4

 好きなことがうまくいっていないときはだいたいほかのこともうまくいかなくなる。期末テストの理系科目は赤点ギリギリのような感触だった。


 祭りは土曜の夜で、駅前で待ち合わせをした。夏実は水色の浴衣を着ていたけれど、わたしは制服で来てしまった。


「なんで制服なの?」


 明らかに夏実に嘲笑された。


「制服で来るかなって思って。浴衣で来るなら言ってくれればよかったのに」


 そうは言ったものの、浴衣なんてすぐに用意できなかった。制服で来てしまったのは、きょねんのクラスの友人が制服で来たからだった。


 いつもは道路になっているところが閉鎖されて出店がたくさん出ていた。同じ学校のひとと近隣の学校の制服を着た生徒も何人かいた。先生たちもパトロールをしているようだった。


 夏実はチョコバナナを食べたり、林檎飴を買ったりしてはしゃいでいた。わたしはあまりお腹が空いていなくていろいろな匂いが綯交ぜになった空気だけで胃が満たされていった。辺りを見渡してはあすかを探した。だけど見つからない。夏実が話しかけていてもずっとうわの空だった。あすかは最近、会いにきてくれない。もし、沼井くんとあすかがどうにかなっていたら。そんな被害妄想をしていたら、夏実とはぐれてしまった。


「あれ、夏実? 夏実ー」


 周辺の出店を見るが、夏実はどこにも見当たらないし、スマートフォンから電話をかけても出ない。


 わたしは必死で近くを探しはじめた。似た浴衣を着た子がいても夏実ではなかった。


「梓?」


 振り返るとあすかが立っていた。その姿に愕然とした。髪を一箇所ゴムで結び、女物の黄色い浴衣を着ていた。去年は確か甚平をきていたはずだ。それに少しだけ化粧をしている。


「あ、あすか?」


「あれ、誰かと一緒なんだよな?」


「あ、あすかこそ」


「はぐれちった」


 あすかは迷うことなくわたしの手を掴んだ。


「ここはひとが多いから」


 やめてほしい。女の子のあすかなんて嫌。あすかにはまだ、ギリギリでいてもらいたかった。女の子でも男の子でもないあすかに。


 屋台が密集しているところからすこし離れたところに公園があった。わたしとあすかはそこのベンチに並んで座った。祭囃子が遠く聞こえる。この公園はあかりがほとんどなくて、誰もいない。


「なんで化粧してるの?」


「美姫たちにやらされたんだよ」


「嫌じゃないの?」


「嫌さ。でも、女装? なーんつって」


 いつもの裏表のない笑顔だ。


「似合ってないよ」


「ありがとう。俺も似合ってないって思ってる」


「似合ってない」


 そう言いながら涙が出てきてしまった。泣くつもりじゃなかったのに。こんなの酷いかもしれない。


「おい、何泣いてんだよ」


「泣いてないよ」


 わたしのポケットの中でスマートフォンが震える。夏実だ。


「泣いてんじゃん」


 あすかはわたしの両手を掴んで、キスをしてこようとしてきたけれど、思わず避けてしまった。


 はぁ、とあすかが大きくため息をついた。


「ま、いーけど」


 あすかはわたしの手を離し、前に向き直った。


「榎木!」


 公園に沼井くんが入ってきた。


「おう」


「おうじゃねえよ、心配しただろ」


「心配すんなよ。子どもじゃないんだし」


 沼井くんはわたしのことなんてまったく目に入っていないようだった。あすかを見る沼井くんの目は完全に好意に満ちていた。わたしはいままであんな風にあすかを見る女の子を見てきた。沼井くんは嫌いだ。黙ってベンチを立ち、公園を飛び出した。あすかはわたしの名前を呼んでくれないし、追いかけてくることも当然なかった。


 とぼとぼと歩いていると前から夏実が「梓」と呼びながら駆けてきた。


「心配したでしょ! どこ行ってたの」


「夏実こそ。ちょっと、気分悪くなって空気吸ってた」


「まったく。大丈夫?」


 はぐれたのは夏実じゃないかと責める気にもならなかった。


「ごめん、わたし、帰るね」


 もうこんなところに居たくなかった。


「えー? 体調そんなに悪い? ほんと大丈夫?」


「うん、ごめん。またね」


 空気は熱されてとても暑いのに体は冷たい。こんなにいろんな声がするのに何も聞こえない。ひんやりとした塊がこころの中にあって、壊そうと思うのにまったく砕けない。


 家に帰ってから何度もスマートフォンが鳴った。あすかからのメールも着信もすべて無視してしまった。出て話すべきだけど、じぶんの理想を押し付けるのはやめたかった。逃げるのはずるいとわかりながらわたしはまだ冷静になれない。


 あすかの言ったことをなぜだか、どれも「絶対」だとは思えなかった。振り回されてもいいと思ったのはあすかが男の子であるうちだけ。女の子に戻るならもうあすかのことを気にしたくない。いつかこんな風に突然壊れるんじゃないかと思っていた。だからわたしは絵を描き続けた。あすかをじぶんの手で変換してしまえば永遠になる気がした。ふつう、存在しないものを存在させようとするのかもしれないけれどわたしの場合存在するものを永久に保存するために絵を描いた。


 じぶんの描いた絵はそのままあすかを写しただけだった。女性性を排除することができないのでいつまで経っても失敗作ばかりできあがってしまう。


 次の日、新しいキャンバスをイーゼルに立ててひたすら線を描いていった。じぶんの中にずっとこびりついていた思い出が焼けていけば、思うような絵が描けるようになっていく。あすかはわたしの中で永遠に男の子。その思い込みが強くなればなるほど理想の線が描けた。


 朝から晩までぶっ通しで描きつづけると下絵はできあがった。まだ色をのせていないけれど、いままで描いた絵の中で一番満足の出来る仕上がりだった。頬ずりしたかった。でも、汚れるからやめておいた。色をのせず立てかけたまま眺めた。じぶんの絵なのに、それを眺めていると体の奥底が疼いた。一番敏感な部分が熱を持つ。だけど、それは意味のないことだから、その甘美を噛みしめながら、脚を組んで紛らわせた。

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