春、家に籠りて。
清水優輝
第1話 恐怖
改札を出た直後、構内から聞き慣れないアナウンスが聞こえてきた。「不審な男」という言葉だけが聞き取れた。電車内で何かあったのだろう。
南口を出て右に曲がり、線路沿いの下り坂を音楽を聴きながら歩いている。桜の木は葉が目立つようになってきた。私の後ろから風が吹いて、枝が揺れる。桜が散る。髪の毛が乱れる。人々が走る。私を追い抜く。
……追い抜く?
人々が何かを恐れて逃げるように走っていく。後ろを振り向き、何かを確認してはひた走る。焦りと不安が入り乱れた表情をしている。私の肩に誰かがぶつかったが、謝りもせずに遠く走り去った。ゆっくりと歩いている私の方が悪いと言わんばかりだ。私は音楽に集中して走っている人々を見ない振りをしたかった。他人事だ。私は家に帰る途中なのだ。音楽を聴きながら、いつもと同じ夕暮れを過ごしたい。しかし、無視できないほどに何人も何人も慌てて私を追い越していく。
イヤホンを外し後ろを振り返ると、逃げる人々が目前に迫ってきた。彼らは風が通るように頬を切って、私の横を通過していく。その後ろに刃物を持った男が歩いていた。銀色の光るフルーツナイフを八の字に振り回し、周囲の人を威嚇しているようだった。男は肩を落とし、大股で軸のない歩き方をしている。
現実感のない光景を私は素直に受け入れることができず、自分だけは大丈夫であろうと思いながら周りの人を真似して走り始めた。日常の中に突如現れた危険人物に、市民は我先にと逃げ惑うその姿とは対照的に妙に周囲は静かで誰も叫んだり喚いたりしていない。足音と荒い吐息だけが聞こえる。それなのに皆が同じ方向に逃げている。皆が皆、なんとなく隣の人の真似をしている。同じ危険を共有する群れとなったが仲間にはならないらしい。真似はしても連携するつもりはない。私はやる気のない学生のようにとろとろと、とろとろと走っていた。
人々が真っすぐ走り続けるのを無視して私は高架下をくぐった。ここで不審者が通り過ぎるのを待つつもりだった。私と同じことを考えたのか、中年男性が一人、先に高架下で立っていた。薄い橙色に染められたレンガを積み重ねた壁。所々黒ずんでいる。束の間の休息、少しの緊張。男性とは一度も目が合っていない。
刃物を持った男は、目の前で逃げ惑う老若男女を追いかけるのに必死で、道の途中に高架下があることには気が付かない。動物と一緒だ。走る人がいるから追いかける。私のように立ち止まって息を潜めている人には興味を抱かない。男は高架下を通り過ぎて、みんなが走るのと同様に真っすぐ線路沿いを走り続ける。私は男が通り過ぎたのを確認して、高架下から出て、いつもと同じように家に帰る。
そのつもりだった。
刃物を持った男は、走っていなかった。足に鉄球でもつけられているかのように一歩一歩が重く沈んでいた。刃物を持った男は、若く見えたが白髪が酷く目立っていた。髪の毛を染めた形跡がある。何か月も染め直すことをせず放置されたらしい。疎らに茶色が残っていた。黄ばんでしまったワイシャツを着て、ベージュの麻のスーツを着ていた。それも着倒して皺だらけで、見るからに落ちこぼれだった。
不審者は高架下を見つけると、その場に人間が二人いることを確認した。虚ろな顔で私の目を見て、次に男性を見た。高架下の男性はタイミング悪く反対側を向いていて、不審者が近くにいることに気付いていない。
刃物を持った男はその場でたじろぎ、真っすぐ進むべきか、高架下へ進むか、迷っているようだった。革靴の先を地面にぐずぐずと擦りつける。そして、踏み出した一歩は高架下の方を向いていた。
ゆっくりと男は高架下へやってくる。一歩、また一歩とじりじりと苦しげに足を運ぶ。男の目は私の目を捕え続けた。刃物を握った右手は何度も握り直されて、自分の持つ力を確認しているように見えた。私はどうすることもできず、後退りして壁に追い込まれていた。
自分の血液の流れる音まで聞こえてくるほどの静けさと、粘着質な時間の流れに、まだ、まだ現実を直視できないでいる。数秒後には刺されてもおかしくなかった。全身から血が流れ出る、それまで体内を駆け巡っていた温かな液体が一気に溢れ出て、今着ているお気に入りのパーカーを濡らす、そんなことを漫画のように空想していた。
私は自分が殺されることよりも、刃物を持った、不審な、白髪の男、よれよれの服を着た男のことが気になっていた。彼はなんて表情をしているのだろう。「私はあなたに受容してもらえるだろうか」とでも言いたげな、初めて女を抱くナイーブな不安を感じさせる表情で、私を見つめ続けているのである。私を追い詰め、傷つけようとしている彼の方が私以上に恐怖に追い込まれていた。もう私を刺せる間合にいるのにナイフを持ち上げることもできない。何度もナイフの柄を親指で撫でて、自らを鼓舞している。泣き出しそうだ。彼は手が震えている。
あなたには出来ない。あなたには決して私を刺せない。あなたはそれを望んでいない。
私は目で、そのように訴える。
あなたは何かに怒り、または悲しみ、衝動的に刃物を持ち出してしまったが、決して私を刺すつもりではない。そのナイフを手から離しても誰もあなたを責めない。
男は肩で呼吸をする。私の目を何度か逸らし、何度も見つめ直す。男の中で何かが揺らいでいる。
突如、高架下にいた男性が、私と男の様子に気付き、私の目の前に立ち塞がった。
男性は叫んだ。
「この子を刺すなら、私を刺せ!」
正義感に突き動かされたこの男性の声を聞いて、警察官が高架下まで駆け付けたが、もう遅かった。
刃物を持った男は目の前の男を刺した。刺せ、と言われたからである。
私を庇った男性はその場で倒れた。警察官は不審者を羽交い絞めにし、現行犯を逮捕した。男は哀れなほどに抵抗もせず、されるがままパトカーに押し込まれてしまった。その顔にべっとりと貼り付いた恐怖を私は忘れることができない。
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