第011号室 小人
涙を流せば心が弱くなる気がしたし、人の涙を見ると言葉では言い表せない不安に駆られる。
しかし、小さな身体は正直で、意識的に抑え込もうとしても、肉体的な痛みを我慢したって、精神的苦痛にどれだけ意地を張ったとしても、痛ければ、悲しければ、止める事
今回、小夜の自己診断の結果としては、顔面、床キッスによる鼻骨骨折なので、ちょっとくらい涙も止む無しな状況だった。
鼻を摘んで上を向き、喉を鳴らしてレバー状に固まった鼻血を飲み込む。舌に纏わり付いた血の味を歯で
所々、血で赤黒く染まった白地のパーカーの袖で、感情や意思とは関係なく零れる涙を拭う。
ボールチェーンの付いた小さなチューリップ型の手鏡を取り出し、
パーカーを脱ぎ、まだ血の付いていない背中の部分で潤んだ瞳から水分を奪い、既に出血が止まり乾燥し掛かった鼻血を拭き取る。
木組みの廊下に脚を投げ出して座り込む。脚の汚れをパーカーで拭き取り、長めに息を吐き出し呼吸を落ち着けようとするもうまくいかない。
小さな身体は熱を帯び全身の毛穴から汗が吹き出し、
ランドセルのポケットからピルケースを取り出し、予め半分に割ってある大人用の頭痛薬を水無しで飲み込む。喉の奥に張り付いた薬から、強烈な苦みと
床に敷かれた木板の軋む音と、何者かの気配を感じ無理やり身体を動かそうとして、脳を揺さぶらるような立ち眩みに襲われ、平面のはずの床を踏み外し
「ちょっと、しっかりしてよね?」
「………ママ?」
ベージュ色のトレンチコートを羽織り、小夜を一回り大きく成長させたような容姿の女性は、髪を掻き揚げ耳に掛け直しながら、酷く取り乱す娘に困惑の表情を浮かべていた。
「どうしたのよ?そんな、みっともない顔して、何かあったの?」
「どうしたのって、ママこそ、今までどこに行ってたのよ!?」
訳が分からないといった表情を浮かべる母を不安げに覗き込む小夜。
「何で、私を一人にしたの?ママが居なくなってから大変だったのよ!?今日だって、化け物に襲われたり、ガソリンで溺れそうになったり………!」
「なぁに、それ?馬鹿ねぇ?あんた、変な夢でも見てたんじゃないの?」
「夢っ………」
自分の手を見返し全く汚れていないのを不思議に思う。いつの間にか周りの景色が、古びた木組みの廊下から、懐かしいマンションの一室に変わっていた。部屋中に
「あ、あれ?………でも?」
小夜が疑問を口に出す前に、母親が娘を胸に抱きしめる。
「なんだか分からないけど、怖い夢でも見ていたのね?」
困惑、喜び、混乱、両眼が
「あっ………?」
見つめ合う母の瞳に違和感を覚える小夜、一度
団地での長く忌まわしい記憶が全て夢だったのか、それとも今この母親の存在こそが夢なのか、小夜には分からなくなっていた。
「どうしたのよ?そんな、みっともない顔して。私、今から調教に行ってくるから、ちゃんと留守番してるのよ?」
「え?ちょうきょう??」
「? そうよ、今夜も哀れな男共を、立派な人豚へと調教するの。そして、骨の髄までしゃぁああぶりつくすぅのよぉおお(レロレロ~)!!」
親指と人差し指で輪を作り、迎え舌の口へ持っていくと、片眼を瞑って下品に首を振る。世間一般の親が、自らの子に対して見せる模範としては、評価に値しない程度の低さに、我が親ながら長めに舌を巻く小夜。自身にその血が受け継がれていると思うと自分はこうは成らないと心に誓う。
母が出掛け一人になった小夜、辺りを舐めますように観察しながらリビングのソファに座ると、クッションの間に挟まっていたリモコンを引っ張り出しテレビの電源を入れた。
恐竜に跨る年老いた白人の学者が主人公の冒険映画、機関銃を両手に抱えゾンビの大軍を薙ぎ払うマッチョな黒人のスプラッタ映画、妙齢な聖母様のエクソシズムが何だかエッチな大人向け映画、ペストマスクを被った黒装束の医師を追う難解なゴシックムービー、熱帯特有の陽気の中マフィアのボスが血みどろの抗争を繰り広げる任侠映画、超常の力を宿した人間達のアクション映画、どれも特別好きなジャンルの映画という訳でも無かったが、なぜだか目が離せなかった。
支離滅裂なストーリー、視聴者に向けられるメタ的なセリフ、意味ありげに挿入される知恵の輪の映像、なんだか無性にやりたくなったので、テレビの中に腕を突っ込んで知恵の輪を貰う。知恵の輪自体は何かの伏線といった訳でも無かったらしく、全ての映画は夢落ちで唐突に終わりを迎えた。
「ただいま~帰ったわよ~」
突然の声に驚く小夜、どれだけの時間テレビを見ていたのだろう。窓辺から朝日が差し込み部屋中を鮮血に染め、遠くから尋常ではない電車のブレーキ音が響き耳を
「なあに?それは?」
「これは………知恵の輪よ?」
カラリと気持ちのいい音を立てて外れる知恵の輪、外れたそれぞれのパーツを表、裏と食い入るように見つめる小夜。美しく
「違う!………フフン、これは、
「何を言っているの?」
母親の顔が醜く歪み血の気が引いていく。
「これはね、一見
頭を掻き毟り地団太を踏む母親を模した何者かに冷たく小夜がほほ笑む。
「………ここが夢の中だってこと」
小夜は怒りというものが嫌いでは無かった。自分が我を忘れるのも、他人が本性を
