2:家庭環境は大事だと思わせてくれる姉弟
「彼を愛してるの」
頬を赤らめ、瞳を不自然なまでにぎらつかせた女から告げられた時、私は家人にばれたら眉を顰められそうな言葉が口から出かけていました。
そうですね、身分差をわきまえない女の行動を諫められもしない木偶の坊の騎士様がいなければ、零れていたかもしれません。
女に心酔し、誰彼と切りかかってくる騎士様にも、私の思わず零れてしまう言葉の抑止力という役目は果たせられるようで。
私はこれでも公爵令嬢ですから、ふさわしい言動を心掛けなければなりません。
そうでなければ、姉として、弟の見本として、示しがつきませんから。
なので、弟への愛を告げられた私は、とりわけ騎士様と伝え聞くだろう弟に考慮して言葉を選んだのでした。
「好意を持っていただくのは有り難いのですが、弟には婚約者がいますので、そのお気持ちに返せるものはございません」
そう答えた時、女は眉をひそめました。
「それはつまり、あなたは私たちの仲を邪魔するということ?」
おかしなことを言われる、と私は思いました。
邪魔しなければならないほど、あなたと弟の距離が縮まっているとでも言うのでしょうか?
婚約も決まっている弟が、愛などと戯けたものに現を抜かすと考えておられるとしたら、それは貴族の男子として生まれた弟を侮辱する発言だとなぜ理解されないのか。
私は、困惑をわかりやすく顔に浮かべて見せた。
「彼は私を愛しているのに?」
彼女は自身が弟に愛されていると真に信じ込んでいるようでした。
思い込みというものは厄介なものだと私から零れるのは溜息ばかり。
弟が彼女を愛するわけなどないのに。
公爵家を継ぐ唯一の男子である弟が、自身の感情すら制御できないと思われるのは遺憾でしたし、彼が複数の女性に秋波を送る人間だと信じられるのも腹立たしいことです。
ええ、姉として弟が誤解されるのが嫌なのは当然のことです。
「貴女に理解できるようにお話しすると、弟はあなたを愛しません」
ですが私のその言葉が納得できなかったのでしょう。
その後も女は私に対して、弟の愛を嘯きましたし、騎士様は苦々しい顔をするばかりで、女を止めることすらしません。
城下町で平民として育てられたと聞きましたが、ここまで物分かりが悪いとは。
弟に付きまとうのも、私と対等に口をきくのも、何をとっても女の行動は、この国の貴族として居座るにはあまりにも相応しくない。
古くからの因習というのは守られるからこそ、秩序を持った社会を築くというのに、彼女は自身の好悪にのみ判断基準を置いていて、いたずらに周囲に混沌をもたらそうとしているようでした。
このような無知さにも、騎士様のように共感してしまう人間がいるということに、この国の将来を憂えずにはおられません。
いいえ、国ばかりではありません。
弟が彼女に感化されてしまうのが私は恐ろしかったのです。
「婚約者がいるから何だと言うの!婚約なんて破棄すればいいのだわ!
私と彼は愛し合っているの!!!」
弟が貴様のような輩を愛するものかっ!!!!
何度衝動的で暴力的な解決方法をとってやろうと思ったかわかりません。
だけど、ああ、それは公爵令嬢で淑女たる私のすることではありません。
どうして弟は私をこんなにも悩ませるのでしょうか?
