第2話 寝息のバラッド
よく晴れた土曜日の朝は必ず母親と庭へ出て土いじりをする。少女の名前はアンナ。犬か噛み跡が残る麦わら帽子を被っている。小さい頃から母親の家庭菜園のお手伝いをしていた。まだ青いトマトを手に掴み、赤くなる日を待っている。母親はアンナのほっぺに付いた土を拭った。アンナは母親の真似をして、土だらけの軍手で母親の頬を撫でた。母親の頬は取れたてのジャガイモのように土が付く。アンナは笑う。母親はそんなアンナを叱ることなく、頭を撫でてやるのだった。
庭から家へ戻ると母親は必ずこう尋ねる。
「アンナ、今日はどこかお友だちの家には遊びにいかないの」
アンナの答えも必ず同じだ。
「私を家に招いてくれるお友だちなんていないのよ」
「あら、それじゃあアンナがお友だちをうちに呼んだらどうかしら」
「家に招きたいお友だちなんてどこを探してもいないのよ」
いつもと変わらない返事でも、母親はしつこく毎週聞いてくる。今日はだめでも、明日はアンナに大切なお友だちができるかもしれないと信じている。
アンナが小学校に上がってすぐの頃、クラスメイトの家にお呼ばれをして、当時のアンナにはまだ大きすぎる麦わら帽子を被って出かけていった。
クラスメイトの家は大きかった。玄関は国境の門のように堅牢で、庭には滑り台付きのプールがあった。そして、入ってすぐアンナを出迎えたのが黒くて大きな犬だった。犬は初めて見た少女、アンナを尻尾を振って歓迎した。アンナが恐る恐る手を伸ばし、犬の頭に触れようとしたとき、犬は素早くアンナの麦わら帽子を奪った。麦わら帽子を口にくわえたまま、犬は庭をぐるぐると走り回った。クラスメイトや他の子たちは犬と一緒に大はしゃぎ。アンナの麦わら帽子をラグビーボールのように代わる代わる手に取って被って見せた。犬はアンナと遊びたかっただけだった。クラスメイトや、同じクラスの子たちも犬と同じだった。しかし、突然自分の帽子を奪われたアンナはひどくショックを受けて、それ以来誰とも仲良くすることができないでいるのだった。
アンナは放課後や休日に遊ぶ相手がいなくてもへっちゃらだった。庭の世話をするのは気に入っていた。雨が降る日は画用紙に好きなだけ絵を描いた。宿題は分からないことがあれば父親に教えてもらえるし、父親はついでにいろんな話をしてくれる。だから寂しいと感じたことがなかった。アンナの父親は高校で地学を教えていた。
ひとりぼっちのアンナだが、実はお友だちがいた。会話の輪に入れないことを心配している学校の先生や、早くお友だちができてほしいと願う母親には言っていない。アンナしか知らない、アンナだけのお友だち。
そのお友だちは洞穴に住む。その洞穴はアンナのふかふかとした体の中にある。その体は持ち主であるアンナにも分からない仕組みで動いたり疲れたりする。
母親お手製のオムレツを食べた後、アンナは自分の部屋に閉じこもった。土曜日の朝、たくさん太陽の光を浴びたら、午後は家の中の涼しいところでまったり過ごす。戸を閉めると、スリッパと靴下を脱いだ。カーペットを退けて、髪の毛や埃が目立つ床に足を置く。ひんやりとしている。石の裏側が苔むして虫が気持ちよく眠るように、アンナも薄暗くじめじめしたところが好きなのだ。窓のカーテンを締め切り、ベッドの下の荷物を引っ張り出す。柔らかなタオルケットに身を包んで、頭まですっぽりと覆う。アンナは体を小さくしてベッドの下に潜り込む。外の僅かな音も聞かないで済むように耳を両手で閉じた。足を胸元に折り畳み、丸く、小さくする。目を閉じる。アンナは目を明けることを忘れる。忘れようと思う。
洞穴にいるお友だちはアンナの体とは似ても似つかない。アンナは彼のことを魚だと思っている。全身が鱗で覆われているし、鰓で呼吸をすると言う。魚と違うのは、人間と同じような足があること。腕があること。身長は中学生の男の子くらいで、アンナからするととても大きく見えた。彼には目が無かった。出会ったときからそうだった。それでも彼はすぐにアンナを見つけることができた。初めて洞穴に足を踏み入れたとき、彼は真っ先に名前を呼んだ。
「アンナ、きみを待っていたよ」
洞穴は肌寒く、タンクトップとミニスカートを履いていたアンナはぷるぷると体を震わせた。父親が連れて行ってくれた洞窟によく似ていた。奥の方から水の流れる音が聞こえて、光が抱き締めるほどもなく、しとしととアンナを不安な気持ちにさせる。そんな中で彼の声は不思議とアンナを安らげた。
「誰?」
「友だちだよ」
自分から「友だち」を名乗るなんて変な奴だとアンナは思った。でも、嫌な気はしなかった。アンナは薄暗い洞穴の、彼の声がする方へゆっくりと歩いて行った。アンナは、彼の顔が見えるくらい近づくと驚いて息をのんだ。初めて目がない生き物を見たからだった。全身が白い鱗で覆われておへその辺りはイモリのようにつるつると光って、足はカエルのようなのに鋭く爪が伸びている。背骨に沿って生えた尾びれも真っ白で綺麗だと思う。目がない生き物なのに、アンナは彼と目が合ったと感じた。彼は口をぱくぱくと動かしてアンナに挨拶をした。
