第4話 調理開始

 金曜の夜は士郎が夕食を作っている。週末は双方の親が仕事で遅くなるためだ。シズエの母は、何か用意しておくからと言っているのだが、シズエは頑として断っている。


「私達にまかせといてよ。バランスよく作って食べるからさぁ。」


 私達とは?その時、横で聞いていた士郎は心の中で呟いたが、、口に出しては言わなかった。出来た男である。


 


 さて、調理開始である。


 学校から帰宅後に作るので、凝ったものではない。今から士郎が作る『鶏胸肉のチャーシュー風』も焼いて蒸して切るだけなのだが、シズエのお気に入り料理の一つである。

 というか、楽しみにしているのは料理というより、金曜の夜という時間なのかもしれない。士郎と行くスーパーの買い出しも含めて、全ての工程が非日常の遠足気分で楽しいのだ。大人のいない家の中で、士郎と過ごす時間の全てがワクワクする時間なのだ。


 


 士郎は鶏肉をパックから出し、表面に付いた汁をキッチンペーパーで拭き始めた。生臭さが取れるので、このひと手間は欠かせない。 


「今から作ると、七時には食べられるかな。でも美味しい食べ頃は八時くらいだけど、どっちが良い?」


「八時!」


 人差し指をピンと一本立ててシズエは即答した。指にも本数にも意味は何も無いが、それがシズエである。


「よし、じゃあ出来るだけ早く作るからな。」


 この時点で肉をフォークでブスブスと刺し、下味用の調味料を混ぜ合わせている。酒と醤油を大さじ各三、砂糖小さじ一、ニンニクと生姜はチューブを適当にニュるりと出し、よく混ぜる。これに肉を漬け込むのだ。


 定番料理なので、流れに淀みがない。しかしながら几帳面な士郎はレシピを書いたメモを時折りチェックしている。そのメモは士郎の手書きなのだが、何度も書き直した跡がある。シズエの反応に合わせて、少しずつマイナーチェンジしているのだ。美形のクセにマメである。士郎の高校における、『嫁にしたい男子ランキング』不動の一位は伊達ではない。ちなみに男子からの投票もかなりあったのだが、何の疑問があるだろうか。


「肉の漬け込みしてるから、用意出来たら焼くからね。」


「では、お待ちしておりまするー!」


 言うが早いか、キッチンの対面カウンターまで椅子をズルズルと引っ張り、ストンと座った。士郎が作り、シズエが見守りし天下餅。それを座りし食うもシズエ。


 たまに手伝いはするが、基本的にシズエの役割は見学である。シズエとしては食材選びという大役をこなした時点で、かなりの満足感を得ているので問題無い。自分の選んだ食材を、士郎が料理する。それを見ている時間が、他の何にも替え難い至福の時間なのである。


「テレビ見ててもいいよ?」


「いやいや!お兄ちゃんが料理してるのに、そんな事出来ないって。」


 なら手伝えば良いのだが、シズエの尻は椅子と一体化している。


 漬け込んでいる間に、士郎は淀みなく洗い物をこなしている。洗い、拭きあげ、棚に戻す。動線のラインに無駄が無い。何事においても無駄を排除した動きは美しい。シズエにはその理屈を言葉で表すことは出来なかったが、感覚でキレイだということは理解していた。キッチンのカウンターの上で両手を組み、ニンマリとした顔でそれを眺めている。


「よし、洗い物終わり。焼くよ。」


 フライパンにサラダ油を入れ、強火にかける。全体に馴染むように、ぐるーりとフライパンを傾け、頃合いをみて皮目を下にした肉を投入する。


 ジュッ


 という短い音と共に白煙が緩く昇る。熱せられた油に調味料が混じり、パチパチと音を立てて弾け飛んだ。トングを持って肉の位置をずらす士郎の目が険しいのは、真剣に焼き具合を見ているからでは無い。飛んできた油が手にかかって熱いのだ。それでも士郎は声を出すことは無い。


