子猫と毛玉の大奮闘
チコに紡錘熊の知識はない。けれど、容易には勝てない相手だと一目で見て取れた。本能的な恐怖に毛を逆立てた尻尾をさする。毛玉達は何をしているのかと考えて、外の様子にすぐに知れた。
外にいた狐が一匹、紡錘熊に向かって飛びかかった。その爪が届く前に、狐は紡錘熊の腕の一振りで吹き飛ばされ、糸が解けるように消え去った。チコより前にいた毛玉が低く唸る。毛玉がけしかけた幻が敗れ去ったのだった。
紡錘熊の前に紡錘熊の幻が作られ、先ほど本物がしたのと同じように腕を振り回す。その爪が本物に届くより先に、幻は本物の爪で深々と突き刺されて動きを止めた。紡錘熊の幻が消える。
出入り口の一番近くにいた毛玉が三匹飛び出し、狼に化けた。毛玉の時の鈍さが嘘のように巧みに紡錘熊の爪を避け、足に、腕に、首元に噛み付いた狼たちは、しかし容易に振り払われる。立ち上がるのが遅れた一匹を爪の追撃が襲う。
息を飲んだチコの目の前で、腹を裂かれた狼が毛玉の姿に戻った。すかさず一匹の狼が紡錘熊の気を引き、もう一匹が怪我を負った毛玉を咥えて巣穴に退却する。入れ替わるように数匹の毛玉がそれぞれ化けて戦いに出た。
息も絶え絶えな毛玉の傷を周りの毛玉が舐める。チコは思わず手を出した。
「【癒やせ、癒やせ。血よ収まれ、肉よ塞げ、皮よ覆え】」
治癒魔法の力で血が止まり、肉が蠢いて傷が塞がった。失った血の量によっては助からないかもしれないが、呼吸はさっきよりも落ち着いたようだ。
そうこうしているうちに次の負傷者が運ばれてきた。紡錘熊の方に目を向けると、狼、熊、鷲などに化けた毛玉たちが連携して戦っているものの、戦況は芳しくないようだ。チコは唇を噛み締めた。
『自然の摂理にむやみに手を出すものではないよ』
記憶の中のキルトさんが諌める。知ってます、と心の中でチコは答えた。
『己の生存を第一に行動すること』
約束が頭をめぐる。わかってます、とチコは呟いた。でも、と。
「残念ながら……私はまだ、我慢がきかない子供のようなので……!」
怪我をした毛玉に治癒魔法で応急手当てを済ませ、チコは巣の外へ飛び出した。
腰から剣を引き抜き、鷲に伸ばされた爪をいなす。その攻撃の力強さに顔をしかめた。まともに打ち合ったらすぐバテてしまうだろう。
紡錘熊の攻撃の隙をついて足に切りつける。ほんの僅かに毛が散ったが、あまりの手ごたえのなさに目を見張った。向かってきた爪を避ける。
自分への攻撃を避け、毛玉たちへの攻撃をいなして被害を抑えつつ、チコは思考を回した。
毛皮が厚くて剣は通らない。通りそうなところも目視では見つからない。目や口があるといえばあるが、二足で立った巨体の顔を狙うのは少々困難だ。というわけで、毛を刈りたい。しかし剣でちまちま刈っていたらその間に自分が狩られる。よって、
「【炎よ、燃え盛れ】!」
毛玉たちが紡錘熊から離れたタイミングで、チコは炎魔法を繰り出した。紡錘熊は足元から景気よく燃え上がる。驚いたような雄叫びに効果ありと確信したチコは、燃える腕で振り下ろされた爪の先ほどまでと変わらぬ鋭さに眉を上げた。
ほんの数秒で炎が収まった後、そこに毛皮は健在だった。
「耐火装備とか聞いてないんですけど……っ!」
確信が外れて少なからずショックを受けたチコだったが、紡錘熊の膝の裏を打って体勢を崩し、攻撃の先をブレさせる。紙一重で爪を逃れた狼が退却していった。毛のせいでわかりにくかったが、割と一般的な関節のつき方をしていたのは僥倖だった。
毛は刈りたいがひとまず保留とし、次の手を考える。勝てそうにないなら次に考えるべきは逃走なのだが、毛玉たちが逃げない以上、チコが見捨てて逃げるのはためらわれる。最終手段にしておきたい。
仕留められないまでも、相手が割に合わないと思うくらいの損失を与えれば、向こうから逃げてくれる可能性が高い。毛がだめなら爪を折るくらいしか思いつかないのだが、いなしている感じでは爪を折るより先に剣かチコの骨が折れる。
どうしましょう、とチコは現実逃避ぎみに想像上のキルトさんに問いかける。想像上のキルトさんはにっこり笑った。どうにもならない時の笑顔だった。
「うわあああんキルトさぁん!」
泣くと視界が悪くなるので涙こそ流さないが、チコは情けなく悲鳴をあげた。もともとチコは奇襲・速攻タイプなのだ。持久戦には向いていない。勝ち筋が見つからないまま長引けば、それだけ死が近づいてくる。
がさり、茂みをかき分ける音がした。はっとそちらへ顔を向けたチコが避け損ねた爪に、猪が体当たりして軌道を逸らす。チコは慌てて紡錘熊に意識を戻したが、何かが近づいてくる音に期待を止められなかった。
「……キルトさん……!」
がさり。
茂みから一つの影が躍り出る。
現れたのは亜麻色の巨体。
それはもう一頭の紡錘熊だった。
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