保護者の魔法講座

 日がある程度昇ってから、朝食と火の始末を済ませた三人は移動を始めた。


「急がなくてよかったの? キルトくん」


 夜明けと同時に出発してもよかったのではないか、と気遣わしげに訊いたシェリーに、キルトは苦笑いで答えた。


「急ぎたいのは山々でしたが、この森では真っ暗な夜以上に、薄暗い、薄明るい時間帯が危険です。下手を打ってチコを迎えに行けなくなっては困りますから」

「夜より夜明け時が危険? そんな魔物いたかしら」


 考え込むシェリーにキルトはひらりと手を振る。


「特定の魔物がどうこうではなく、幻の強度が上がって破りづらいんです。何も見えない暗闇より、何か見える気がする薄暗がりのほうが、思い込みが強いんでしょうね」

「幻なんかそんなに警戒するもんかねぇ。こいつも幻だろ?」


 ガルが木の実をかじる栗鼠を指差した。犬獣人の嗅覚を使い、匂いがしないものを幻として判別しているらしい。キルトが制止の声を上げる前に、栗鼠がガルの指に噛み付いた。


「っっえ! は? 本物だったか?」

「ガルぅ! 幻には細心の注意を払ってって言ったでしょ!? 幻だからって放置した蛇がいつの間にか本物にすり替わってて死ぬのとかざらにあるんだからね!?」

「うーん、それ本当に本物にすり替わったんでしょうか。少なくとも今の栗鼠は幻でしたけど」


 思いがけない失態にガルの耳は倒れ、眉はハの字に下がってしまった。シェリーが噛みつくように説教をしつつ、一旦立ち止まって手当を始める。


「幻が攻撃とかありかよ……」

「幻惑魔法の中級術ですね。『栗鼠に噛まれたら怪我をする』というガルさんの知識というか、思い込みが、ガルさんの魔力を使って実現されてしまったんです。幻を『見破る』のと『破る』のとでは少し意味が違うんですよ」

「待ってアタシ魔法使いなのに知らない。幻惑魔法なんて大道芸人くらいしか使わないと思ってたわ」


 止まった歩みを再開しつつ、シェリーが肩を落として落ち込んだ。キルトは慌ててフォローに回る。


「幻惑魔法は世界的に廃れていますし、仕方ありませんよ。俺も師匠以外では特定の魔物しか使っているところを見たことがありません。それに知っていたところで結構何でもありなので、結局よくわからないんですよ、幻惑魔法って」

「詳しくお願い」


 瑠璃が強く輝く。その目にやや気圧されながらもキルトは解説を始めた。人差し指を立ててみせる。


「まず、自分の作った幻を自分の思い通りに動かすのが初級術です。一般的な幻の認識でいいでしょう。術者の作り込み具合にもよりますが、さわれるようにしたり、複雑な行動をさせたりするのは困難です。大道芸で使われるのもこれでしょうね」


 続いて中指を伸ばす。


「次に、幻を認識した他人の思い込みで幻を強化するのが中級術です。『栗鼠は噛む』『噛まれると血が出る』という思い込みがあると、栗鼠の幻には噛まれますし血が出ます。また強化は認識者の数だけ認識者の魔力を用いて行われるので、ガルさんは三人分の認識と魔力で強化された幻に攻撃されたことになります。幻の挙動が認識者の思い込みに大きく左右されるので制御はほぼ不可能ですが、術者にとっては低魔力高効果の便利な術です」


 シェリーは頷きながら聞いているが、ガルには難しかったようであからさまに興味を失っていた。キルトは薬指を伸ばして説明を続ける。


「最後に上級術が変化へんげ。初級と中級が無を有に見せかける術とすれば、上級は有を異なる有に作り変える術です。傾向がかなり違うので、どうして幻惑魔法の分類なのか正直疑問ですが……もうこれは物質転換、本当に何でもありなので解説は諦めます。昔話によくあるやつです。はい」

「変化の説明だけ投げやりすぎない?」

「ごもっともですが、俺にも説明できるだけの理解がありません。この森で最も警戒すべきは中級術なので、ご容赦ください」


 上級術は曖昧に流す。案の定シェリーに突っ込まれたが、物質転換を真面目に説明するほど無謀なこともないのでキルトは強制的に切り上げた。手を開いてくるりと回す。


「そして、そこにあるものが幻もしくは変化だとわかった時点で『見破る』に相当します。『破る』の前段階ですね。その存在を全否定して術を抹消するのが『破る』です。『見破る』だけでは先ほどのガルさんのように幻の影響から逃れられません。まあ存在の全否定なんて抽象的な技を使わなくても、強度の低い幻は一定の攻撃で『破る』ことができますが」


 なんだか雲をつかむような魔法でしょう? とキルトは笑った。シェリーが眉間にしわを寄せて唸る。


「中級術は幻を認識した者の思い込みに左右される……ってことは、戦闘や怪我の経験が豊富な者ほど危険?」

「その通りです。蛇の話がありましたが、本物の蛇を見たことがない者の前では、中級術製の蛇はろくに動きません。噛まれて毒に苦しんだことがある者の前では、その毒まで再現されます。

 最も恐ろしいのは、『勝てない』と思い込んでいる限り、幻を破る以外の方法では勝てないということです。逆に『負けない』と思い込んでいれば中級術は初級術より倒しやすいのですが、これはごく少数派でしょうね。紡錘熊ぐらい生来の強者なら当てはまるかもしれませんが」

 

 理解は半ば放り投げたものの、聞くだけ聞いていたガルが口をへの字にした。


「勝てねぇとまでは言わねぇが、勝てるかどうかわからねぇ、ぐらいは戦士全員思うだろ。つかそうじゃねぇと油断になる」

「勝つと確信して戦うのは愚か者のすることですからね。けれど、愚かでなくて、敗北を知っている、経験豊富な戦士ほど、破れない幻には勝てないんですよ」


 シェリーとガルが心底嫌そうに顔を歪める。その表情があまりにそっくりで、キルトはくすりと笑った。行く手を阻む幻を手で払うように破り、目的地で足を止める。


「ここですね、昨日俺とシェリーさんが会った場所。俺がチコの痕跡を見つけた最後の場所です」

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