 トングで肉をひっくり返すと、皮目がパリパリになっている。裏面も同様に強火で焼くのだが、焼き具合は本当に適当で良い。ある意味、肉は断熱材なので、厚みがある場合は中央に熱は通りにくいのだ。表面だけ焼けば、それでよい。


「よし、表面は焼けたよ。」


「あー、いい匂い!これだよね。これこれ!」


 貧弱なコメント力ではあるが、期待感は伝わってくる。醤油の焦げた香りは食欲を刺激するのだ。


 このままだと表面しか焼けていないので、中央を電子レンジで加熱しなければならない。士郎は肉を皿に乗せ、ラップをかけてレンジに入れた。


 ふふふんふふふー


 六百ワットで三分。肉の上下を逆さまにして、また二分加熱。レンジから皿を出して、粗熱が取れるのを待つ。


 んふふんふふふー


 この間にも、フライパンに調味料の残り汁を入れて軽く沸騰させ、漬けダレを作っておく。


 ふふんふーんふふんふふふふー


「シズ、その鼻歌なに?」 


「え?これ、お兄ちゃんが好きだって言ってた曲だよ!思い出の曲だよ!」


「ああ、ごめんな。なんだっけ……思い出してみるよ。」


 サビのところまで来たら絶対に思い出せるよ、とシズエは付け加えた。


 そうこうしているうちに、肉の温度が落ちてきた。士郎は水道の冷水で手を十分に冷やしてから肉に手を添え、包丁を入れた。断面の白さが美しい。出来るだけ薄く、薄く切っていき、それを深めの皿に並べていく。


「シズ、端っこ食べる?」


「あーん。」


 餌付けのように、肉の端切れをシズエの口に入れる。


「んー、美味しいけど、まだパサパサだね。」


「肉汁、全部出ちゃってるからな。」


 そうなのである。このやり方は、レンジ加熱で肉汁が大量に出てパサつくのである。パサるのである。皿には肉汁がたっぷりと残されている。


「お兄ちゃん、キレイに盛り付けるねー。性格だよねー。几帳面だよねー」


「はい、これも食べな。」


 シズエの口に反対側の端切れが放り込まれた。食べている間は静かだ。皿には三ミリ程度の薄さに切られた胸肉が、薄造りの刺身のように綺麗に並べられている。


 全ての肉を切り終えると、レンジ加熱で出た肉汁と、調味料を軽く煮詰めたタレを混ぜ合わせたものを、その上からかける。そうする事で、出てしまった肉汁が再び吸収されるのだ。


 士郎は全体に汁が行き渡るように何度も皿を傾けて、表面にラップをかけて冷蔵庫に入れた。


「はい、これで冷やして出来上がったものが、ここにありまーす。」


「だといいんだけどね。やっぱり八時くらいが食べ頃だよ。」


「じゃあ、お風呂掃除してくるー!」


「シズはえらいな。」


 パタパタとスリッパの音をたてながらシズエが廊下へと出て行く。士郎は、その背中を見送りながら、残った洗い物を済ませている。


 士郎は甘い。シズエには甘いのだ。士郎はシズエにとって従兄妹であり、兄である。このまま行くと父にでもなりそうであるのだが、方向性を間違えると母にでもなりかねない。いや、そもそもシズエの母は健在であるのだが。


 ふふんふふふんふー


 士郎は冷蔵庫から肉皿を取り出し、汁が全体に染み渡るよう、皿をぐるりとゆっくり傾けた。


 ふふんふふふふー


 冷えるにしたがって皮のゼラチン質が汁を固まらせるので、何度か取り出して同様の作業をすると、より美味しく作れるのだ。


 ふふんふふふんふふふふー


 風呂場からシズエの鼻歌が聞こえてくる。よほど機嫌が良いのか、鼻歌というレベルでは無い音量になっている。


 ふーふふっふ!ふふふっふー!


「ふーふふっふ、ふふふっふー。」


 士郎の小さな鼻歌が、シズエの豪快な鼻歌と重なった。


「……これは、ジャパネット?


 夢のジャパネット、サカター!

 気持ち良さそうに歌うシズエの声が、浴室に響いた。

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