「はじめまして」
「はじめまして」
アンナの震える声を聞いて、彼はアンナを両腕ー無数の白い鱗が彼の動きに合わせて桃色に光るーで抱き締めた。そして彼はアンナの瞼にキスをした。
アンナは彼に手を引かれて洞穴の中を探検した。コウモリの住居や図鑑でも見たことのない全身が硬い甲羅に覆われた動物の紹介をしてもらった。いくつも連なる白い鍾乳石は、かつて父親と一緒に観たものよりも大きかった。きっと父が見たら両手を上げて喜ぶだろう。彼は鍾乳石にそれぞれ名前を付けていた。手が長いのは「ブラウン」、鼻が長いのは「ピノッキオ」、歯が生えているのは「ウルフ」。
アンナが時々くしゃみをすると、彼はアンナを抱き締めて温めてあげた。そして必ず瞼にキスをする。
「ねえ、どうしてあなたは”友だち”と名乗ったの」
アンナはぴかぴかの鱗を一枚、持ち帰れないかと頭の中でこっそり思う。
「アンナが僕をそう呼んだからだよ」
彼はアンナの瞼を撫でた。
「そんな記憶全くないわ、私にはお友だちが一人もいないのよ」
「アンナは忘れっぽいからね」
鰓を動かして、おちゃらけて見せた。
「それと、僕の鱗はあげないよ。アンナはアンナの目が欲しいって言われたら、人にあげる?」
「あげない」
「そうでしょう」
「ねえ、なんで今、私が考えていることがわかったの」
アンナはどきどきとする。
「友だちだからだよ」
それが、アンナと友だちの出会いだった。すう、すう、と一定のリズムの音が聞こえてきてふとアンナは目を開く。すると、自分の部屋の床で寝転がっていた。瞼はほのかに濡れていた。
それから何度か、洞穴へ出かけた。洞穴が好きだ。学校よりも家の庭よりも自分の部屋よりも、洞穴が好きだった。友だちに会いたかった。
会うたびに彼はアンナの体を抱き締めて、瞼に口づけをする。ない目でアンナの顔を見つめて、ぱくぱくと口を動かした。
洞穴の中を探検しつくして、アンナが足を踏み入れたことがない場所は洞穴の奥の池の中だけになった。アンナは足をちゃぽんと池につけてみた。もう春なのに冷たい。太陽の光が入らないこの場所は、いつも外よりも寒い。アンナと一緒にいるときは、地べたを歩いて過ごしている彼だが、普段は水の中で過ごしているのだという。それまで一度も池に踏み込もうとしなかったアンナが、足を水に浸しているので、彼は嬉しくなって一緒に池を泳ごうと提案した。アンナは水の冷たさに耐えられないと思った。彼は今にも池に入りたくてうずうずとしている。
「あなたの泳いでいる姿を見てみたいわ。私はここで、座っていたい」と、アンナは水際に座り込んで水面を足で蹴る。音が響く。
「見てどうするのさ。僕には目がないから分からないよ」
彼は我慢できずに頭から池に飛び込んだ。水しぶきがアンナの服にかかる。
「おいでよ。僕が一緒だから大丈夫だよ」と、彼はアンナに手を伸ばす。
「わ、私はあなたと違うのよ」
アンナは鱗に覆われていなかった。目があった。人間だった。あれほど自分は目が開かず、人間ではない何かになろうと暗示をかけたのにアンナは人間から脱することができなかった。池に入れない意気地なしの自分にアンナは悔しくて泣き出してしまう。しとしとと涙の粒がアンナの頬を伝って、落ちた。落ちた先に、彼のごつごつとした手があった。
彼は一瞬のうちに池から上がってきてアンナの隣に座り、肩を抱いて涙を拭ってあげた。そして語った。
「アンナはキスをしたことがあるかい」
「あなたが瞼にしてくれたのが初めて」
アンナはしきりに目をごしごしと擦る。涙が止まらないのだ。
「僕たちは鰓があるから、ずっとキスをしててもへっちゃらなんだ。みんな昼も夜も忘れてずっとキスをしているよ」
「そう、とてもロマンチックなのね」
鍾乳石から水が滴る音が聞こえる。ひとつ、ふたつ、みっつ。
「それにね」
彼はアンナの顔を彼の顔に向けさせる。目の前に目のない魚のすべすべした顔が現れる。
「目がないんだよ。目がないから夢中でキスができるんだ」
彼はアンナの瞼を柔らかく撫でる。
「僕はきみとそんなキスがしたいと思っている」
コウモリの大群が洞穴を飛び出してどこかへ去った。羽ばたく音だけがこだまして残る。
「目を明けないで、呼吸をしないで、キスするのは……」
「そう、アンナ、きみにはむずかしいよね」
「だから、」
彼は池を指さした。
「水の中でなら、できるんじゃないかな」
彼の声はアンナの体に入り込んで響き渡っている。
アンナは水に心を惹かれている。彼とのキスを夢見ている。彼と同じように目が無く、鰓で呼吸をする、丸い口の自分の顔を想像している。アンナは……。
すう、すう、という音が聞こえてきた。
ふと、目を明けるとアンナはまた自分の部屋に戻ってきていた。自分の寝息でいつも起きてしまう。
アンナはカーテンを開けてまだ太陽が空に浮かんでいるのを確認すると、麦わら帽子を被って公園に走って飛び出した。
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