【文学】お題:おいでよ兄 必須要素:文学

「おいでよ、お兄ちゃん」


 僕の朝は、いつもこうして始まる。

 目が覚めて、最初に耳にする言葉は、いささか現実離れしていて、それでいて現実の僕の頭を揺り動かしていた。


「お兄ちゃん! はやくはやく」


 下の階からする声は、僕を囃し立てるような口調ではなく、ゆったりと包み込むような暖かさがあった。

 僕は、そんな声に抱かれて、もう一度寝てしまいたくなる。

 しかし、今日はそうしなかった。もっと深い所にある感情が、僕を動かしたのだ。


「おはよう」

「おはよー」


 布団から起きて、丁寧に布団を畳んで一階に降りて、挨拶をする。

 今日はどんな話をするのか、まだ考えていない。まだ頭が起きていないのだ。


 二日前まで、僕はとある人のことを考えていて、寝付けなくなってしまっていた。それは本当に、本当につらい日々だった。

 僕が目を閉じると、あの人が僕の目の前に現れて、僕をほっぺたを思いっきりつねる。それを我慢していると、今度は僕の身体の中に入って、僕の肺の入り口を塞ごうとするのだ。

 僕は息苦しさで目が覚める。でも、もちろんあの人はここにいない。


 いつもそんな日が続いていて、僕は次第にやせ細っていった。

 眠りの底に着こうとすると、いつもあの人が先回りしているのだ。そして、僕の耳元で何かの言葉を囁いた。

 その声は、僕を激しく揺り動かした。いつまでもいつまでも、消えない星のように存在を主張し続けた。


「お兄ちゃん……今、テレビで面白いことをやってたよ」

「へぇー、どんなの?」

「うんっとねぇ……クリップをこう、伸ばしてね、コマを作ってたよ」


 妹は、若干遠慮がちな声で言う。僕が無理やり起こされて、不機嫌になってると思いこんでいるのだろう。

 やれやれ、僕はたった10歳の女の子にまで気を使わせているのだ。


 僕の日常はこういうものの積み重ねだった。小さな誤解を、そのまま積み重ねて、大きな過ちをもたらしていた。

 その頃には、どんな誤解が原因だったのかもわからない。だから、いつまでも知らないフリが出来る。


 僕は、そうやっていろいろなことをやり過ごしてきたのだろう。

 ……でも、今まで何をやり過ごしてきたのか、思い出せなかった。


「おいでよ、お兄ちゃん」


 ふと、下の階から声がする。どこか懐かしい声だった。

 

 ……そうだ、僕には妹がいた。妹はぶきっちょだから、朝御飯を一人で作れない。

 今頃、お米に入れる水の分量を間違えたとか、卵焼きの味付けがうまくいかないとかで、困ってるに違いない。


 寝起きでうまく動かなかった脳が、宙に浮いたように感じた。

 僕は、まるで得体の知れない力に引っ張られるかのように、妹の声の方へ向かっていた。なぜかわからないけど、僕は妹の場所への行き方を知っていた。


 廊下を過ぎ、玄関へ向かう。姿見のついた縦長の靴棚を開けると、中に階段がある。

 僕はその狭い棚に体を滑り込ませながら、自分の体が別の何かに変わってしまったかのような錯覚を覚える。

 棚に入り込んだ時、僕は僕自身ではなくなっていた。

 

 そして、軋む音を立てながら、階段を一段一段降りる。

 階段を降りれば降りるほど、妹の声は大きく、悲しいものに変わっていった。ときどき、上の階からも似たような声がした。どちらも僕の心の深い部分に訴えかけていた。


 下の階につくと、革靴の匂いは完全に消え、代わりに冷たい空気の匂いで満ちていた。

 人のいるべきでない場所の匂いだった。固まっていて、二度と溶け出すことのない奥山の雪が発する匂いだった。

 

