【文学】お題:恋の円周率 必須要素:自殺エンド

 僕は山手線で、円周率が好きな女の子と出会った。


 彼女は隣に座り、小さな声で何かを囁いていた。僕はその声が気になって、読んでいた本から隣の女の子へと意識をずらす。

 すました耳へ滑りこんできたのは、円周率だった。


 いや、正確には円周率らしきものだろう。僕は「3.14159」くらいしかわからない。その先にどんな数が待ち受けているのか、僕には知りようもなかった。

 ただ、彼女だけがそれを知っている。


 僕は、その次の日も、彼女の声に耳をすませていた。昨日と同じ席に座ると、昨日と同じ駅でその子は来て、僕の隣に座った。他に空いている席はなく、僕の隣だけが空いていたからだ。


 彼女の声に耳をそばだてていると、「3.14159」と聞こえる。また円周率が始まった。どうやら、毎日最初の数から唱えているようだ。

 ふと、すごろくのマスが浮かぶ。『円周率を忘れる。ふりだしに戻る』。でも彼女はそんなことを気にしてないかのようだった。そこでは、終わりのない円周率を覚える意義なんて些細なことのように思えた。


 次の日から僕は、自分も円周率を覚えようと思った。決まったパターンはないらしいので、僕はひたすら彼女の声をシャドーイングすることにした。

 車輪がレールの継ぎ目を叩くリズムを感じながら、円周率を唱える。最初の内はうまくついていけなかったが、徐々にペースを掴めてきた。段々、彼女の数字が自分の中に溶け込んでいく気分になった。


 ある日僕は、最後まで円周率を言い切ろうと決めた。

 彼女の隣に座り、円周率を唱える。直径と円周の関係は、どこまで行っても言い切ることができない。彼女ともそんな関係でありたかった。

 山手線は何度も回った。京浜東北線や湘南新宿ラインは円から抜けていった。彼らは答えに辿りつくのだろうか。僕はこの円の中で、答えを見つけたいと願った。


 不意に、何かの違和感を感じるようになった。体の細部を少しずつこわばらせていく種類の違和感だった。

 僕はその正体を感じる。周りからの冷たい視線だ。何時間も席を占領して、訳の分からない数字を唱えていたら、誰だって邪魔に思うだろう。

 僕はこわばった体を意識から離しつつ、これはいつになったら終わるのだろうと思った。そう思った時、僕の意識はどこかへ消えてしまった。


 ――目が覚めると、電車の中だった。電車は駅もない所に止まっていた。今は何周目だろうか。体が重い。日は随分落ちて、不吉な黙示録のような光を車内に投げかけている。


 彼女はいなかった。僕は円周率を言い切れなかった。彼女は最後まで続けられたのだろうか。何もわからない僕の耳に『人身事故』という言葉が聞こえる。背中に冷たい汗が流れていく。


 彼女は山手線に飛び降りて、死んだ。僕のせいなのだろうか。きっとそうだと思う。

 僕は円の外に出てしまった。円の内側にいる人間を笑ったせいで、円の内側にいられなくなったのだ。それは間違った抜け方だと思った。


 僕は試しに円周率を唱えてみた。でも、「3.14159」の次が何なのか、思い出せなかった。まるでその先の記憶がすっぽり抜け落ちたみたいに。

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