扱いにくい弟でした。
母を異なる生まれとしていましたが、私は姉として弟を慈しみ、愛していました。
だけれど、弟に対して幼い子どもに接するような態度をとってしまうと、苦笑を返され、するりと躱される。
大人びている、のでしょう。
それがもどかしく、かといってあまり構いすぎると姿を消してしまう。
私は弟と殊更関わろうと努めましたが、噛み合わず、やはりうまくいきませんでした。
何がいけなかったのでしょう。
私は常とは言わず、頻繁に弟のことを考えていました。
私の唯一の弟なのですから、当然のことです。
そして、身にまとわりつく視線からも弟が私のことを意識していることは理解していました。
私は弟を愛していたし、弟も私を愛してくれている。
それは、彼女の叫ぶような思い込みではなく、真実の一側面でした。
私はうれしかったのです。
誰かを罵り、恨み、取り繕うことばかりの家族とは名ばかりの表面上の環境の中、弟が私を愛してくれていると、確信を持てることがどれだけ私の心を支えてくれたか。
私は弟の愛がどのような形であれ、それに答えるべきだと思いました。
私も弟を愛しているのですから。
殺伐とした環境で、姉弟二人で身を寄せ合って助け合ってきたのですから、私が弟を愛するのは当然のことなのです。
ただ、弟は私を独占したがり、私に触れたがりました。
恍惚な表情で私に触れ、口には出せないようなことをし始めた時は気まずく思いましたが、それでも私は弟の愛が喜ばしく、それに答えなければと思いました。
姉として、家族として、弟の愛に答えるのは当然のこと。
それも私を殊更愛しているからだという。
私は歓声を上げはしませんでしたが、内心の歓喜を抑えきることはできませんでした。
深夜、家人が寝静まった頃、弟は迷子になったような途方に暮れた顔で、私の部屋の前でぼんやりと立ち尽くしているのです。
「お入りなさい」
「…アナ」
姉様と呼んでくれなくなった、成長を感じさせる低い声音に寂しさを感じながらも、弟を室内に入るよう促します。
弟は少しためらってから扉をあけ、中へとゆっくり足を進めました。
招き入れた私の肌は湯船から上がったばかりのため、仄かに赤みをおびていました。
それを見て、再び弟は足を止めてしまう。
ごくりと唾液を飲み込んだやけに部屋に響いて聞こえました。
私は震える弟の手を掴み、ゆっくりとベッドに押し倒しました。
「灯りは消したほうがいいでしょう」
暗くなった室内で、するりと羽織っただけのバスローブがベッドの上に落ちました。
私にはよく見えないけれど、弟には見えていたのでしょう。
私の下で、弟の体が強張ります。
そして、暗闇の中、私は弟に唇を押し付けました。
緊張で乾いた口内に舌をさしこむ。
濡れた音が室内にあふれ、つたないながらも、舌を絡めあいます。
「っふ……」
荒くなる呼吸。
戸惑っていた弟の手が、私の肌の上をまさぐりはじめ、そして胸に触れました。
「アナ………アナスタシア」
いつの間にか、形勢は逆転され、弟が上に覆いかぶさり、むしゃぶりつくように胸に吸い付いています。
まるで赤子のようね。
私はふふっと笑い、弟の頭を優しくなでました。
「アナ…!!」
「……っぁ…ふ…」
こらえきれず、こぼれた吐息に弟は手の動きを速めました。
「…レイモンド…」
かわいい弟。
私は夢中になっている弟の太ももからゆっくりと手を伸ばします。
唇を食らいあい、唾液がまじりあい、粘液同士が絡み合う快楽におぼれ、頭がぼんやりとしてくる。
夢心地のような幸福感。
はあはあと荒い呼吸が静まりかえった部屋に響きました。
何かにとりつかれたかのように弟は私の名前を呼び、腰を振り続け、すべてが終わった時には、弟はぱたりと私の体の上に倒れ伏すのでした。
「………なっさけね…」
いたたまれなさそうに弟は呟きました。
「レイ?」
「…馬鹿みてえだ」
「愛し合うことが馬鹿、でしょうか?」
「違う!オレが…!…余裕ねえし、ガキだし」
ふふ、と笑うと弟は恨めし気に私を見つめました。
「余裕がないのは私も一緒ですよ」
「どこがだよ」
「レイ、わからないの?」
弟の頬に、額に、首筋に口づける。
もどかしげな弟が私の両頬を手で押さえ、唇を合わせます。
「キスするなら、口にしてくれ」
「ふふ、そうね」
「やっぱり余裕じゃねえか」
「そう見える?」
拗ねる弟の右手を、私の胸にあてがい、
「…ね?」
あまりの鼓動の速さに自分でも恥ずかしくなって、思わず顔を赤らめた私につられて、弟も赤くなります。
「…………もう一度するか」
恥ずかしさのあまり、ぶっきらぼうにそういった弟に、私は再び笑ってしまったのでした。
その笑い声を唇で塞ぎながら、弟も口角を上げて、笑いました。
そこには確かに愛がありました。
弟の愛も私の愛も同じものではありませんでしたが、妥協点を見つけることはできたのです。
あの女が現れるまでは。
私は見るにも耐えない醜態を晒す女への怒りを抑えるのに必死でした。
弟がこの頃、また私を悩ませるようになったのは、この女のせいなのだと私は今までの会話から察したのです。
次期公爵として家の名を継ぐ男子として相応しくない言動をした弟は、この女の甘言に騙されたのです。
これ以上ない縁談だというのに、婚約破棄をするなどとっ!!!
