追憶
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その人は、いつも笑っていた。
時に楽しそうに、時に困ったように。
そして、いつも優しげに。
その人は滅多に怒らなかった。
その人は決して泣かなかった。
ただ、いつも微笑んで私を見ていた。
よりにもよって、と思った。
どうしてよりにもよって、この人なんだろう、と。
「はじめまして。これからしばらくの間、先生役を務めます。よろしくお願いしますね」
はい、と答えた声は、相手に聞こえたかどうかわからない。深くかぶったフードの端をぎゅっと掴んで引き下げた。目に入るのが足元だけになって、少しだけ安心する。『先生』はちょっと戸惑ったみたいだったけど、ついてきてください、とだけ言って歩き出した。
私はフードの中を覗き込まれなくてほっとした。これまでの人たちはみんな覗き込もうとしてきたから。どうしてみんな、ひとの顔や目を見たがるんだろう。言葉が聞こえて話せるだけで、お話するには十分でしょう? この点だけは、『先生』のほうがマシだった。
「野外中心の活動を希望しているとお聞きしました。ですから、冒険者としての依頼の選び方とこなし方に加え、魔物の生息地で生き延びるための戦い方や基本技術を教授します。目標は、野営を要する
どっちみち居場所がなくて、危険なのだって変わらないなら、町より森のほうがマシ。悪意よりは食欲に囲まれたほうがまだ息がしやすい。だから、私には森に居られるだけの強さが必要だった。
「つきましては、一つだけ約束してください。不用意に俺から離れないこと。町であれ森であれ、君にとっては危険だらけでしょうから」
思わず顔を上げてしまった。『先生』の顔が目に入る。それが笑顔であることはわかったけど。
その髪色も目の色も、嫌で嫌でしかたなかった。どちらか片方だけならまだ許せたのに、どうしてよりにもよって、両方その色なんだろう。
数日森で過ごしては、一日だけ町に戻って依頼の手続きと物資の補充をして、宿で身体を休める、という訓練を『先生』と数度繰り返した。私はちょっとずつ慣れてきて、できることも増えてきた。実力に見合った、割に合う依頼を選ぶこと。必要なものと良いものにお金を払うこと。安全な宿を探すこと。習い始めた剣はまだ実戦段階じゃないと言われているけれど、魔法は覚えの速さを褒められた。
最初は『先生』がつきっきりで教えてくれていたけど、最近は教わったことを私が一人で実践することが多くなった。今日の昼食の狩もその一つ。
そして今、狩った鳥を足元に置いて、私は立ち尽くしていた。
狩自体に問題はなかった。木に登って息を潜め、狙いを定めて鳥を撃ち落す。行動不能にしてから息の根を止めるところまで完璧だった。問題は他にある。
木の枝に引っ掛けたフードが破けて、大きな穴が空いてしまったのだ。一大事だ。フードを脱いで穴の部分をぎゅっと握ってみたが、それで穴が塞がるはずもない。どうしようどうしよう。『先生』のところに戻らなきゃいけないのに、このままじゃ戻れない。
布を寄せて捻ってみたり、切り取った蔓で縛ってみたりしたけど、被ると全部ダメになってしまう。
「……ああ、ここにいたんですね。遅いので心配しました」
声をかけられて、私の肩はびくりと跳ねた。慌ててフードをかぶって、せめて手で穴を覆う。『先生』が探しに来るほど、時間が経ってしまっていたらしい。
「狩は成功したようですが、どうかなさいましたか」
「……フードが、破けて……」
呟くような声しか出せなかったけれど、『先生』には聞こえたらしかった。一つ頷いた『先生』が手を差し出す。
「針と糸が俺の鞄にあります。一緒に戻りましょう」
手を引かれて歩く間はフードと片手でなんとかなっていたが、当然、繕ってもらうためには脱がなきゃいけない。
とっても、本当に嫌だったけど、私はフードを脱いで『先生』に渡した。『先生』は慣れた様子で穴の位置を確認して、なめらかに針を動かしていく。
私は拍子抜けした。
あっという間に直ったフードを返されたとき、思い切って訊いてみた。
「変って、言わないんですか」
「変?」
「私の、髪」
「珍しい色ですよね、綺麗だと思いますよ」
嘘だ、と思うのに、全然嘘には聞こえなかった。無駄に明るくしたり、優しくしてない、普通の声。
「変なんだよ、みんな言うもん」
『先生』の顔を見ないように、受け取ったフードを頑なに睨んで、口から出たのはそんな言葉だった。ぎり、と胸の奥が絞られたように息がしづらい。返事がないことに不安になった頃、かちりと鞄の蓋が閉まる音と一緒に話しかけられた。
「少し、髪を触ってもいいですか?」
一瞬身体が固まったけど、ぎこちなく頷けば、『先生』は手でゆっくりと私の髪を梳き始めた。顔の横あたりの髪をひと束とって、どこから取り出したのかリボンを結ぶ。
「……うん。よくお似合いです。もっと可愛くなりました」
優しく笑って真正面からそんなことを言ってくるから、私は急に恥ずかしくなって、思いっきりフードを被った。
今日は、全然うまくいかない日だった。
解けた靴紐を踏んで転ぶし、葉っぱで手を切るし、狩ろうとした小鹿には逃げられて、肉が足りない料理は味付けが濃すぎた。とびっきりは、悪夢を見て夜中に飛び起きて、『先生』まで起こしてしまったこと。ダメダメな私につきあわせて本当に申し訳ない。
『先生』は震える私の肩に毛布をかけた後、小鍋を火にかけて何やら作っていた。その様子をぼんやり眺めていれば、次第に私の震えは収まった。それほど時間を置かず、『先生』は湯気の立つコップをもって私の隣に座る。どうぞ、と言って渡されたコップの中にはホットミルクが入っていた。甘い匂いがする。コップはとても温かいのに、私の手は震えた。
悪夢が蘇る。渡されたミルクを飲んで。眠気に負けて。次に目が覚めたときには——。
「……ああ、しまった。ミルクが足りません。すみませんが、半分わけていただけませんか」
話しかけられて、意識が今に引き戻された。空っぽのミルク瓶を振って見せる『先生』に震える手で私のコップを差し出せば、受け取った『先生』は空のコップに半分を移し、残りを私に返した。なおもためらう私を気にもとめず、『先生』は自分のコップを傾ける。
「——懐かしい」
目を伏せて呟かれた言葉は、私に聞かせようとして言ったんじゃなくて、思わず溢れたというふうだった。私は自分のコップを見る。さっきよりも美味しそうに見えた。
恐る恐る口をつけると、思ったよりも
お礼を言おうと隣を見上げたら、月と焚き火に照らされた『先生』と目が合った。逸らさずにじっと見つめる。こんなにちゃんと『先生』の顔を見たのはきっと初めて。今までずっと避けていたから。
闇夜に溶け込む黒い毛並み。燃える家に照らされた黄金の目。郷を、私の家族を滅ぼした魔物とそっくりだと思っていたけど、本当は全然似ていなかった。傾げた首に合わせて揺れる黒も、笑うときに細まる黄金も、私を決して傷つけない。
「——ちょっとは、あったまりました?」
首を傾け、微笑んで尋ねる『先生』の柔らかい声を聞いて。私の目はぽかぽかが移ったように熱くなって、喉がぐうっと苦しくなって、息を吸ったらおかしな音が鳴って。
その人の前で、初めて私は泣いた。
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