第010号室 肉塊



 出鱈目でたらめな記号が並ぶエレベーターの操作盤に、図書室最寄り階行きのコマンドを入力する小夜さや。ランドセルから取り出した果物ナイフを咥え、エレベーターの壁に手を付き、その対面の壁に裸足のまま足を突っ張ると少しずつ登って行く、天井近くまで登り切ると途中乗車の異形に備えてただ耐え忍ぶ。


 先に図書室に着けばいいなと思ってみても、団地の中では悪いことほど優先されるので、ほどなく知らない階層に止まって扉が開いた。


 唾液を吹き出し荒い息遣いを響かせ、段々に重なりとろけたチーズに廃油をぶちまけ、どうにか人の形をつくろった外見の巨大な肉塊にくかいえた悪臭と共に乗り込んで来た。


 扉につかえた腹とも胸とも言えない脂肪の塊を、滝のように汗とマグマのように膿を噴き出しながらエレベーターに押し込むと、無理に閊えを抜いた反動でバランスを崩して倒れ、エレベーターを大きく揺らした。


 天井から肉塊のこける姿が見えたので、目一杯、手足を突っ張り耐える小夜。ひゅっと小さく鼻を鳴らし、手を使わずに鼻の穴を塞ぐ芸当で臭いをき止める。


 重量オーバーの警告ブザーが鳴る中、扉は関係なく閉まり、苦し気なモーター音を鳴らして、エレベーターはゆっくりと動き出す。ちらりと操作盤の上に目をやる小夜、最大積載量800kgと書かれた表示を見つけ、目を細め眉もひそめた。


 時々モーターが空回りする音を立てずり下がったり、金属ケーブルの繊維が切れる音を響かせたりしながらも、何とかエレベーターは移動を続け図書室のある階層まで到着し、エレベーターの扉が開くと重量オーバーの肉塊を無理やり運んだせいか、廊下側の扉と同期できておらず、ズレ落ちて下半分が廊下の床下ゆかしたに阻まれ壁のようになっていた。


 鈍そうな異形だわと小夜が舐めて掛かる。くわえていたナイフを扉とは逆方向の床のすみへ向けて吐き出し、肉塊の注意をそらす。


 その見た目とは裏腹に俊敏な動きを見せ肉塊がナイフを拾う。脂肪が詰まってみにく膨れ上がったその手は、指一本動かせないほどの肥満であったが、膿と高粘度の汗が混じり合った粘液がのりのように働き、ナイフを張り付かせていた。


「降りま~~す」


 猛烈な興奮を見せ、ナイフが降ってきたであろう天井を、肉塊がしじみのような眼を輝かせて見上げる。小夜が天井に突っ張っていた手を離し、扉の上部の出っ張りに指を掛けると、扉と対面の壁から両足を離して肉塊を蹴りつけた。


 人肌に温められた濃厚な汗、膿、油と肉塊の感触が、生足の足裏からダイレクトに脳をつらぬき、小夜の全身が総毛立つ。小夜の生足が肉塊の潤滑油に飲み込まれて滑り、体表を覆う醜く盛り上がった吹き出物を足の裏でしごくと、粉瘤ふんりゅうが一気に弾けて、黄白色のドロドロとダマになった熱い膿が吹き上がり、ぶっ掛かって小夜の生足をおかす。


「うわ、汚ったな………!」


 想像を絶するおぞましさに平静を失い、扉の出っ張りに掛けていた指が、身体を支え切れなくなりすっぽ抜ける。エレベーターの外の廊下にへそから上の半身を投げ出し、両手はくうを切って受け身を取り損ね、顔面を木組みの床に強打した。


「あっ!痛ったぁ………!!」


 反射的に床に手を付き身体を起こし、大きく咳き込む。咳と共に鼻から霧状になった血が噴き出し床を汚す。小夜の鼻から水道の蛇口を捻ったように鼻血が流れ出して顔面が引き攣り、口角が耳まで裂けんばかりに上がって震える。口から唾液と混ざった血液が糸を引いた。


 血を流せば流すほど、頭に登った血が下がり冷静になっていく。肉塊がエレベーターへ引き戻そうと、その手で粘着質の膿汁のうじゅうを小夜の生足に絡めるたび、平静は消え去り再び怒りが沸騰する。


「ほんと、気持ち悪いんだけど!!!」


 身体を横にし兎に角、蹴りまくって肉塊の手から逃れようとする。小夜が初めに肉塊を踏みつけ滑った時、生足に付着した油のせいで、肉塊の手の粘着液が弾かれ保持し切れず、肉塊側もこれ以上逃げられないようにするので精一杯のようだった。


「ムリ!ムリ!ちょっと、ホント無理だから!!!」


 あと少しで肉塊の間合いから抜け出せるというところで、油のノリの薄かった左くるぶしからめ捕られ一気に引き戻される。


「最ッ…低!!足、触んな!………オイッ!!」


 大きく反動をつけて「ったない、豚がぁあああ!!!」と、怒号を浴びせて蹴り飛ばす。


 完全に手が離れエレベーターの床に尻餅を着く肉塊、その衝撃でエレベーターのシャフトとケーブルから悲鳴が上がり、ガクン!とエレベーター全体がずり下がった。


 即座に起き上がり、ずり落ちたエレベーターの扉から廊下へ這い上がろうとする肉塊の頭上を飛び越え、小夜がエレベーターを釣るケーブルの剝き出しになった屋根に上がる。


「臭っさいハチミツまみれのラード星人が!盛ってんじゃあぁねぇえええ!!!」


 廊下側の扉の上辺にてのひらを押し当て、両足でエレベーターの屋根を全力で踏み付ける。そこら中から金属の弾けるラップ音が響き渡り、肉塊が這い上がろうと藻掻もがき、暴れるほど不安定になっていく。


「落ちろ!ブタがぁああああああ!!!」


 遥か上方から金属が引き千切られるような轟音が響くと、同時にエレベーターが自由落下を始める。


「………わぁ!」


 小夜が廊下に尻餅をつき膝から先をエレベーターの奈落に投げ出す形で着地、一瞬で気持ちが冷め上がり、勢いよく廊下側の扉を平手打って床に転がる。


 機関銃の乱射そっくりの銃撃音を響かせ、砕けた金属片がエレベーターの吹き抜けを落下しながら跳ね返り、一部が廊下にねて小夜のランドセルを撃つ。


 這いずって離れる小夜の背後のエレベーターから、手首ほどの太さの金属ケーブルが飛び出し、蛇の舌のように木組みの床に壁、天井を舐め取り破壊すると奈落の底へ、肉塊の野豚のぶた染みた断末魔と共に消えていった。


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