第3話 帰宅
家に先に着いていたのは士郎の方だった。決して無茶な追い上げも信号無視もしていない。普通に走るだけで、普通に追い抜かしてしまったのだ。タイヤの口径も、足の長さも、人間の度量も、何もかもが違う。仕方があるまい。
「やっぱりズルいよぉ……」
待っていてくれた男の横を走り抜けた女の言う台詞では無い。士郎はそれを軽く聞き流し、門柱に付けられた郵便受けの中に手を伸ばす。ハガキや封筒などが幾通も入っていたが、全て親宛ての通知や料金明細の類であり、重要そうなものは無い。ただ、それらの宛先の苗字は一つでは無かった。二つである。そして、それと同じ苗字の表札が、それぞれ門柱に付けられていた。
『麻生』
『安倍』
近所の子供達はこの家を『国会』と呼んでいる。町内の人達はこの家族を『内閣』と呼んでいる。いずれにせよ重厚な呼び名であるが、当人達はその事実を知らない。いや、薄々感づいてはいるのだろうが、考えないようにしているのだろう。
士郎は玄関のドアに鍵を差し、カチャリと回した。誰もいない玄関口に先に入ったのは夕暮れの日差しだ。続いて士郎、安倍が入る。
「ただいま。」
「たっだいま〜。」
二人の声が響く。返事をする声は無いが、二人は靴を揃えて玄関に上がる。
「ただいま、お兄ちゃん!」
満面の笑顔で士郎を見るシズエは、まるで主人の帰りを待ちわびた子犬のようである。尻尾があればフッサフッサと振りまくっていた事だろう。実際、口は半開きになっていた。
「いつも思うけど、従兄妹だろ?……別にお兄ちゃんって呼ばなくても。」
「えー?なんかお兄ちゃんのほうが、ミウチって感じがするよ?」
「同じだよ。」
「違うよ!タラバガニとカニカマくらい違うよ!」
士郎は何となく納得したような気がした。印象は同じだが、中身は全然異なるということか。追い打ちをかけるようにシズエが言葉を続けた。
「タラバガニはね、エビの仲間なんだよ!」
昨日見た雑学番組の知識であった。どうしても使いたかったのだろうが、ここで使うのは果たして正解だったのだろうか。シズエは腰に手をやり口を開けているのだが、続く言葉が見つからない。何処かに失くしてしまっている。
「……そうだね。エビとカニカマは違うよね。」
「わ、わかればいいよ、わかれば!」
士郎は気配りが出来る男であり、思いやりのある男だった。拾えないボケでも必ず拾う。シズエは、いつかお笑いの道を志す事があるのなら、この男に声をかけねばならないと決意した。無論、断られることなどは考えていない。
二人は従兄妹である。シズエの母『安倍晋三子』と士郎の父『麻生多郎』は兄妹であるが、双方ともに伴侶と離別している。
安倍晋三子は夫を事故で亡くし、麻生多郎は妻と離婚。双方共に、最低でも子供が成人するまでは再婚の意思は無いと言うことで、二家族同居が始まったのである。
「でも、お兄ちゃんって呼ぶのは家の中だけにして欲しいな。」
「大丈夫だって、お兄ちゃん。」
どの口が大丈夫と言うのかと士郎は思ったが、なんとかその言葉を飲み込んだ。デカい錠剤を水無しで飲み込むような感覚であった。
廊下を歩き、ふすまをすうっと開けると、そこは畳敷きの和室であった。大きさにして六畳ほどであろうか。障子越しに西日が薄く入り込み、部屋は夕日の色に染まっている。床の間には達筆過ぎて読めぬ掛け軸に、飾り花。そして仏壇。
二人は並んで正座をし、おりんを鳴らして合掌した。澄んだ鐘の音がどこまでも続く糸のように、細く長く響く。
「ありがとね。いつもお父さんに挨拶してくれて。」
「うん。叔父さんは良い人だったからなぁ……今でも実感湧かないよ。」
「……だよね。六年たっても実感湧かないなんて、お父さんホントは死んでないんじゃないかな?」
両手を合わせたまま、アハハと笑うシズエの顔には何の曇りも無い。それで良いのだ。人は未来に向かって生きて行かねばならない。シズエのお腹がキュルキュルキュル〜っと鳴った。
「シズ……ご飯作ろうか?」
「うん!」
士郎は思いやりのある男である。そして従兄妹であり、兄であった。
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