第14話 『うしろ』の動画

 インターネット上で用いる、匿名とくめい性を保つための名前をハンドルネームという。


 作家のペンネームや、芸能人が用いている芸名などと同じたぐいのものであり、身元が特定されづらいことから、嫌がらせやストーキングなどの被害を避けるために使用している人も多い。


 たちばなそらも、その一人であり、ハンドルネームは『うしろ』といった。

 

 別段、意味があってつけた名前ではない。


 最初に入力する名前を考えたとき、別人の名前を自分につけるのが、どうにも受け入れづらくて、なるべく名前っぽくない単語をと考えた結果だった。


 投稿を開始してから数週間、アップロードした動画の少なさもあって、動画投稿者『うしろ』の動画再生数はほとんど伸びることはなかった。


 だが、そらは活動をやめようとは思わなかった。


 それは歌に対する自信があったというわけではなく、かといって逆境に対する反骨精神があったからというわけでもなかった。


 そらが歌い続け、動画を上げ続ける原動力――それは、初期に上げた動画についた視聴者のコメントにあった。


 ――素敵な歌でした。これからも楽しみにしてます。


 シンプルで、どこにでもありふれていそうな言葉。


 以前のそらは、その言葉の持つ力を理解できず、もっと気の利いた言葉でも掛けたらいいのにとすら思っていた。


 しかし、今のそらは、そうではないのだと、ハッキリ理解できた。


 どんな短いコメントであっても、自分に対して思いを向けてくれるという、その現実が無限の活力を与えてくれるのだとわかったからこそ、それをかてにそらは休むことなく前進を続けたのだ。


 そして、背中を押されながら歌い続けた結果、そらの動画の再生数は徐々に伸びていった。


 その事実がまたモチベーションとなり、そらは今まで以上に力を入れて歌唱に努める。


 この上ないくらいの、好循環であった。


 動画につけられるコメントも増え、有名とはいえないまでも、『うしろ』の名は、そこそこに名の知れた存在程度には認知されてきていた。


 そしてそら自身も、動画のクオリティを上げるために、そろそろ録音環境を変えてみようかと思い始めたある日。


 最近の動画につけられた、あるコメントに、そらはかつてないショックを受けた。


――この人、顔出さないのかな? 生配信なまはいしんとかしたら人気出ると思うんだけど。


 決して悪意から発せられたコメントではないことは、そら自身も十分に理解できていた。


 だが、それと感情を素直に切り替えられるかは別問題だ。


 書き込んだ人からすれば、きっと誉め言葉として、そこに自分の願望も折り込んだ、正直な感想だったのは、容易に想像がつく。


 ただ、そらにとっては、そこだけは踏み込んでほしくない領域でもあった。


 もちろん、マスクや被り物などで顔を隠せば、ライブ配信はできないこともないが、それで万事解決というわけでもない。


 ――万が一にでも、顔にある傷を見られてしまったら。


 そう思うと、そらはどうしても行動に起こそうとは思えなかった。


 ――視聴者の期待にはできるだけ応えてはいきたい。


 その思いは確かにある。


 でも、そらにとっては無理難題と大差なかった。


 右手を顔に伸ばすと、残酷な現実の感触が指先にその存在を主張してくる。


 瞬間、そらの瞳には自然と涙があふれてきていた。


「私が、私が普通だったら……」


 どうしようもないことであることは十分に承知だった。


 それでも、そらは自身の境遇を憎み、悔い、無意識の内にきつく歯を噛みしめる。


 うつむけた顔は、長い髪の毛で隠され、どんな表情をしているのか、うかがい知ることはできない。


 部屋に訪れる静寂。


 そこに、そらの嗚咽おえつが静かに溶けていくのだった。

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