弟とて、きっとわかっているはずなのです。
一時の欲望に身を流され、盲目になってしまっているだけなのです。
愛だの情だのが、私達貴い人間たちの秩序だった社会にとっては異分子であり、害ですらあるということを、それで身を滅ぼした愚者共を見てきたのですから、理解して当然です。
この女とて例外ではありません。
それは貴族以下の動物たちの間で共有される本能とも呼ぶべきものなのです。
私達、高等の人間たちは、本能よりも理性を重んじるのです。
これは、貴族としての義務なのです。
それをよりにもよって、放り出すなどと、駆け落ちなど断じてっ!!!
「なんでだよ…?俺たち愛し合っているんだろ…?」
泣きそうな顔でそう呟いた弟の頭を撫でようとして、振り払われました。
睨み付けられるというのはとても胸が痛みます。
これもどれもあの女のせいなのだと思うと、あの女への恨みが募ります。
「もちろん、愛しています」
「だったらっ!!!」
「ですが、それが何だと言うのです」
困った子だと私は溜息を吐くと、弟は傷付いたように顔を歪ませた。
「あなたは次期公爵なのですよ?相応しい行動というものをとらなければなりません」
「…こんな家など継がない」
「まあ!なんてことをおっしゃるの?本気ではないのでしょう?」
弟は大人びていたから、反抗期など来ないと思っていたのですが、どうやら私が気付かなかっただけだったなんて。
「…アナは俺よりも家の方が大事なのか?」
「そんなことは」
「だったら、どうして頷いてくれねえんだ!俺と家を出よう!」
「いい加減になさいっ!!!」
いつの間にか私は、頬を押さえ呆然と床に座り込む弟を見下ろしていました。
じんじんとしびれる右手に、頬を張ってしまったのだと遅ればせながら理解しました。
「一時の気の迷いだと大目に見ておりましたが、そのような発言は許せません。
貴族の義務をなんだと心得ているの。
あなたの人生はあなただけのものではないとどうして理解できないの。
今までどうして生きてこられたか、成長できかたか。
その恩を仇で返すというつもりなの!」
「姉様がいたからだ…」
私を見上げる弟は静かに涙を零す。
「姉様がいたから生きてこれた」
私は、居たたまれなくなり、弟を叩いてしまった右手を見つめます。
私が意図した答えではなかったからこそ、その言葉は私の胸を抉りました。
私は、間違った判断などしてはいません。
婚約破棄も駆け落ちも、夢物語でしかありません。
なのに、私は弟を咎めたことを後悔し、胸を痛めているのです。
私がいけなかったのでしょうか。
弟の愛を求めた私が、弟の判断を歪めてしまったのでしょうか。
それとも、私の愛を求めた弟に罪があったのでしょうか。
どちらも互いのことを愛しているのに、どうしてこんなに愛の形が違うのでしょう。
まさか、あの女を羨ましく思える日が来るなどと一体誰が思うでしょう。
本能のままに愛を叫び、我を貫き通す女。
一瞬でも彼女のようであれば、と愚考してしまったのは、弟の涙に判断を揺さぶられたから。
ですが彼女のように我を貫けば、やはり傷付くのは弟で、私への愛情は失われていたことでしょう。
それだけは避けたい、我慢できないことなのです。
例え、異母弟であろうと実の弟に肉体を差し出すことになっても、私は唯一無二の愛情が欲しかった。
弟の想いに気付いた時、私はそれを利用して、弟の愛を手にいれたのですから。
弟の愛と違い、私の愛情が決して異性に対するものではないとしても、どんな形であろうと愛に変わりはないのです。
だからこそ、私はどうすればいいのかわからず、思考ばかりが空回りするのです。
同じ愛情だと見せかけているから手に入ったのに、違うのだと言わなければ弟は私の頑なさを納得してくれないでしょう。
貴族として考えるのであれば、当然後者の判断が正しいのです。
卑怯にもどちらも選ぼうとすることは、あの女の入れ知恵により、できなくなりました。
情をとるべきではありません。
それは許されざることです。
貴族として、唾棄すべき選択肢であり、そのような選択を迷うこと事態が異常なのです。
どうにもならないのでしょうか。
弟が陥った愚者の沼の淵を見下ろし、私は嘆かざるを得ませんでした。
ですが、選択肢は最初から決まりきっているのです。
「でしたら、これからはあなた一人だけで生きていくのですね」
「姉様」
「私はもうあなたの姉ではありません」
「なんでだよ、なんでこんなことになるんだよ」
どうして?
