子猫は幻に酔う
木々の間を涼やかな風が吹き抜けていく。姿を見せない鳥のさえずりが遠く聞こえる。その名に反して穏やかなまやかしの森の中、チコは木にもたれて座り込んでいた。
「落ち着いた?」
「すみませんキルトさん……大丈夫です」
すぐそばに立って辺りに目を配るキルトの問いかけに、チコは疲れ果てた声で答えた。耳も尾もくったりと萎れてしまっている。
チコがへばった原因は、簡単に言うと幻酔いだ。一見平穏な光景に紛れる幻の歪んだ輪郭を見続けて、すっかり気分が悪くなってしまったのだ。その上木に手をつこうとしてすり抜けたり、見えない石につまずいて転んだり、肉体的にも疲労が積み重なり、限界を感じたチコは昼にもならないうちにキルトに休憩を申し出た。
「木がぶよぶよして地面がゆらゆらしてるんです……に"い"ぃ気持ち悪い……」
「幻惑魔法の適性が仇になったんだろうね。ごめん、想定外だった。完全に見破るか、完全に幻に呑まれればぶよぶよもゆらゆらもしないんだけど」
「適性が中途半端ですみません……」
チコが肩を落とした。その頭にキルトは手を伸ばし、揺らさないように優しく撫でる。
「適性があるのに伸ばさなかった俺も悪かったよ。ダメそうなら今回は帰ろう」
「もうちょっとすれば動けます」
「勢いだけで強行するのは下策だよ」
ぴしゃりと言われて、チコは一層縮こまった。じわりと目元に滲むものを懸命に堪える。吐き気とは別の重苦しいものが胸の奥から生まれて、それを吐き出したくて息をついた。顔を上げられないチコに、キルトの穏やかな声が降る。
「念のため正確な方角を確かめてくるから、ここで待っていて」
チコの頭を撫でる手が離れていった。太陽の位置を見るため、キルトは木の枝を蹴って登ってゆく。葉擦れの音が遠ざかって、チコはようやく顔を上げた。見上げてもキルトの姿はもう見えない。
こんなはずじゃなかったのに。
チコは、自分はキルトには及ばないまでもわりかし優秀だと思っている。戦うすべも生き延びるすべも、ずっとキルトから学んできた。階級だって
……でも、本当にそれだけだろうか。
自分の幻惑魔法の適性は、昔キルトに説明されたから知っていた。でも、キルトが積極的に教えてこないのをいいことに、他に学ばなければならないことがあるからと言い訳して、チコが幻惑魔法を避けてきたのも事実。チコが自分で努力して、もしくはキルトに頼んで幻惑魔法に熟練していれば、こんなことにはならなかったのではないかと考えてしまう。
せっかくお留守番を回避できたと思ったのに、これじゃもう二度と同行させてもらえないかもしれない。それが、一番不安だった。
荒んだ気持ちが尻尾を振り回す。八つ当たりのように木の根や地面に叩きつけても、余計に惨めな気分になるばかりだった。
荒ぶる尻尾が何かを弾き飛ばした。何の気なしにそちらを見たチコは興味を惹かれた。木漏れ日に当たってきらりと光る小石のようなものがてんてんと跳ね、少し転がって止まる。重い腰を上げて近づくと、透き通った石が落ちていた。
「これ、現水晶……?」
森に落ちてる無色透明な石、という説明にばっちり当てはまる。サイズは親指の先より一回り小さいくらい。チコの機嫌は急上昇した。
現水晶を見せれば、キルトも少しはチコが役に立つと認めてくれるはずだ。次の同行のお許しも出るかもしれない。キルトが戻ってくるまでにもっと拾えないだろうか。
周りを見回すと、数歩先の茂みにちかりと光るものがあった。駆け寄るとまた水晶がある。二つ目の水晶を拾い、また周りを見回すと、岩の陰にそれらしいものが見える。チコはだんだん楽しくなってきた。
いくつもいくつも水晶を拾い、次の水晶を探して覗き込んだ木のうろの中にぎっしりと詰まった水晶を見て歓喜したチコは、しかし次の瞬間真顔になった。
『好都合なことは疑うべし』
地図の注意書きを思い出してうろの中に目をこらすと、たちまち水晶の輪郭が揺らいだ。たくさん集めた水晶を握りしめていた手を恐る恐る開いてみれば、そこにあったのはたった一つの水晶だけ。
チコはその場にくずおれた。震える手で残った水晶を袋にしまい、現状を正しく把握する。幻に惑わされて、待っていろと言われた場所を離れてしまった。幻を見破れないチコでは道を戻ることもできない。
これのどこが優秀だ、留守番すらできない愚か者!
自分への罵倒が止まらない。チコはしばしその場で打ちひしがれていた。
とはいえ、安全を確保していない森の中ではそう長いこと落ち込んでもいられない。チコは立ち上がって身体についた土をはたき落とした。
「森の中で合流は諦め、外を目指すべし。現在地は空と川を見るべし、だったよね」
役に立ちそうな注意書きを思い出す。川は今の所見かけていないので、先ほどのキルトのように木に登って空を見るのが良さそうだった。
「はぁ……キルトさん怒ってるかな、呆れてるかな」
ため息が止まらない。怒ってないといいな、とあまり期待できないことを考えながら、チコはぐにゃぐにゃ歪む森を見回して登りやすい木を探した。その時だった。
「チコ!」
木々の向こうからキルトが顔を出した。ほっとしたように笑って駆け寄ってくる。チコはキルトをじっと見つめた。
「よかった、すぐ見つかって。心配したよ」
「……えい!」
あと数歩というところで、チコはキルトの鳩尾に突きを入れた。その手は音もなく胴を突き抜け、キルトの輪郭が大きく波打って空気に解けていく。キルトの幻が消えるのを見届けながら、チコはぴしりと指を突きつけた。
「笑いながらかもす怒気が無い! 私の突きを避けてない! 全体的にダメ!」
今度こそ一目で見破った幻に鼻息荒くダメ出しをしたチコは、ぷんすか怒りながら木を探すのに戻るのだった。
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