第54話 ライブへの道

「ただいま」


 素っ気ないあいさつと共に、たちばなそらは玄関の扉を開けた。


 背後から差し込む日差しが目の前に影を作り、そらも靴を脱ぐべく自然と視線も下を向く。


 瞬間、そらは玄関に知らない靴が並んでいることに気付いた。


 だいぶ履きつぶされている印象の、黒い革靴。


 サイズとデザインから推測しても、成人の男性のものに違いないだろう。


「――お客さんかな?」


 そらはドアを閉めると、その靴を避けるように脇へと夜と、自らも靴を脱ぎ、リビングへと向かう。


 そしてリビングへ入る直前、そらは一度足を止めて、思い出したようにキャップ帽を被り直す。


 また、着ていた薄ピンクのキャミソールとデニム生地のボトムスを、それぞれズレを直した後、改めて一歩を踏み出した。


「えぇ、前よりも明るくなって……外出もするようになりましたし、何より笑顔が増えたことが嬉しくて――あら、おかえりなさい、そらちゃん」


 そらの姿を確認するなり、母――頼子よりこは話を止め、声をかけた。


「うん、ただいま……って、お客さんは高木たかぎさんだったんだ」


 返事をするべく、そらが顔を向けた先にあったのはソファに腰掛ける頼子と高木、両者の姿だった。


「あぁ、そらちゃん。お邪魔してるよ」


 いつものスーツ姿で軽く手を上げ、朗らかに高木はあいさつをする。


 それに対してそらは小さく頭を下げ、二人の座るソファへと近づいていく。


「ウチに来るなんて珍しいですけど、何かあったんですか?」


 そうたずねるそらに対し、高木はソファに座るようジェスチャーで促す。


「あぁ、そうなんだ。せっかくだからお母さんの方にも知らせておこうと思ってね」


 ソファに腰を下ろしながら、そらは帽子を脱ぐと、頼子に顔を向ける。


 すると頼子はどこか嬉しそうな表情を浮かべながら、黙ってうなずいてみせた。


「なんだかいい知らせっぽい感じですけど、一体何の連絡なんですか?」


 そらは両膝りょうひざに手を置き、高木をまっすぐに見据えて尋ねる。


 すると、高木は喜びを隠しきれない高いトーンで発表を始める。


「実はね、そらちゃん……デビュー曲が決まったんだ」


「へ?」


「だから『うしろ』ちゃんの、オリジナルの曲を発表することが決まったんだよ」


「オリジナルの曲……ですか?」


 半信半疑といった様子で、聞き返すそら。


 これまで、既存の歌を動画として投稿してきたそらであったが、あくまでそれは誰かを楽しませたいという思いのもとでのことであった。


 それゆえに、オリジナルの歌を披露したいという願望は、ゼロというわけではなかったが、そらの頭の中からは完全に抜け落ちていた夢であった。


 驚きのあまり、感情が追い付かないそら。


 そんなそらへと畳みかけるように高木は通達を重ねた。


「それだけじゃないよ。デビューを記念してのインターネットでのライブも予定してるんだ」


「ライブ? インターネットで?」


「そう、本当はスタジオを借りたり、3Dのモデルを用意したりして大々的にやりたいところだったんだけど、うちの事務所だと、どうしてもそこまで予算が組めなくてさ……これが精一杯だったんだ」


「いえ、視聴してくれるファンの前で、歌えるだけでも十分嬉しいですし……その、本当に、ありがとうございます」


 そう言って、深々と頭を下げるそら。


「私からも、お礼を言わせてください。高木さん、ありがとうございます」


 娘に続いてお礼を述べ、頼子は頭を下げる。


 そんな二人に、高木は手を横に振って謙遜けんそんし、頭を上げるよう促した。


「いえ、僕たちなんてそんな……。ライブといっても、他のバーチャルアイドルが生放送でやっているようなものですし、オリジナルの曲もさっきの1曲だけで、他はカラオケしてもらう形なので、こっちの方が申し訳ないくらいなので……あの、どうか頭を上げてください」


 若干慌てた様子の高木の声に、橘親子はようやく頭を上げる。


 そして、三者は互いに見つめ合い――数秒の沈黙を形作ったかと思えば、すぐに笑いの花を咲かせた。


 ――花開く夢。


 それは、秋にかれた種子が、つらい冬を耐え、春に芽吹めぶき、夏に花を咲かせるような感慨かんがいにも似ており、抱いた思いも一入ひとしおであった。


「あの、それじゃあ、僕はこれから仕事に戻ります。また何かあったら連絡しますので、そらちゃんも喉とか体調とか大事に。あと、このことはまだファンのみんなには秘密で、お願いね」


「はい、高木さんも、頑張ってください。私も、頑張りますから」


 そう言って、そらは白い歯を見せて、笑う。


 顔にできた傷跡など、もろともしない、この瞬間ばかりは世界で一番美しく、輝いているといっても過言ではない笑顔。


 それを直視した高木は、力強くうなずき、必ず成功させようと心に誓うのだった。

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