うそをまことに、まことをうそに

 日が十分昇ってから、四人は巣穴を出発した。たくさんの夢幻兎に見送られて歩き出す。最後まで駄々をこねまくっていた幼毛玉の声だけは、巣穴が幻に隠された後でもしばらく聞こえ続けていた。


「お留守番時のチコ……」

「何か言いましたかキルトさん」

「いいえ何も」


 チコがキルトをキッと睨みつければ、キルトは即座に誤魔化す。ぷんすかしながらも索敵を怠らないチコは、木々の奥からの視線に気づいた。


「みなさん、左方に紡錘熊がいます」

「えっっ水、水」

「遭遇率高くねえ?」


 慌てて杖を構えるシェリーと、うんざりしたように剣を抜くガルとは異なり、キルトはちらっと紡錘熊に視線をよこすだけだった。


「血染みがあるし、昨日の味方のほうだよね、チコ」

「そうだと思います」

「味方ぁ? オメェ気性が荒いとかなんとか言ってたじゃねぇか」

「それに、紡錘熊が暴れてたって」


 進行方向の幻を破って、キルトは前に進んだ。


「正確には、紡錘熊、対、紡錘熊とチコと夢幻兎の連合軍でしたね。攻撃してこないなら無理に相手をする必要もありません、警戒しつつ進みましょう」


 しばらく歩いていれば、紡錘熊の姿は見えなくなり、視線も感じなくなった。襲うでもなく、ついてくるでもなく、本当にただ四人を見ていただけらしい。ガルが剣を収めた。


「なんだったんだありゃぁ」

「アタシたちが最初に遭遇したときは、もっと問答無用! って感じで襲いかかってきたんだけど」


 困惑しきりの二人を横目に、チコは先頭を行くキルトの背をつついた。


「なんででしょうね、キルトさん」

「……さてね」

「なんか確信ありげでしたけど」


 キルトがチコを見下ろすと、純粋な好奇心を湛えた若葉色に見つめられた。思わずたじろぐ。


「……ただの仮説だよ」

「聞きたいです!」


 チコがキルトの隣に並ぶ。背後からも突き刺さる視線を感じて、キルトは観念した。


「『空の彼方の魔法使い』や、『魚になった幻術士』という昔話を聞いたことはないかな」


 ある、と答えたシェリーの声の後、ぺしんとはたかれる音がした。チコは首を傾げていたので、キルトは話の説明から入ることにした。


「簡潔にいうと、魔法使いが変化の術で鳥や魚になり、空や海に出ることを繰り返していたら、ある日出かけたまま帰ってこなくなったというお話。魔法使いは自分が変化していたことを忘れて、本物の鳥や魚になってしまったと解釈されることが多いね」

「突然の怖い話やめてください」


 チコの尻尾がぴしっとキルトの足を打つ。変化を使うチコには他人事でないので余計に怖い。キルトはごめんごめん、と気のない謝罪をした。


「結論から言って、あの紡錘熊は夢幻兎が変化して、そして本物になってしまった姿ではないかな」

「……頭に治癒魔法かけたほうがいいです?」


 チコに胡乱な目を向けられたキルトは手を振って断る。


「仮説だって言ったでしょう、可能性の話だよ。例えば、チコが同じ体格の人間に変化して戦うのと自分の本当の姿で戦うのだと、どっちが強い?」

「変化の維持に意識を割かない本当の姿の方が強いに決まってるじゃないですか」

「幻は破られ、変化でも敵わない紡錘熊相手に夢幻兎が勝とうとするなら。本物になれるならそうすると思うんだ。あの穏やかな紡錘熊は大怪我を負っても姿はぶれず、俺の目にも変化や幻には見えなかったけど、見かけが完璧で行動が不自然というのは慣れない相手に変化した際によくあることだよね」

「確かに敵の紡錘熊には幻も変化もろくに通用してませんでしたし、味方の紡錘熊も、戦闘慣れしてないというよりは全体的に動きがぎこちない感じだったかもしれませんけど。そんな、変化が本物になるなんて突拍子もないことあり得るんですか?」


 チコはなおも懐疑的だ。キルトは眉を下げて笑う。


「さっき挙げたような昔話が世界中に存在することとか、変化を多用する魔物が必ず群れるのは本来の姿を忘れないためという説とか、それらしい話には事欠かないけれど、確かな証拠は一つもないよ。

 まあ、あらゆる上級魔法は常識を捨ててからが本領みたいなところがあるし、ありえなくはないんじゃないかな。大昔の幻惑魔法の指南書にも書いてあったらしいし」


うそまことに、まことうそに。これぞ幻惑の奥義』


 淡々と語るキルトの声を聞いていると、だんだんとチコにもそれが本当のように思えてきた。三角耳がぺたんと倒れる。


「怖くてもう変化できません……」

「念の為、同じものに頻繁に化けたり長時間化けるのはやめておくのがいいかもね」


 キルトはぽすりとチコの頭に手を置いて撫で始めた。その数歩後ろを歩くシェリーは、隣のガルが落ち着かなげに耳を動かすのを見て話しかけた。


「どうかした?」

「……や、気のせいかと思ったんだが。さっきの紡錘熊、俺が戦った奴とは匂いが違ったんだよな。夢幻兎だって言われりゃ、ああ、似てんなとは思う」

「ええ!? いやいや……」


 シェリーはキルトの話を興味深く聞いていたが、同時に疑わしいとも思っていた。なんでもありにもほどがある。ガルも難しい顔をしており、完全に信じたわけではないようだ。

 長い尻尾をヒュンと振ってチコが振り向く。若葉色はうっすら涙目で、への字にしていた口を開いた。


「幻であれ変化であれ、五感のうち最も騙しにくいのは嗅覚、というのが通説なんですよ」


 シェリーとガルはぞわりと寒気を覚えた。理解し難いものを目の当たりにしたのかもしれない、と。


 一人キルトだけが穏やかに微笑んだ。


「この仮説は証明できません。まことになってしまったうそは、もう誰にも暴くことはできないんですから」


 まばらになってきた木々の間を、下草を踏みしめて歩みを進める。森のおわりは、もうすぐそこだった。

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