避けて、私でも通れる道を探す。
森に来る前、協会で聞き耳を立て、図鑑を借りて百薬林檎について調べてみた。どうやらその実はたった一晩で一気に膨らみ、朝日が昇ると落ちて潰れてしまうらしい。新月の夜に膨らみ、夜明け直前に収穫したものが最も品質が良いそうだ。今日は半月だけれど、依頼書にも品質の条件は書いていなかったから気にしなくて良いや。
でも、林檎はなかなか見つからなかった。木が密集しているから通れる道を見つけるだけでも一苦労で、何度も行き止まりに当たってしまう。木々の奥に光る眼を見つけ、慌てて隠れたのも一度や二度ではない。どくどくと打つ心音や上がった息の音でさえも魔物に聞かれてしまいそうで、両手で懸命に押さえつけてやり過ごした。
心身ともにへとへとになって、森の中も薄明るくなってきて、もうダメかもしれないと諦めかけたとき。ふと、あまい香りが漂ってきた。香りの強い方へと見当をつけて進んでいく。ひときわ強い香りを吸い込んで顔を上げると、特徴的な丸い実がぶら下がっているのが見えた。
「——あった!」
小さく叫んで駆け寄り、手を伸ばす。
その腕に細長い影が飛びかかって、左腕に痛みが走った。
悲鳴をあげて尻餅をついた。蛇に噛まれたんだ。私は動転して、腕を振って地面に蛇を叩きつけた。何度か叩きつけると蛇はするする逃げていって、私の腕には血を流す二つの小さな穴が残された。
痛みをこらえながら教わった通り血を絞り出して、腕の付け根に近い方を縛って、汎用の毒消しを飲む。本当は、毒が疑われるときは最初に先生を呼ぶように言われているのだけど、今この状態で呼べるはずもない。
どちゃり、という音がした。目の前で、林檎が落ちて潰れていた。あんまりあっけなく潰えた希望に私はふらふらと立ち上がった。地面に散らばる白い果肉をしばらく眺めた後、目を背けて歩き出す。朝ごはんが済んだ頃に先生が様子を見に来るのだ。それまでに戻らなきゃいけない。
でも、来るのにあれだけ苦労した道を、ちょっと明るくなったくらいでひょいひょい戻れるはずもなく。やっぱり蛇は毒を持っていたのか、噛み跡の血は止まらないし、紫色に腫れ上がって焼けるように痛む。引きずるように動かす足はどんどん上がらなくなっていって、そのうち一歩も動けなくなって、とうとう私はへたり込んだ。心細くてたまらない。先生、と心の中で呼んだ。そうしたらもう止まらなくって、震えながら心の中で先生、先生と繰り返し続けた。唇はぎゅっと噛み締めていたから、一つも声には出さなかったけど。
だんだん目の前がちかちかして、息が苦しくなってきたとき。近くの茂みががさりと大きく音を立てた。
見上げると、心底びっくりした顔の先生がいた。私も驚いていたら、まん丸に見開かれていた先生の目がきっとつり上がる。
「何故斯様な場所にいる、この愚か者!」
初めて怒鳴られたことにびっくりして、次にその口調にびっくりして、一拍おいて怒られたことに気づいた。途端、堰を切ったように涙が溢れ出す。滲んだ視界の中、先生が肩を跳ねさせたのが見えた。
「っすみません怒鳴ったりして、ああそんなに泣いて、怪我はありませんか?」
脈打つように痛む腕を持ち上げて見せる。先生が息を呑む音が聞こえた。
そして、私は気を失った。
全身がだるい。意識が戻って最初に思ったのはそんなことだった。熱いくせに震える身体が気持ち悪い。瞼を上げると薄明るい天井が目に入った。すう、と誰かの呼吸の音がする。ゆっくり視線を巡らせると、机に突っ伏して眠る先生の背中が見えた。机の上には様々な植物の根や葉や白い器がたくさん転がっていて、早朝の白っぽい光に照らされている。草の濃い香りが鼻を刺した。
身体を起こそうとして、痛みが走って思わず呻いた。その声で起きたらしく、寝起きとは思えない勢いで振り返った先生が、慌てた様子で私の顔を覗き込む。
「目が覚めましたか、痺れはありませんか? まずは水を飲めますか?」
背中に腕を回して起こされ、水を飲んで、左肘から先が少ししびれますと呟くように答えた。先生は頷き、再び私を横たえる。
「毒が完全に抜けるには数日かかります。その間はしっかり休みましょう」
その間は先生はまだ先生なんだな、なんて思って、私は自分が情けなくなった。こんなに迷惑かけて、なんてみっともないんだろう。私の目に滲んだ涙を困ったように見つめて、先生は慎重に話しかけてきた。
「なぜあそこにいたのか、理由を聞かせてくれませんか」
うう、と私は呻くように泣いた。正直に答えたらきっと呆れられてしまう。泣くばかりで答えない私を急かしもせずに、先生は柔らかな布で私の目元を拭っていた。今だけはやめてほしかった。心が揺れて、口から言葉が溢れそうになるから。
——でも正直に言えば、この人なら受け入れてくれるだろうか。
「……
涙が勢いを増して、それ以上は言葉にならなかった。しばし動きを止めた布が、再び私の目元に当てられる。
そっか、と呟いた先生の顔を、私は見ることができなかった。
十日後、私はすっかり本調子に戻り、
そして、数日に一度の宿に戻った私は、改まった表情の先生と向き合っていた。
「次の依頼は『
ぎゅっと手を握りしめた。ああ、とうとう来てしまった。
「今回俺はついていきません。依頼達成時、またはどうしても依頼達成が不可能だと判断した場合だけ、この宿に来てください。これを卒業試験とします」
はい、と答えた声は弱々しくなってしまった。泣かないように床を睨みつける。ふと、先生の纏う空気が緩んだ。
「それで、ものは相談なのですが。無事に卒業試験に合格したら、俺と一緒に来ますか?」
私は弾かれたように顔を上げた。先生は苦笑して言葉を続ける。
「協会に掛け合って、条件付きで許可は得ました。俺は流れの冒険者ですから、落ち着いた暮らしも安定した暮らしもできませんし、しばしば危険も伴います。君がそれでもいいと言うのなら」
「行きたいです!」
馬鹿みたいに大きな声で、私は答えた。数度瞬いた黄金が柔らかに細まる。この黄金色を失わなくていいのだ、と思った私の目から、またもぼろぼろ涙がこぼれた。先生の前で初めて泣いた時から、私はすっかり泣き虫みたいだ。手で拭っていると、ぽすんと頭に手が乗せられた。その手は恐る恐る頭頂から後頭部へ下りていき、同じ動きを繰り返す。
リボンを結んでもらうことはあっても、頭を撫でられたのは初めてだ。その手がやたらとぎこちないのがおかしくて、私は声を上げて笑ってしまった。
それから数日後。先生と生徒じゃなくなった私とその人は、一緒に町を出発した。
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