保護者は保護する

 時間は少々遡り、チコが現水晶(幻)拾いにはしゃいでいた頃。方角を確かめて木から降りてきたキルトは、チコがいないことに愕然としていた。


「……今度は何に夢中になったのかな」


 チコは好奇心旺盛な子猫みたいな性格をしている。最低限の安全確認の意識は叩き込んであるが、喫緊の危険さえなければ気になったものに飛びつきがちなところがある。おそらくチコ本人よりもそのことを知っているキルトは、今回もそれだろうと判断した。


「何か見つけてそれに集中した瞬間に幻に呑まれた、かな。現水晶とか……流石にないか」


 集中、夢中といった状態は幻惑の影響を受けやすい。思い込みを捨てること、意識を広く向けて常に違和感に気を配ることが幻惑を破る上では重要なのだ。


 まあ、いなくなった理由を考えても仕方ない。問題は、空にも幻がかかっていたこと、一定の高さより上に進むと視界が上下反転して行動がおぼつかなくなることだった。ここまで予想外な状況ではチコには方角が読めないだろうし、最終手段として鳥になって飛んで帰ることも難しいだろう。

 すなわち、チコは森から出られない。キルトが探しに行かねばならない。土地勘のない森の中を。


「幻惑魔法、もっとちゃんと教えるべきだったかな……でもな……」


 ぶつぶつと呟きながらも、キルトはチコの痕跡を探した。不自然に荒れた茂み、岩陰の靴跡、ほんの微かなしるしを辿っていく。神経をとがらせる作業の途中、時折チコの幻が現れては「キルトさーん!」と手を振ってくるのが鬱陶しい。見たいものを見せられる、そんな幻だとわかっていても、その声を聞けば顔を向けざるを得ないのだ。五年かけて刷り込まれた条件反射は根深い。


 次の痕跡を探すキルトは、まだみずみずしい葉と枝が一所にたくさん落ちているのを見つけた。おそらくチコはここで方角を確認するために木を登ったのだろう。そして、降りた——か、ひょっとすると落ちたか。折れた枝の量からみて後者かもしれない。辺りを見回せば、若干下草が倒れ、土を蹴立てた跡がある。よく見るために近づきかけたキルトは、しかしその場で足を止めた。


 騒々しい気配が近づいてくる。足音、衣擦れ、葉擦れの音も気にしていられないほどに急いて、まるで何かから逃げるような気配が——キルトの眼の前に飛び出してきた。


 気配の正体は妙齢の女だった。緩く波打つ栗色の髪、瑠璃色の目には涙の膜が張っている。身の丈ほどもある杖を持っているから魔法使いだろうか。

 女はキルトに気づくと目を見開き、次の瞬間叫んだ。


「っ助けて!」


 女の足元に目をやったキルトは、黄金の目を数度瞬かせた。


「お願い、助けて!」


 悲鳴のように懇願する女の目に視線を戻し、キルトは眉を下げて微笑んだ。


「構いませんよ、どちらへ?」

「こっち、ガルが、仲間が、し、死んじゃうわ!」


 女についてキルトは走り出す。

 女に踏み荒らされてしまった痕跡からは、もうチコを辿れないと判断してのことだった。


「え……あれ?」


 唐突に女が足を止めた。ひどく困惑した様子だ。


「どうしました?」

「ここ、こっちから来たと、思ったん、だけど……」


 女の示す先には崖がそびえ立っていた。崖は先まで続いていて、女が示す方向に進む道は見当たらない。


「大丈夫です、きっと合ってますよ」


 キルトが崖に手を突っ込む。その手は崖にすんなり埋まり、崖は手を中心に水面のように揺らいで消えた。平坦に続く地面が現れる。


「幻ね? 本当に厄介!」


 ずいぶん苦しげに息をしているのに、女は足を緩めなかった。何度かキルトが幻を消したが、幻に阻まれるとき以外女の足には迷いがない。方向感覚が相当優れているのだろう。


 そして、猛々しい獣の咆哮が近くに聞こえた。


「あれ! あれと戦ってるの!」

「わかりました、先に助太刀に向かっても?」

「お願い!」


 キルトは女を置いて駆け出した。ほどなくして争う二者が目に入る。

 一方は、キルトより年嵩の剣を振るう男。女の言っていたガルだろう。血に濡れた鈍色の髪、敵を見据える飴色の瞳。犬獣人のものと思われる耳と尾はピンと立っていて、傷だらけでもまだ心は折れていないと知れた。

 もう一方は人の倍はあろうかという巨体の魔物。亜麻色の長い体毛が全身をくまなく覆っていて、ぎらつく瞳と鋭い牙の生えた口が毛の奥からのぞいている。前足には長い爪が3本ずつ生えていて、後足で立ってその爪を振り回して攻撃している。


 魔物の姿を認めたキルトは、抜きかけていた剣を再び納めた。駆け寄る勢いのまま跳んで、体をひねって爪をかわし、魔物の胴体に真正面から蹴りを叩き込む。

 魔物が後ずさって苦悶の呻きをあげる。苦し紛れに振るわれた爪を避けてガルの隣まで飛び退ったキルトは声をかけた。


「こんにちは、お連れさんの要請で助太刀に来ました。早速ですが、あれ仕留めるの大変なので、追い払うだけでも構いませんか?」

「あ? あ〜よくわかんねぇが好きにやってくれ。オレぁもう限界だ」


 ガルは訝るような目を向けてきたが、提案に異論はないと答えた。そこかしこの切り傷、打撲。蓄積した疲労もあり、これ以上の戦闘を避けたいというのが切実な願いだった。


「では、遠慮なく」


 爪を振りかざして向かってくる魔物をひたと見据え、キルトは唱えた。


「【水よ、撃て】」


 魔法によって何もない空間から溢れ出た水が、キルトの周りで球体を形作る。水球は表面を波打たせながらまっすぐに魔物へと飛んでいき、その顔面に当たると音を立てて弾けた。

 途端、魔物は壁にでもぶつかったかのように立ち止まり、びしょ濡れの頭を激しく振って懸命に水を飛ばし始める。

 それ以上の手出しをせずにキルトが待っていると、水をある程度振り落とした魔物はキルトを睨んで唸り——そのまま背を向け、四つ足をついて逃げ出した。


「……は?」

「……え?」


 呆けていたガル、そして追いついた女が、二人揃って間の抜けた声をあげた。

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