子猫は泣き出す

 チコは混乱していた。眼の前で起きていることが理解できない。一体どういうことなのか。


 キルトだと思ったら魔物が出た、これはわかる。仕方ない、期待はしばしば裏切られるものだ。しかしただでさえギリギリの戦況に敵が増えて絶望的な気分になった。


 と思ったら、増えた魔物が元からいた敵を攻撃し始めた。まあわからなくはない。群れを作らない、縄張り意識が強い魔物なんかは、特に同種の魔物に手厳しい。


 そして、増えた魔物は敵じゃなかった。これが全然わからない。化けた毛玉やチコのことを一切攻撃してこないのだ。最初チコが敵だと思って攻撃したときも、剣を弾きこそすれ反撃はしてこなかった。よくよく思い返せば毛玉たちは最初から攻撃していなかった気もする。同種の魔物の一頭が敵で一頭が味方なんて、そんなことがありえるのだろうか?


 さっきからチコの思考はこれで埋め尽くされていた。鍛錬の賜物で迎撃や防御は問題なく行えているが、戦いに集中できないのは良くない。助太刀(?)のおかげで多少マシになったとはいえ、厳しい状況に変わりはないのだ。


 ちょっと毛が乱れた程度で無傷の紡錘熊と、ところどころに血のしみを作り荒い息をつく紡錘熊。前者が敵、後者が味方だ。両者の戦闘技術の差が如実に表れていた。

 チコたちの苦戦の原因となっていた毛皮は、同種の爪は通すようだった。おそらく槍のように細く突き刺す形の武器ならば攻撃が通るのだろう、とチコは分析した。けれど味方の爪や、チコが魔法で作り出した氷の槍は、全て敵の肉体に刺さる前に弾かれ振り払われた。そして敵の爪を防ぎきることはできなかった。その結果がこれだ。


 チコは敵から距離を置いて再び魔法の槍を放ったが、槍は放ったそばから破壊された。味方が振るった爪は敵の爪に絡め取られ、続けて頭突きを食らった味方は膝をつく。助けようとチコは駆け寄り、その足から、一瞬、力が抜けた。


「——へ」


 疲労の限界に達した膝がかくりと折れ、走った勢いのまま転んだチコは敵の前に身を投げ出してしまった。爛々と光る魔物の眼、そして差し向けられた長い爪が、チコの視界を占めた。


「——キルト、さん」


 震える声が口から溢れ出た。止まってしまった身体はすくみあがって、もう避けられそうにない。これまで何度か助けてくれた毛玉は数を大幅に減らされて、そばには一匹もいなかった。


 強く目をつぶったチコの身に与えられたのは、しかし、痛みと死ではなかった。


 ぬくもりに包まれて、ぐいと引っ張り上げられる。天地がぐるりと回って、速い心音が耳についた。


 そして聞こえた、待ち望んだ人の声。


「チコ! 無事?」


 目を開ければ、見慣れた黄金色の目に覗き込まれていた。チコと目が合うと安堵したように目尻を下げる。こわばっていたチコの身体から緩やかに力が抜けていった。


 ちら、とよそを向いたかと思うと、キルトはチコを抱えたまま飛び退いた。振り下ろされた爪が地面をえぐる。キルトの瞳が苛烈に燃えた。


「すぐ終わらせるから。少しだけ待ってて」


 一度巣穴まで戻り、毛玉たちの隣にチコを下ろして、キルトはすぐさま戦場に戻った。目をつぶって長く息を吐き、凶暴な衝動を鎮める。


 今やるべきは脅威の迅速な排除だ。履き違えるな。痛めつけることでも殺すことでもない。


 息を吸いながら目を開ける。取っ組み合う二頭の紡錘熊に向けて水魔法を使った。


「【水よ、爆ぜろ】」


 二頭の真ん中に水球が生じ、避ける間も無く破裂した。その勢いに押されて離れた二頭が吼え猛る。昨日よりだいぶ水量が多いが、一応死ぬほどではないしいいだろう、と考えるキルトは、やはり冷静ではないかもしれなかった。


 全身を震わせて水を飛ばした一頭の紡錘熊が、なおも爪を振りかざす。ひくりと眉を動かしたキルトは追加の水球を紡錘熊の周りに浮かべた。


「まだやろうってんなら……ってもいいけど」


 爪を振り下ろせば水球が割れて濡れてしまう、という状況に置かれて、とうとう紡錘熊が怯んだ。水球に触れないように慎重に後ずさりし、十分離れたところで背を向けて一目散に駆け出した。

 その後ろ姿が見えなくなるまで見送ってから、キルトはもう一頭に向き直る。濡れた身体を気にした様子もなく、キルトを襲う様子もない。らしからぬ行動をとる紡錘熊を、キルトは訝しんだ。


「これはいったい……?」

「キルトさん、そっちは味方なんです! 殺さないでください!」


 よろめきながら走ってきたチコに腕を貸しながら、キルトは納得のいかない顔で紡錘熊を見上げた。


「味方? 紡錘熊が?」

「そうです! 助けてもらいました! キルトさんが来るまで!」

「ぐっ」


 差し出された腕にしがみついて遠慮なく体重をかけ、チコは意図せずキルトの心を突き刺した。本来キルトが責められるいわれはそこまでないのだが、安全をとって遅くなったことにキルトは負い目を感じていた。


「とりあえず【火よ、水を飲み干せ】」


 紡錘熊の足元から立ち上った火は、一瞬のうちに毛皮の水分を奪って消え去った。紡錘熊は驚いたように唸ったが、キルトに警戒の目を向けるにとどまる。チコがキルトの袖を引いた。


「あの、キルトさん。できればその、あの紡錘熊? と、あそこの毛玉たち、癒してあげられませんか。私もう魔力も限界で……」

「……チコ、これまでも何度か言ったと思うけど、」

「自然の摂理に、むやみに手を出してはいけません……でも……」


 チコの視線の先には、折り重なるように倒れ伏し、ぴくりともしない毛玉たち。それを鼻先でついてはしきりに舐める毛玉たち。似たような光景を何度か見てきたが、いつだってチコには受け入れ難かった。引き結ばれた口元が痛々しく、キルトは努めて優しく語る。


「……自分たちを自然の摂理の外に置いている時点で、傲慢には変わりないのだけどね。救うも驕り、救わぬも高ぶり」

「それなら高ぶるより、驕るほうがいいです……」

「まあ、責任を取れないならせめて何もするな、みたいな意味合いも含んでいるから。でも今回ばかりは、人間本位の判断としては、驕るほうが正しいかな」


 弾かれたようにキルトを見上げるチコに、キルトは苦笑し、詠唱した。


「【癒やせ、四方をへだてなく】」


 チコの身の内に、暖かな風が吹き抜けたような心地がした。戦いでできたあざやすり傷が音もなく消えていく。不可視の癒しの風があたり一帯を吹き渡って、虫の息だった毛玉たちが何匹も首をもたげ、足を動かして起き上がろうと動き始めた。


「まやかしの森固有種、森の管理者とも言われる夢幻兎が減りすぎるのは、人間にとっても困るからね。だから今回だけ特別。本来素人判断は禁物だ、ということだけは忘れてはいけないよ」


 キルトの言葉に耳を傾ける余裕は、もうチコにはなかった。キルトの肩に顔を埋めたチコは、歓喜と、安堵と、遅れてきた恐怖と、湧き上がるたくさんの感情のままに、声を上げて泣いた。

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