子猫の悪夢のはじまり

 目を開けた。世界が回って、もう一度目を閉じた。頭が痛む、めまいがする。


 なんだか、とてもひどい夢を見た。


「チコちゃん、起きた?」


 シェリーの静かな声が聞こえて、チコは疑問に思った。宿の布団で横になったはずなのに、なぜシェリーがここにいるのか。寝そべったまま薄目を開けて視線だけ向けると、ランプの灯りに照らされて、シェリーがベッドサイドに座っていた。その景色もぐるりと回り始め、小さく呻いて目を瞑る。


「ああ、脳震盪かしら。ちょっと待ってね……【癒しを】」


 治癒魔法をかけられてめまいが治まり、まともに目を開けて見て、ようやくチコはここが宿でないことに気づいた。


「ここ……協会の治療室ですか? どうして? キルトさんは?」

「……よく、聞いてほしいのだけど」


 シェリーの弱々しい笑みの中、瑠璃だけが力強く輝いて見えた。


 シェリーは訥々とチコに説明してくれた。魔物と使役者の捜索中、突然獣人たちが苦しみ始め、巨大な獣型に変じて暴れ出したこと。ガルとチコも例外でなく、キルトが全員沈めたこと。

 チコが夢だと思っていたものは夢ではなかったのだ。自分の身体が制御できず、巨猫になって暴れ出したことも、シェリーとキルトを危うく傷つけるところだったことも。あの時チコは全身を埋め尽くす激情に思考も身体も乗っ取られたようになっていたが、自分が何をしたかは全部記憶に残っていた。自分の所業とは思えず夢だとばかり思っていたのに事実だと告げられ、チコは取り乱して謝罪した。


「ごめんなさい、攻撃するつもりなんかなかったはずなんです、あの時はおかしくって、音が、音のせいで狂ったんです」

「いいのよ、チコちゃん。結局みんな生きてるんだから。二度とはゴメンだけど、それはお互い様でしょ?」


 ひらりと手を振ったシェリーは、音……笛……? と呟いて、チコに少し待つように言うと治療室を出て行った。


 チコは改めて部屋を見回した。窓の外は真っ暗で、しとしとという雨の音が聞こえる。光源は吊り下げられたランプしかないが、猫獣人の目には十分だ。どうやら個人部屋をもらったらしく、他のベッドは見当たらない。戸棚には包帯や数え切れないほどの薬が並んでいて、全部の用途が分かる人間がいるとは思えなかった。

 いや、キルトならわかるかもしれない、とチコは思い直して、そして気づいた。あれが夢でないなんて、やっぱりおかしい。


 ちょうど戻ってきたシェリーが椅子に座るのも待てずに、チコは尋ねた。


「シェリーさん、やっぱり夢ですよね? だってキルトさんに猫の耳があるなんておかしいですもん」


 シェリーが顔を強張らせる。チコの心臓がどくりと跳ねた。


 歯切れ悪く再開された説明を、チコは呆然と聞いていた。キルトは禁忌の魔物で、単容ユニの姿は変化であったこと。双頭犬を弟と呼んだこと。使役者を沈めた後、他の冒険者を寄せ付けずに双頭犬を倒し、気絶して人型に戻った双頭犬を連れて逃走したこと。使役者は捕縛されてこの支部におり、目覚め次第取り調べられること。


 夢は夢ではなかったし、現実は悪夢のようだった。


「チコちゃんも、きっと色々聞かれると思う。キルトくんのことを一番知ってるのはチコちゃんだろうから」


 全然知らない、とチコは心の中で呟いた。チコはキルトが禁忌の魔物だなんて知らなかったし、弟がいることも知らなかった。ましてやその弟が、チコの故郷を滅ぼした魔物だなんて。


 チコちゃん、と呼びかけられ、チコは布団を頭からかぶった。何も見たくない、聞きたくない、考えたくない。しばらく経つと扉の音がして、シェリーが部屋を出て行った。チコはぎゅっと身体を丸める。


 泣きたいのだろうか。けれど涙は出なかった。

 怒りたいのだろうか。けれど声は出なかった。

 笑いたいのだろうか。けれど口元はひきつるばかりだった。


 布団にこもったのにどうしてか寒くて、チコは両手に震える息をはきかけた。

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