【文学】お題:平和と流刑地 必須要素:ゴマ

 空き瓶を拾った。瓶の底には、奇妙に大きな穴があいていた。


 それはまるで過去に水を入れていたということを無理やり忘れてしまったような、乱雑で脈絡のない穴だった。


 僕には、それを拾わずに素通りするという手もあった。でも、僕はなぜかその空き瓶を拾った。なぜだかわからないけど、拾わないと後悔する気がしたのだ。

 そういうことって、ある。思いつきの中にも、後悔するものとしないものがある。


 空き瓶には、少し窄まった注ぎ口があることと底がないことを除けば、特に目立つ点はなかった。なにせ、ラベルもないし色もない。入れるとしたら牛乳だろうか。まさかゴマではあるまい、大きすぎる。


 僕は空き瓶を家に持ち帰り、ノートパソコンの隣に置いてみた。瓶は、散らかった机の上に何かしらの秩序をもたらしているように見えた。

 それまでどちらかと言えば目を避けてきた散らかり具合が、少しだけ僕を惹きつける。その感覚は、不思議と落ち着いた気分を運んできた。



 ◆



 しかし、それは長くは続かなかった。

 電話が鳴った。知らない電話番号からだ。


 知らない番号というのは、非通知よりも奇妙さがある。自分が重要な何かをすっぽり忘れてしまい、それを責められているような感覚だ。


「お世話になっております」


 電話の相手は開口一番そう言った。低い、男の声だ。

 そんな声にお世話になった覚えはもちろんなかった。


「私は、罪深い空き瓶を川に流している者です。

 あなたは、私が流した空き瓶を持っていますね?

 その空き瓶を持っていると私としても具合が悪いですし、何よりあなたが不幸になります。

 どうか、もう一度川へ流して頂けませんか?」


 男はまるでテープレコーダーのようにスラスラとした口調で頼んできた。

 人をあしらうことに慣れている人間が出す声だった。多分、僕以外の拾った人間にも、全く同じことを言っているのだろう。


 こういう時、飛び込み営業を断るみたいに

『申し訳ありませんが、担当の者が席を外しておりまして……』

 という言い方はできないだろうか。


『申し訳ありませんが、担当の脳細胞がただ今外出中でして……』とか。

 これで相手が引いてくれれば、人間関係をずっと楽になるだろう。


 しかし、そんなわけにもいかない。

 世の中は開けゴマといえば物事が解決するわけではない。僕は瓶の数奇な運命を想像しながら質問をした。


「どうしてあの瓶には底が空いてるんでしょうか?」

「底の空いた瓶は、死の象徴なのです。なぜかというと、人が生きていくために必要な水を蓄えることができないからです」


 質問に対しても、テープレコーダーのような声が再生される。

 カチッ――、サー。耳をすませばそんな音が聞こえてきそうだった。


「どうしてあの瓶を流したのでしょうか」

「この瓶は墓の一部です。昔この辺りの土地では、墓の周りを底なしの瓶で囲む習わしがありました。

 底なしの瓶は水を貯めることができないので、いくら雨が降っても救われることはありません。それが当時の死のイメージでした。 

 生きている人たちは、死人が出るたびに底なしの瓶を新たに作っていました。それが償いなのかけじめなのかは私にはわかりません。おそらく両方だったと思います。心の平穏のために、必要な行為だったのです」


 話はそこで終わった。どうやらもう用件は伝え終わったらしかった。

 やれやれ、知らない番号からの電話というのはいつもこうだ。


「わかりました。元の場所へ返しておきます。これ以上へんな電話を受けたくないですから」

「お願いしますよ。くれぐれもリサイクルには出さないように。あれは普通の瓶ではないですから」


 男はそう言うと電話を切った。僕はもとの場所へ瓶を捨てた。


 机の上は以前の様子に戻った。秩序のまるでない書類の散華だ。鼠が書類投げ合戦でもしたあとのような、淋しい雰囲気の机だ。


 僕はためしにペットボトルを置いてみた。けど、あのとき感じた気持ちはもう湧いてこなかった。

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