第3話 まっさらな日常

 白みの強いクリーム色の壁と、つやのあるフローリングが調和した造りのダイニングキッチンは、早朝という時間帯にも関わらず、穏やかな空気が漂っていた。


 窓から差し込むやわらかな日差し。


 コーヒーメーカーから立ち上る、コーヒーの香り。

 

 そしてマイペースに自らの時間を刻む、壁掛けの時計。


 それらに囲まれながら、黒髪を後ろで束ねた小柄な中年の女性――たちばな頼子よりこはキッチンで一人、食器を洗っていた。


 旦那の出勤が早かったこともあり、今日は久々にゆったりとお茶を嗜む時間がとれそう――。


 そんなことを頼子が考えていると、不意に廊下に通じるドアが、ガチャリと音を上げて開いた。


 つられて食器洗いの手も止まり、視線も自然と上向く。


「……おはよ」


 低血圧を感じさせるローテンションなあいさつと共に入ってきたのは、上下を灰色のスウェットでそろえた少女であり頼子の娘――橘そらだった。


 腰まで届きそうなつやのある黒髪のストレートヘアは頭頂部付近が寝ぐせで不自然に跳ね上がり、直前まで眠っていたことが容易にうかがえる。


 ただ、それ以上に目につくのは、ほおからひたいにかけて連なった巨大なミミズ腫れのような痛々しい痕だ。


 だが、頼子は何事もないかのように口元をほころばせ、タオルで手についた水滴をぬぐい、声をかける。


「あっ、おはよう、そらちゃん。どう? コーヒー飲む?」


「……ううん、いらない」


「そう? じゃあ、母さんだけいただくわね」


「うん……あれ、お父さんは?」


「父さん?  父さんならもう仕事に行ったわよ」


「あっ、そうなんだ……わかった」


 そう言うと、そらは食器棚からグラスを取り出し、冷蔵庫にしまってあったジュースを注ぎ始めた。


 一方の頼子もコーヒーメーカーから自分のカップへとコーヒーを注ぎながら、そらへと声をかける。


 カップから湯気が上り、コーヒーの香りが一層強く広がった。


「もしかして、父さんに何か用でもあった?」


「特には。ただ、いつも居るのに今日は居なかったから聞いてみただけ」


 素っ気なく答えると、そらはグラスを一気にあおった。


 そしてシンクへとグラスを置くと、そのまま元来た扉へと戻っていく。


 そらが扉の向こうへと消えようかというタイミングで頼子が声をかける。


「そうだ、そらちゃん、今日は出かけたりするの?」


 頼子の問いかけにそらは振り返ることもなく、言葉だけを残す。


「今日はいいや……それじゃ」


 頼子の返事を待つことなく、部屋の扉は閉められ、ダイニングキッチンには再び閑静なひと時が訪れた。


 頼子は数秒ほど、今は見えない娘の背中を細めた目で見つめ、そして手にしたコーヒーを口に含む。


 そして、ブラックコーヒーの慣れない苦みに顔をわずかにしかめながら、頼子は深く息を吐くのだった。

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