思考までも堕ちてしまったのかしら?
考えればわかることを一から十まで私に説明させる気なの?
「情に惑う者が、為政者として土地を管理できるわけがありません。あなたは自ら継承権を放棄なさい。そうすれば、私の夫が私に代わり、公爵家を治めていくでしょう」
「姉様の夫」
「私の婚約者も忘れたのですか?」
呆れたように首をふる私を弟は呆然と見つめていますが、形容するならば絶望が相応しいのかもしれません。
「姉様は俺を愛しているんだろ…?」
だからっ!愛が何だって言うのっ!!
愛してたら何?!
貴族の義務を果たさない理由になるとでも?!
くっだらない!そんなもので国が回るか!
遊びでも本気でも筋を通さなきゃいけなのだとなぜわからない?!!
生まれてきた性別を間違えたのだ。
その時私は、無様に私にすがりつく弟を見下ろして、無情な事実に気付いてしまいました。
弟には貴族の、公爵家としての心構えが足りない、と。
私が男であれば、こんなことにはならなかった。
病気で倒れる前、生母に罵倒された台詞が、忘れ去っていた記憶が私の脳裏を再び過りました。
男子を産めず、狂ってしまった母の嘆きとその結末を。
母は正しかった。
女に生まれてきた私が間違っていたのだ。
「……許さねえ」
手負いの獣が牙を向くように唸る。
「誰にもアナは渡さねえ」
次期公爵でもなくなった男に何ができるというのか。
勝手になさい、と私は弟を床に打ち捨て、今後の家のことについて話し合うため、父上の元へと向かったのでした。
それからしばらく弟と顔を合わせる機会はなく、父上の説得のおかげなのか、弟は次期公爵として行動を改めたようでした。
それまでとは一転、遅々として進まなかった婚約者との結婚話が、具体的な形を持って人々の話題に上がるようになったのです。
もちろん、私は弟を信じておりました。
冷静に考えれば、公爵家を捨てるなど愚行でしかないと頭の良い弟なら理解できるはずですから。
あの女に悪い影響を受けていただけなのです。
しばらくするとあの女もどこかへと消え、貴族社会にすら姿を現さなくなり、穏やかな日々が戻ってきたように思えました。
突然に父が亡くなり、屋敷全体に死が広まるまでは。
弟が家を采配する権限を持つようになるのを見ることは私にはできませんでした。
私もまた、病に倒れたからです。
それから私は屋敷に感染病が広がっていると、別宅に隔離され、限られた使用人によって世話をされる日々を過ごすこととなりました。
もちろん、婚約は解消され、社交界に顔を出すことも許されなくなりました。
これからどうなるのか。
公爵家はどうなったのか。
気を揉む私に教えてくれたのは、ずっと顔を合わせていなかった弟でした。
純白の衣装に身を包んだ弟は、見知らぬ男性のようにも見えました。
「今日は結婚式だったんだぜ?」
嬉しそうに私に二本の白い薔薇を差し出します。
「アナの望み通りにしたんだ。次は俺の番だよな?」
その理屈はおかしいと思いましたが、弟の我儘を聞くのも姉の役目。
何しろ、今日は結婚式だったというのですから、お祝いに何かを差し上げるのは当然のこと。
「愛する人との子どもをつくり、次期公爵にしたいんだ。
協力してくれるよな、アナ?」
私は弟から棘の抜かれた薔薇を受け取りました。
甘く豊かな香りにうっとりと微笑み、
「ええ、私にできることでしたらなんでもいたしますわ。
だってあなたは私の、愛する弟なのですから」
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