子猫はゆめうつつに揺蕩う

 夜が明けても、雨は変わらず降り続けている。


 ベッドの上に座って、チコは目の前でニコニコ微笑む女性を見るともなく見ていた。


「——じゃあ、最後の質問に行きますね〜。あなたはキルト氏の逃亡先に心当たりがありますか?」

「ありません」


 ぺしり、不機嫌な尻尾がシーツを叩く。チコは長時間の取り調べに疲れ果てていた。質問の答えはほとんど「知りません」で、こんな取り調べに意味があるのか疑問に思う。でもチコは本当に知らないのだ。キルトの生まれも、育ちも、家族も、友人も、何もかも。唯一師匠の存在だけは知っているが、それだって名前すらわからない。一つ質問に答えるたび、お腹の底がひんやり冷たくなるようだった。


「はい、正直で大変よろしい。滞りなく終わってよかったです〜」


 ニコニコ笑顔を崩さない協会職員が、嘘発見器 兼 録音機の魔道具を片付けた。


「質問はこれでおしまいですが、何か思い出したことなどありましたらその都度ご報告ください〜。チコ氏は重要参考人なので、しばらくこの支部からの外出は禁止です。あと余計な騒動を避けるために、部屋に軟禁されていただけると助かります〜」


 チコは扉に目を向けた。向こうから怒声が聞こえてくる。


『女の使役者を出せ!』

『一般の面会はお断りしております』

『出せ! 魔物の居所を吐かせてやる!』

『ちょっと、困りますってば』


 どうやらチコがキルトの使役者ということになっているらしい。ばかだな、とチコはぼんやり思った。怒声は熱を増していき、お前たちでは話にならないだの、脅せば一発だのと騒がしい。声はだんだん近づいてきて、目の前の職員がニコニコしたまま青筋を立てた。突破されるなんて再教育が必要ですね〜ちょっと失礼します、と呟いて立ち上がる。


 激しい音を立てて、扉が乱暴に開かれた。全身を包帯に巻かれ、目をぎらつかせた犬獣人たちが押し入ってくる。涙目の職員が廊下の奥に押しやられるのが入り口から見えた。


「いたぞ、使役者だ!」

「うるせえですよ無能ども。てめえらの不正確な情報のせいでこちとら双容デュオの討伐依頼出した後始末で忙しいんですとっとと帰れ」


 ニコニコ笑顔の職員からドスの効いた声が出て、犬獣人たちが一瞬ひるんだ。一番早く立ち直った一人が気を取り直して叫ぶ。


「あれは獣人じゃない、魔物だ!」

「あらあら、魔物の定義をご存じない?」


 するりと犬獣人の間をすり抜け、チコを守るように職員の隣に立ったのはシェリーだった。


「言語が通じ、互いの不断の努力によって共生が可能な生物は魔物じゃないのよ。それ以外が魔物。どう考えたって、キルトくんは前者でしょうに」

「適当なことを言うな! あれは魔物だ!」


 一人がシェリーに掴みかかる。その顔面に炎が吹き付けた。慌てて顔面を覆って引き下がる犬獣人をシェリーは鼻で笑った。手に持った杖でカンっと床を打つ。


「バカは嫌いじゃないけど、話を聞かない奴は大っ嫌い。しつこい奴はウェルダンよ?」

「施設や備品は燃やさないようにお願いします〜」


 ニコニコ笑う職員の方を与し易しと見たのか、他の一人が職員に殴りかかる。瞬きの間に、その身体は床に叩きつけられていた。職員がパンっと手を合わせる。


「マナーの悪い冒険者様への指導も仕事のうちですから〜……腹くくれよお?」


 二人の女傑によって、犬獣人たちはあっという間に部屋から追い出されていった。怒号と悲鳴が遠ざかっていく。置いてけぼりをくらったチコは目を瞬かせた。


 怖かった? ——ような気がする。

 悲しかった? ——ような気がする。

 嬉しかった? ——ような気がする。


 チコはどうにも自分の感情がわからなかった。少し前までは、怖ければ震えて、悲しければ泣いて、嬉しければ笑って、それは心と身体のどちらが先というわけでもなかったし、考えるまでもなかった。今はなんだかはっきりしない。悲しくないから泣いていないのか、悲しいけれど泣いていないのか。泣いていないから悲しくないのか、泣いていないけれど悲しいのか。

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