成熟しているとはとても言い難いその精神は純粋無垢の天真爛漫で、どれだけ抑え込もうとしても、身を打たれればその痛みは怒りとなってアドレナリンを火山の如く噴き上がらせ、肉体のリミッターを取り外し今を生き抜くため骨と肉を軋ませる。悪意の言葉がナイフとなって心を刺せば、その苦しみは憎しみへ変わり、灼熱の業火となって心の陰を焼き尽くし、今を切り開く
爪に白い筋が入る。夢の外にある肉体が床でも引っ掻いたか?歯茎から血液が滲み出す。歯が緩むほど強く噛み締めているのか?トランス状態に突入した精神は、正常な判断能力を失い、怒りによって焦土と化し、夢魔に付け入る隙を与え無い。
「稀に居るのよね。夢の中なの気づいちゃう子が………なあに?」
小夜が母親の姿を模った夢魔の両手を掴む。
「私の場合はちょっと違うわよ?それに………ママの真似なんて、許せない………最低、死ね!」
掴んだ両手から煙が上がり、夢魔の身体が炎に包まれていく。
「そんな事をしても無駄よ?ここは夢だもの」
「
ゆっくり
「この夢から覚める方法などないの。結局のところお前は永遠に夢に捕らわれるのよ?」
骨の折れたビニール傘が隊列飛行で窓から飛び込み、小夜の首筋を
「芸がないのね。どうせ、夢の中で死ねば、現実の精神にも反映されて廃人になる~とか、言うつもりなんでしょう?」
血染めの床が地平の果てまで裂けて、奈落の底が瞳を開き、複眼のように敷き詰められた人歯が迫る。
「ええその通りよ。それが分かっていたところで何が変わるというのかしら?」
「あなたみたいな夢魔とヤルのは、初めてじゃないもの。もちろん対策してるのよ?」
でたらめな重力に引かれる身体を、壁面から突き出した数百世帯分の配線を支え傾いた電柱から伸びた電線を掴んで堪える。
「あなた、一体、
「?………どういう意味かしら?」
閉じた奈落の瞳から稲妻が走り電線を駆け上がって小夜を穿つ。
「あなたが夢落ちさせたのは、私じゃないわ。私はあなたが夢落ちさせた物に引っ張られただけ」
「うん!?なぜ何ともない?」
雷に撃たれたはずの小夜は何事もなかったかのように電線の上から奈落へ踏み出すと、まるで見えない階段があるかのように空中を登り始める。
「どうなってるの?まるで我らと同じじゃない?」
「あなた達のは、ただの初見殺し。タネさえ割れれば逆にこっちが仕掛ける事だってできるのよ?」
小夜がそう言うとゆっくりと
「だとしても、私が夢の中で遅れを取るわけないでしょう?」
「そう?なら現実で勝負よ!!」
目を見開きつばを飲み込む夢魔、この娘ならやり兼ねないと思い始めていた。
「無理よ、夢から目覚める方法なんて無いわ………」
「さっきも言ったけど、夢落ちしたのは私じゃないの。それに、夢から
再び
「例えば、耳の中の
鍵に見立てた知恵の輪を耳の穴、奥深くに差し込み鼓膜を勢いよく突き破る。目の中でバチバチと火花が弾け痛みを感じる間もなく意識が遠のく。三半規管を貫通し
耳に煮え立つ油を注がれたような耳鳴り、縦に横に、斜めにどこか明後日へと回転し飛び廻る平衡感覚、狂った色彩が多次元的に空間を埋め尽くす。
皮膚が肉が、毛糸がほどけるのように骨から剥がれ、虚空に渦巻く地平線の中心目掛け、虹を追い抜き飛んでいく。
剥き出しの内臓は全て心臓に飲み込まれると、圧縮されパルスを撃ち出す超新星へ、晒された白骨は際限なく膨れ上がり、水面に落ちる綿飴のように溶けて消失する。
取り残された脳髄と神経系は、片側を日に焼かれもう片側を暗黒に凍らされ宇宙を漂うと、薄れゆく意識の中、プランクトンのように銀河星雲を呑み込む団地クジラを確かに見た。
目を覚ました小夜は、木組みの天井と壁の隅に背を向け、手足を突っ張り、その腕力だけで張り付いていた。
「うん?………なんて寝相のわぁっ!?」
重力を物ともせず身体を壁へ天井へと張り付く程の筋力の解放は、心身の覚醒と共に正常を取り戻し、二度瞬きする間に保持力を失い小夜を床へと突き落とした。
つま先から前のめりに着地、ほとんど落下そのままの勢いで両膝を床に打ち付ける。両腕を広げて何とか顔面を庇い、肘と
「痛ったいわね!」
悲鳴を上げる肉体をもう一度だけ酷使し、ランドセルから飛び出した身代わりの藁人形に抱き着く汚らしい
「このっ、雑魚ぉおおお!!」
キィキィ甲高く情け無い叫び声を上げもがく、小さいおっさんを握る手に力を込めて黙らせる。
「フフン、雑っ魚!ホント弱い、夢の中でイキっててもリアルでこれじゃぁあねぇ???」
抵抗
「こんな女の子に
揺るぐことない絶対的優位性は、小夜の母親から受け継いだ
「あは!汚ったな!顔真っ赤にしちゃって、必死!雑ぁ~~~魚♡」
釣り糸で縛り付けられる小さいおっさん、当たり前のように繰り出される母親直伝、
「ホント弱い♡折角生け捕りしたんだから、たぁ~っぷり償って貰うからね♡♡………覚悟しとけよお前ホント」
自由を奪われ身動き取れず、生き人形と化した小さいおっさんは鼻息荒く、怒りと恐怖そして一つまみの快楽に
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