その蕾が開く鍵-1

 

 その日、不意の雨が降り始めた。

 それは特段、珍しいことでもない。

 けれど、あたしは傘を持っていなかった。

 1日の授業の終わりを告げるホームルームを終え、仲のいい友達に別れを告げてまっすぐに昇降口に向かってきたのに、雨はすでに本降りと言っていいほどの勢いになっていた。

 最近では珍しく気象庁の天気予報がものの見事に外したことに意外な思いをしながら、けれどもスマホで天気を調べたら長くは続かないようだったので、あたしは雨足が遠のくのを待とうと思い、退屈しのぎに音楽を聴くためにヘッドフォンを装着しようとして、右耳に先に嵌めた時に。

「あれ、瑞帆みずほじゃん。なにしてんの?待ち合わせ?」

 声がかかった。

 忘れたくても忘れられない、昔から鼓膜に染み付いているクラスメイトの声だ。

しょうか。あんたこそどうしたの」

 昔からの知り合いである槌矢章つちやしょうが昇降口から出てきた。

「帰るんだよ。この前してた置き傘あったから…あれ?もしかして、もってないのか?傘」

 手にぶら下げていた折り畳み傘を見せつけながら言ってきた。それに少しイラッとしつつ、しかし別に言い返しもしない。そんなカロリーを使うのはただの無駄だ

「うん。降る予報じゃなかったから。今朝の天気で傘持ってたらおかしいでしょ。置き傘もないし」

「……なら、これやるよ」

 そう言って、折り畳み傘をあたしに無理やり握らせる。

「え、ちょっと、あんたはどうす」

「俺は走ってくから。じゃ」

 言い捨てるようにあたしの言葉を遮って、彼は返事も待たずに走って行ってしまう。

「……ちっ」

 せっかくだと思って、受け取った傘を開き、あたしも歩き出す。

 あたしの人生を一時期めちゃくちゃにしてくれたくせに。

 それを全然知りもしないで。

 全くもって、モヤモヤする。



 結局それから、雨は程なくして止み、自宅までの通学路半ばにして必要なくなった。そんなこともあって走るのをやめたのか、信号待ちしていた章になぜか追いついてしまったので、水を払って畳んでいた傘をその場で返す。そこから先の帰り道が少しの間一緒だったので並んで歩いたけど、そのせいで余計にイライラする。なんで章の家とうちは角二つしか離れていないのか。

 わずかながら学校の方面にある章の家の前で別れて、濡れたアスファルトの上を一人で歩き始め、家の玄関の鍵を回す頃にそのイライラはほとんどピークに達していた。

「…ただいま」

 誰もいない。

 妹は部活をしているから帰りがまだなのだろう。両親はまだ仕事から帰宅していない。念の為傘が二本以上あることを玄関で確認して、自分の部屋につながる階段を登りながらラインする。”帰りに雨降ってたら散歩がてら迎えに行くから連絡して”

 部屋に入って制服のブレザーを放って、ブラウスのボタンをいくつか開放する。キャミソールの襟元が見えるけど誰もいないからどうでもいい。その途端に、ピークっぽくなっているイライラが急に両肩に重くのしかかってきたような気がするけど、その実は違う。

 左胸で鼓動する心臓の少し右のあたり、架空内臓器官の心というやつが、ずっしりと重くなったように感じてそのままベッドにうつ伏せに倒れこむ。

 バウンドしたせいでスカートがひどいことになっている感じはするけどそれもどうでもいい。どうせ誰もいない。

 脳内に巡る様々な映像が目まぐるしくて、しばらくそうしていたら、もしかしてこの重苦しさはうつ伏せのせいなんじゃ無いかと思って寝返りを打つ。見慣れた天井。今度はそこに、脳内の映像がプロジェクターで投影されているように見える。

 煩わしい。

 そんなわけないのだ。

 信じられない。

 こんな自分は自分じゃない。

 そう結論づけたはずだ。

 なのに。

 こんな自分がいるなんて、絶対に信じてやらない。

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