煮込《スチウ》
-1-
「アニキ、アニキ!」
朝っぱらから高らかに、変声期前の声が家中にキンキンと響きあがる。
今時アニキなんて呼ばれれば、お前と俺はどこぞのチンピラだ! とツッコミたくもなるが、身体を起こすのが面倒臭い。事実、俺達はチンピラでもヤのつく職業でも、師弟関係の芸人でもなく、ただの従兄弟の学生同士だし。
手探りでベッド脇の棚のスマホを手繰り寄せ、画面を見ればまだ九時半。ごくごく普通の真面目でも不真面目でもない大学生は、カーテンを閉めた部屋の寝床でごろごろしてる時間だ。それがたとえ夏場であったとしても。いや、夏場だからこそエアコンを掛けて日中は睡眠をとるのが、最善の策ではなかろうか? 今年も酷暑なんだし、きっと、その通りだ。よって、俺は起きない。
しかし、タオルケットを引き上げて腹丸出しで視界を塞いでも、ドタドタと階段を駆け上がる音が響けば、次の瞬間には、勢いよく部屋のドアが開けられ、平穏な朝は終わりを告げる。
「アニキ! すごいの見つけたんだ!」
ああ、それ、お前の夏休みの日課だな、と、心の中だけで返事をする。
エアコンが消されて窓を開ける音が響けば、八月の熱気と蝉の声が部屋に流れ込む。
夏休みで喜ぶのは子供だけ、なんてどっかの大人は言っていたが、智也を見てるとなんとなくそれが分かる気がした。
二つ隣の町の甥っ子の智也の家は両親が共働きで、この好奇心旺盛な夏休み男子の扱いに困って、週の半分以上をこちらで預かっている。俺の所の両親も、夏は一応普通に働けてるんだから、預けられても正直困るにも拘わらず、だ。
休校と自粛祭りの際に、教師だった両親のもとに親戚中の子供が預けられた時。反応が良いからと、ついからかい過ぎてしまい、変に俺に懐いてしまったのも理由の一つだろう。……いや、もしかしたらそれだけが理由だったのかもしれない。コイツ、アホだし、変に駄々こねたのかも。
うちの一族を言い表すのならば、無難の一言に尽きる……はずだったんだけどな。
曽祖父さんの世代から、町役場や教師と堅実な仕事をしている者が多く、しかも、働きぶりも可もなく不可もなくで、これといって他者に深い印象を与えるものではない。
例えば、この春に教師の両親が仕事が無いからと親戚中の子を預かったんだが、子供が十人以上いたってのに、喧嘩らしい喧嘩も無く。その上、
なので、公務員には絶対にならないと宣言して理系の大学へ進んだ俺と、好奇心の権化のような小学校四年になるこの甥っ子が、極端な異端視をされてしまう。お互いの両親が、うちの子の影響で迷惑を、なんて言葉が挨拶になる程度には。
……ああ、あと、もう一匹、俺達以上に変なのもいたが、アレは猫かぶってるしベクトルが違うから除外だな。ある意味、智也以上に面倒臭い。
「アニキ!」
最終防衛線であるタオルケットを引っぺがされれば、もはや逃げ場はない。よっこいしょ、と、上体を起こせば「朝っぱらから元気だな、お前は。今日はなんだよ」なんて訊ねている内に、目に前に、びっしりと文字を記したなにかの本が突き出された。
……いや、手書きだし、日記か? 寝起きの目にはモールス信号みたいにしか見えないが、その印刷とは違う微妙な不揃い具合から日記と察すれば、文字が焦点の合った目に飛び込んでくる。が、すぐに読み難いことに気付いた。書き方がずいぶんと古臭い。古い漢字に片仮名で書かれている。
「お前、どこ漁って来たんだよ」
ベッドに腰掛けながら、それを受け取り表紙を改める。名前には雅臣とある。確か、
パラパラとページを捲るが、先頭と最後の日付を見る限り昭和十九年から二十一年までの二年分を一冊にしたためた日記らしい。純粋な日記帳ではなく、大学ノートを節約するように、一ページを上下二段に区切り、線を引くのも惜しんだのか、文字二つ分の空白で仕切って見開き一ページに四日分の日記が記されていた。
書かれている字が綺麗なので、劣化に負けて読めないって程でもないが、文字の細かさと旧仮名遣のダブルパンチで読み易くはない。
「寝てる部屋にあった」
ふんすと鼻息荒く胸を張った甥っ子の智也。
ああ、そういえば、あの部屋って曽祖父さんが生きてた頃に使ってた部屋だったんだっけ、と、昔過ぎてほとんど覚えていない生まれて初めての葬式の記憶を手繰り寄せつつ、ノートを閉じ、ぺし、と、軽く智也の頭を曽祖父の日記で叩く。ついでに、そのまま短髪の智也の髪の上に大学ノートを乗せ、呆れ混じりに問い掛けつつ、同時に釘も刺した。
「仏壇の下あさったのか? それとも押入れの下の段のがらくたか? いずれにしても、引っ掻き回すなよ、モノが多いんだから」
一応とはいえ、俺の家が本家ということになっている。なので、先祖伝来のゴミ……もといガラクタや捨てにくい物が山となって押し入れや天井裏の収納にはあふれていた。
今回は上手く掘り出した……と、思うことにするが、何時雪崩を起こすか解ったものじゃない。
しかし、俺の甘めの言い方が悪かったのか、叱られた自覚の無い智也は胸を張った。
「でっかい段ボール、一個に全部入ってるから大丈夫だよ!」
ああ、それは、段ボールひとつ丸ごと引っ張り出したって事だな、この腕白め。
おふくろ達が帰って来るまでには元に戻さないといけないよな、と、寝起きの頭がそれなりの結論を出す。
だが、智也はハーパンに挟んで背中に隠していた、もう一冊の
「今度は何だ?」
「こっちは読み易いんだよ。見て」
言われるがままに、突き出されたページに焦点を合わせる。
これは……ああ、戦後の日記だな。つか、日付が平成になっているから本当に死ぬ前の時期の日記帳らしい。中身は、智也の言うとおり現代仮名遣いで書かれている。ええと、なになに?
「……当時の話と言われても、言えることはない。兵隊としても、一人の男としても、目の前のことだけで精一杯だった。ご立派な評論家が指摘するような、戦略や政治の事情が庶民に見えることはなかった。そういう時代だった。徴兵されるのは国民の義務で、戦うのは必然で、それが戦後米国の言う不完全な民主主義の結果だったとしても、そこには純然たる日本があり、個々の生活があり、家族としての国家があり……」
「ね? 凄そうでしょ?」
褒めてと言わんばかりの、子犬みたいな顔を向けられても、対応に困る。多分俺は、飼い猫にトカゲを捧げられた主人のような顔になっているだろう。
いや、うん、智也には、まだここに書かれているのが、映画や漫画やゲームのイベントシーンみたいな感覚なのかも知れないが、多少なりとも
しかも、書いた目的がわからないから、余計に。
備忘録だったのかもしれないし、いつか過去を振り返る
「
猥談と一緒くたに語られては、盆が近づいている今、ご先祖様に化けて出られるかもしれないが、男には一番実感のある例えとして許してもらいたい。
と、思ったんだが、小学校の中学年にはまだ早かったのか、まったく解っていない顔をされてしまった。
……俺にもしもがあれば、智也にスマホとノートパソコンを叩き割って貰うことにしよう。
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