惑う子猫は決意した
ここ数日続いていた晴天はとうとう終わってしまったようだ。空は雲に覆われて薄暗く、吹き過ぎる風が少し肌寒い。雨の匂いはしないが、夜になったら降るかもしれない。
曇天を見上げてチコはため息をついた。寝不足のせいか頭が鈍く痛む。周囲で捜索活動に勤しむ冒険者たちは降って湧いた仕事に乗り気で、今のチコには馴染めなかった。
もう一度ため息をつき、平原を見渡す。犬獣人たちの嗅覚によると、対象はこの街道沿いの平原に潜んでいる可能性が高いらしい。冒険者たちはもっぱら点在する木立や背の高い茂みに群がっている。
「どこを捜しましょうか、キルトさん……キルトさん?」
返事が返ってこないので目を向けると、キルトは上の空で遠くを見ていた。チコがキルトの視線を追うと、その先には何やら相談している犬獣人たちの姿がある。
「あら、チコちゃんじゃない、こんにちは」
覚えのある声が聞こえて、チコはそちらを振り向いた。シェリーが手を振りながら近寄ってくる。ガルも一緒だ。
「キルトくんもこんにちは……あら? キルトく〜ん?」
「……え。シェリーさんにガルさん?」
シェリーにも二度呼びかけられて、ようやくキルトが気づいた。シェリーが片眉をあげる。
「なんだか二人とも顔色悪いわよ? キルトくんなんかそんなにぼんやりしてて大丈夫?」
「あは、私は寝不足です……」
「……まあ、なんとかします」
不安しか感じられない返答にガルが顔をしかめた。
「足引っ張るくらいならすっこんでろ」
「ガル、言い方。ごめんなさいね、でも体調がすぐれないなら休んでいてもいいと思うわ」
「いいえ、俺は大丈夫です」
即答したキルトとは異なり、チコは視線を彷徨わせた。迷いを見て取ったガルが殺気立つ。
「戦えねぇなら帰って寝てな」
「ガル! もう、アンタはキルトくんと先行ってなさい! キルトくん、チコちゃん貸してね」
返事も聞かずに、シェリーはチコの腕を引いてずんずん歩き出した。キルトとガルから十分離れると歩調を緩める。
「ごめんねチコちゃん、アイツ獣人の郷が滅ぼされたって聞いて気が立ってるの。それで……聞いていいかわからないんだけど、もしかしてチコちゃん、指令にあった魔物、知ってる?」
抑えた声で問われた内容に、思わずチコは立ち止まった。シェリーも合わせて歩みを止める。
「どうして……」
「チコちゃんが寝ぼけてたときに聞いちゃって。ちょっとだけね」
チコはシェリーの目を見つめた。気遣わしげな瑠璃色がチコを映している。
「嫌なら逃げたって、誰も責めないわ。戦いたい奴に任せなさい。ガルとかね」
「……わからないんです」
指令にあった魔物は、おそらくチコの故郷を滅ぼした魔物と同じだろう。使役者については覚えがないが、それ以外の特徴が全て記憶と一致していた。
怖い。遭いたくない。いつかのように恐怖にすくんでも、今度は助かるかわからない。
憎い。仇を討ちたい。これ以上の被害をなくすためにも、あれを討たなくては。
相反する感情がチコの身の内でせめぎあって、自分は逃げたいのか戦いたいのかわからなかった。
「そう。そうよね。全部亡くした気持ちが、そう単純なわけないわよね」
吐露した心境に返されたシェリーの言葉で、チコは気づいた。
「全部、亡くしました。キルトさんは強いけど、また、亡くすかもしれない。それは怖いから、嫌だから——私、戦います」
若葉色は潤んでいたけれど、確かな決意に燃えていた。
チコとシェリーが戻っても、キルトとガルはほとんど移動していなかった。対象の匂いを知っているはずの犬獣人達が動かず相談ばかりしているのが不思議で、動向を窺っていたらしい。
「犬獣人は鼻には自信がある。鼻の利かねぇ真人に捜索させるだけでもちっと納得いかなかったが、その上自分たちは動かねぇで何を話してんだ?」
「作戦会議は構いませんが、犬獣人だけで、ずっと、となると少々不信感が」
ガルは腕を組んでそちらを睨んでいたが、一瞬だけチコに目を向けて「悪かった」とつぶやいた。チコは首を振り、気にしないでと伝えた。
ひゅ、と息を呑む音がした。キルトが立てた音だ。犬獣人の輪に居た一人が大声をあげて指差すその先に、一つの人影があった。耳と尾からして犬獣人のようだ。他の犬獣人よりずいぶん若く、軽装に見える。少なくとも魔物と戦う装備ではなかった。
様子がおかしいキルトに声をかけようとしたチコは、しかし、声を上げることはできなかった。
その音は唐突に聞こえてきた。チコの意識は一瞬でそちらに奪われて、その音以外のことが考えられなくなる。綺麗な音ではない。むしろ全身の毛が逆立ち、腹の底がざわついて、じっとしていられないような、叫びだしたくなるような——きっとどんな断末魔の叫びよりも、ずっとおぞましい音だった。チコはたまらず耳を塞いでしゃがみこんだ。
シェリーは狼狽した。なんの前触れもなく犬獣人達がうずくまり、少し離れた位置で軽装の犬獣人も倒れ込んでいる。それだけでなく、ガル、チコ、キルトまで耳を押さえて苦しみだしたのだ。
その誰もから人の声とは思えない唸り声が発せられ、恐怖に後ずさったシェリーは杖を握りしめた。治癒魔法をかけるべきか迷っているうちに、ひときわ大きな咆哮が上がる。
シェリーの視界で、あの軽装の犬獣人の姿が膨れ上がった。髪色と同じ漆黒の毛が全身を覆う。四本の太い足が大地を踏みしめる。
もたげた首は、双つ。二対の黄金を獰猛にぎらつかせたその生き物は、地面が揺れるほどの雄叫びをあげた。
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