 しかし、電気のスイッチが見当たらない。僕は、手探りで周りを確認しつつ、壁伝いに妹のいる台所を目指す。

 途中、小さな猫が、神棚の上から僕を睨みつけているのが見えた。

 僕は猫の目線に入らないように、いかめしい感じのする廊下をゆっくりと通りすぎた。


 やがて、手がドアノブに当たる。妹の声は、ピアノの音に混じって、ドアの向こうから聞こえていた。

 僕はドアノブを下げてゆっくりとドアを開ける。

 中からは悲しげなピアノの音色とともに、コンロの火が揺らめくような音が混じって聞こえてきた。

 僕は、火の音のするほうに近づくと、目的の存在を発見し、胸を撫で下ろした。

 さっきまでコマの話をしていた妹は、コンロの前で泣きじゃくっていた。


「どうしたんだ? また失敗したのか?」

「うぐっ……えぐ……」


 妹はしゃくり上げるばかりで、一向に言葉を出さなかった。とめどない感情ばかりが流れ、僕の理性までもが押し流されそうだった。


 そして、妹はなぜか裸にエプロンをつけていた。

 両肩の辺りが大きく空いて、腕から胸元の付け根までのラインがひっそりと覗いている。

 非日常的な状況での裸は、僕の心を激しく揺さぶった。

 

 コンロの上のフライパンに乗っていたのは、オルゴールだった。

 あの悲しげなピアノの音は、オルゴールから出ていたようだ。密やかな妹の朝の調理を、そっと彩るオルゴール。僕は、火事になるような気がしてオルゴールを掴んだが、冷たさに驚き、直ぐに離してしまった。


「えと……これはなんだい? どうしてこんなことをしてるの?」


 でも、妹はやはり泣きじゃくるばかりだ。いつまでもいつまでも泣きじゃくっていた。

 時折、エプロンを下の部分を掴んで涙と洟を拭いた。そのたびに隠されていた部分が露わになる。

 僕は自分の理性に無理矢理ふたをする。すぐさま、理性が息苦しさを訴えてきた。

 僕はこの苦しさを覚えていた。あの夢だ。

 夢の中で、僕の肺の入り口を塞いだ、あの苦しみ。

 

 そして、僕はこの泣きじゃくる声も、どこかで聞いたような気がしていた。

 ――あの、僕を眠れなくさせていた、あの声だ。

 

 僕は、心臓を冷たい手で握られたみたいな心地がした。

 フライパンの上のオルゴールは、火にかけられているのに、どんどん冷気を放ち、冷たくなっていく。それにつれて、ピアノの音にも不協和音が目立ち始め、悲しい音色になっていった。

 僕は、火を止めようとしてコンロのスイッチに手を伸ばしたが、妹の手に払われてしまう。


「危ないよ。オルゴールなんて焼いちゃ」


 妹は火を止めようとしなかった。代わりに、小さな声で訥々と言葉を漏らす。

 

 ――たまごやき?

 

 妹はコクンと頷く。オルゴールの音色が少し変わった。中で何かが起こったらしい。

 僕はミトンの鍋つかみをはめ、オルゴールの蓋を開ける。すると、香ばしい匂いと共に、黄金色の卵焼きが現れた。


 ――食べて?

 

 妹は再び言葉を漏らす。僕は手袋を脱いで、卵焼きを掴む。指先から、柔らかな感触とほんのりとした温かさが伝わってくる。 

 オルゴールの冷気が嘘のようだった。気がつけば、もうオルゴールは常温に戻っていた。


 卵焼きを口へ入れる。すると、ふんわりとした歯ごたえの後、内側に閉じ込めたれたダシが溢れ出した。それは、今まで食べたどの卵焼きとも美味しかった。

 でも、何かが間違っていると思った。僕はその違和感の正体をつかめなかった。

 結局、妹にも卵焼きを食べさせ、二人で味わった。


 妹に味の感想を言おうとすると、不意に喉元で冷気が励起した。それはみるみるうちに僕の肺に到達し、肺の機能を止めてしまった。

 薄れ行く意識の中で、妹にも同じことが起こっているのではないかと心配しながら。


「おいでよ、お兄ちゃん」


 妹の声がする。

 ……ここは、どこだろう?

 

 体と心が分離してしまったような感覚に慣らし、徐々に意識を覚醒させる。

 背中の冷たくて硬い感触が、台所の存在を告げていた。


「何かあったの?」


 耳元で声がする。

 僕は、なんでもないよ、と答える。


「本当に?」


 本当だった。僕には自分に何が起こっていたのかを思い出せなかった。

 何か大きな過ちを犯した気がする。けど、それが何なのかわからなかった。


 原因なんてわかりようがなかった。だから仕方なくやり過ごしていた。

 けど、僕はそこから逃れることはできないだろう。


 ただ、喉元の息苦しさだけが何かを訴えて続けていた。

 それは、息苦しさという形でしか、存在できないものだった。

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