子猫と毛玉のご招待

 チコは傍の木が幻でないことを手をついて確かめ、枝ぶりを見上げて、よし、と気合を入れた。


 強く地面を蹴って跳躍する。届いた枝を踏み台に次の枝へ。手頃な枝が無ければ頭上の枝を掴み、くるりと回って上る。軽やかに、リズムよく。キルト直伝の木登りの極意だ。生活圏を荒らされた魔物たちがそこかしこから威嚇してくるが、向かってこないものは放置、向かってくるものは余っている手足の一撃で叩き落とす。むやみに傷つける必要はない。敵わないことさえ知らしめれば、魔物は攻撃をやめて警戒にとどめるようになる。

 徐々に襲ってくる魔物は減り、あたりは明るく、枝は細くなっていく。程よいところで上るのをやめ、弾む呼吸を落ち着けつつ、枝葉をかき分けて空を見上げた。


「——え」


 そこには太陽があるはずだった。今日は朝から雲の少ない晴天で、今は昼で。森の中には木漏れ日も差して、暖かな陽気だったのだから。

 けれどチコの視界に映ったのは、ぐにゃぐにゃとうごめく星空と、鳥のように飛び交ういくつもの太陽と月だった。


 眩暈めまいを覚え、チコは慌てて近くの枝にしがみついた。一度は落ち着いていた幻酔いがぶり返す。目をぎゅっと瞑って深呼吸し、不快感が治まるのを待ってもう一度目を開けた。空は幻に覆われ、方角など読みようがない。ならば森の端が見えないかともう一本枝を登ってみて、


 次の瞬間、夜空が下にあった。


 チコは目を見開いた。平衡感覚が狂って足を踏み外す。闇雲に伸ばした手が逆さまに見えて、視界が上下反転したことを理解した。

 目を閉じてこれ以上の混乱を防ぐ。肌に感じる風だけで木の枝や幹を避け、時々蹴って勢いを殺して、半ば落ちるように木を降りていく。時々しくじって枝に打たれたりひっかかれたりしたが、のちに支障をきたすほどではないので許容する。目隠しでの訓練増やしたほうがいいかなあと考えるチコは案外と余裕だった。あまり一般的ではないが、視界反転は幻惑魔法の一種にあるのだ。これもまやかしの森の力なのだろうか。


 とんっと地面に降り立って、チコはようやく目を開けた。上下正しく、木漏れ日の差す穏やかな森の姿が見える。ところどころ、ぶよぶよゆらゆらぐにゃぐにゃしているけれど。


「っはああぁぁ……」


 肺の空気を全部吐き出すように息をついて、チコは頭を抱えた。幻のせいで負担がかかる目と頭が痛い。森から出る手段が断たれて、慣用句的な意味でも頭が痛い。

 三角耳を撫でつけるように手を下ろすと、視界の端で、髪を結んでいた赤いリボンがふわりと落ちていった。木から落ちる間に緩んでしまっていたのだろう。拾おうと手を伸ばした、ちょうどその時風が吹いた。


 リボンは風に乗ってひらりと宙を舞い——どんな偶然か、離れた木の根元にあいた横穴の中へと、吸い込まれるように消えていった。


「……もう、もうなんなの、なんなのもう?!」


 まさに踏んだり蹴ったり。チコはとうとう半泣きになった。やや距離を開けて、リボンが入り込んだ穴を窺う。魔物の巣穴になっていてもおかしくない穴だ。迂闊に取りには行けない。

 それでも諦め悪く見つめていると、穴の中から何かがぽんと飛び出してきた。チコは肩を跳ねさせたが、よくよく見るとそれは赤いリボンだった。


 チコは歓声を上げた。穴を警戒しつつ近寄り、素早くリボンを拾って、しかしその手触りに首を傾げた。しげしげと手の中のリボンを眺めて気づく。チコのリボンは使い古されていて、少し褪せたポピーのような朱色、表面もやや毛羽立って、所々繕った跡があるはずだ。今手の中にあるリボンは夜半の篝火のような緋色、真白に照るほどの光沢、すべらかな手触りでシミひとつない。つまり、チコのリボンではない。


 チコは大層がっかりした。手に持ったリボンを投げやりにぽいっと穴へ放り込む。すかさず穴からぽいっと何かが投げ返されて、チコは飛び上がって驚いた。尻尾の毛が倍に膨らむ。


「なんなの……キルトさぁん……」


 震える手で拾い上げたのは、今度は小袋だった。リボンですらないのでそのまま放り返すか迷ったが、一応中身を確認しようと袋の口を縛る紐を解いたチコは、中を覗いて息を呑んだ。


 小袋の中には、たくさんの現水晶が入っていた。


「っっやああぁぁ!」


 今のチコにとって、大量の現水晶はトラウマといってよかった。恐怖と怒りと悲しみとその他諸々のやるせない思いを乗せて、穴の中へ全力で投げつける。ぜえはあと肩で息をしながら穴を睨んでいると、三度みたび、穴の中から何かが飛び出してきた。


「ぷう」


 そして鳴いた。片手で抱え上げられそうな小さな体躯。円と楕円で描いたような身体。月白の体毛、つぶらな黒い瞳、耳に引っかかった、朱色の、リボン。


 この流れで魔物が出てくるとは思わなかったチコは固まっていたが、リボンを認識して正気に戻った。あのくたびれ具合は自分のもので間違いない。幸い毛玉みたいな魔物からは殺気を感じないので、試しに手を伸ばしてみた。


「あっ」


 毛玉はぴょんと跳ねて穴の中に戻っていった。リボンも一緒だ。困って手を下げると、もう一度、リボンを引っ掛けた毛玉が顔をのぞかせた。


「ぷう」


 毛玉はチコと目を合わせ、ついで穴の奥に視線をやった。その様子からチコは思いついた。


「ひょっとして、穴に入れとおっしゃる……?」


 もちろん魔物に言葉は通じない。時々鳴いてはチコと穴を交互に見ている。チコが手は伸ばさず、足を一歩踏み出してみると、毛玉は嬉しげに鳴いた。


「ぷぷう!」


 チコは悩んだ。魔物が巣穴に持ち込むものは、一に食料、二に巣材だ。毛玉には目立つ爪も牙も殺気もないけれど、だからといって絶対安全とは言い切れない。

 なにせ、この毛玉のことをチコは知らないのだ。図鑑の後ろの方を見そびれたのが悔やまれる。草食か雑食かわかるだけでも安心感が違っただろう。


 一歩目以降足を止めたチコを見て毛玉が首をかしげる。つられてチコも首をかしげると、それにつられてさらに首を傾げた毛玉がこけた。


「ぶっ」


 わたわたと転がってなんとか起き上がった毛玉を見て、チコは思った。


 これは大丈夫なんじゃないかな。


 思い切って足を進める。穴に飛び込んで振り向いた魔物の目が、暗がりでキラキラ光って見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る