第5話 マエストーソ

 眠気は残っていたが、蝉の鳴き声と暑さで二度寝する事を諦めた。

横では、蝉の鳴き声と暑さに対抗するように微睡んでいる亜美の姿があった。

その姿を見た僕は、何とか浅い眠りでも良いと思い瞼を閉じてみたが、眠ろうと意識すればするほど蝉の鳴き声が近くに迫ってくる感覚が襲ってきたので、無駄な足掻きは止めようと思い改めて、二度寝をする事を断念した。

眠っている亜美の体温が余計に暑く感じた僕は、静かにベッドの下のベージュ色をした絨毯の上に転げ落ちるように、避難した。

ベージュの絨毯は右から左へと指でなぞると、元の色よりも少し濃いベージュ色の顔を見せた。

僕は、その絨毯に指で落書きをしながら亜美の静かな吐息混じりの鼾を聞いていた。

その亜美の鼾は、いかにも女性の鼾のように感じた。

今まで、異性の鼾を聞いた事が無かった僕は亜美の鼾に歌詞を付けるとすると、一体どんな歌詞になるのだろうかと、変な事を考えていた。

「何してんの?」

亜美が、寝起きの掠れた声でベッドの上から問いかけてきた。

「絵描いてます」

僕は普通な顔で変な事を答えた。

「絨毯に?」

亜美は、当然の質問をしてきたが、少し微笑んでいた。

「右から左になぞったら色変わるんで、絵描いてました」

僕は、先程と対して変化の無い事を言った。

「ずっと、下で寝てたん?」

「さっき目が覚めて、亜美さんの事起こしたら悪いと思ってここに移動しました」

「そうなん?気使わんでも良いのに」

本当は暑いというのが、理由なのに僕は、良い格好をして嘘をついた。

朝から自分は、何て情けないんだと悶々とした気分になった。

「亜美さんクーラー入れて良いですか?」

僕は、この言葉を発した直後に本当は暑いという事が理由で、絨毯の上に居た事を悟られてしまうのでは、ないだろうかと少し心配になった。

「クーラー?

まだ、早いからアカンよ!

こんな時間からつけてたら電気代バカにならんやん!」

僕が、亜美の家に転がり込むようになってから、亜美が年上だからなのか叱られる事が少し増えた気がする。

「そんな事よりお腹空いてないん?」

「空いてます」

「じゃあ、なんか作ってあげるからその前に顔洗いに行こう!」

そういうと、亜美は僕の腕を掴んで洗面所まで引っ張った。

洗面所の鏡の前に二人で並んで、歯を磨いた。

初めて、この鏡の前で亜美と並んで歯磨きをしていたおぼつかない僕の顔は、その鏡にはもう無かった。

亜美が先に口を濯ぎ、そのまま洗顔を始めたので、僕は歯ブラシを咥えたまま亜美が洗顔を終えるまで後ろで待っていた。

洗顔を洗い流した亜美は、洗面台に頭を突っ込んだまま僕の方に手を伸ばした。

「涼太くん!タオル取って!」

僕は、壁に掛かっているタオルを亜美に渡した。

亜美は洗面台に頭を突っ込んだまま顔を拭いた。

僕は、鏡に映る自分の寝起き姿が如何にも売れていないミュージシャン気取りだなと思い落胆していた。

すると、鏡の中のミュージシャン気取りの顔の横に頬を膨らませて、白目を向いた亜美の顔が現れた。

僕は、あまりにも唐突の出来事で口の中の歯磨き粉を吹き出してしまった。

「ちょっと!顔にかかったやんか!」

亜美は、笑いながら楽しそうに言った。

「だって、急に変な顔するからですよ!」

亜美の洗顔を待っていたので、唇の両端の歯磨き粉が固まったその顔で僕も笑った。

「せっかく顔洗ったのに!」

そう言いながら亜美は、もう一度水で顔を洗っていた。

「早く顔洗って、ご飯食べよう!」

亜美はそう言いながら先に部屋へ戻った。

僕は、口を濯ぎ顔を水で洗いその顔を見るとやはり、売れていないミュージシャン気取りの自分がそこには居たが、少なくとも不幸な表情はしていなかった。

僕が、部屋に戻ると亜美が台所に立っていた。

「パンかご飯どっちが良い?」

僕が、パンと答えようと思い、破裂音を出そうと口を動かすと亜美がすかさずに「ご?」と僕がご飯と言うように促してきたので、僕は破裂音に無理矢理濁点をつけた。

「ばはん!」

「ご飯ね!」

そう言って台所に振り返った亜美の肩が上下に揺れていたので、『ばはん』が可笑しくて笑っているのが分かった。

僕は、朝食が出来るまでの間、網戸越しから昨日取り込み忘れたベランダの洗濯物を横目に包丁のトントントンという心地良い音を聞いていた。

夏の朝の風に揺られる洗濯物を見ていると、遠くから祭り囃子が聞こえてきた。

網戸の向こう側には、金魚すくいや綿菓子屋やヨーヨーすくいの屋台が立ち並んでいた。

台に刺されているりんご飴が大きなキャンドルのようで、和の伝統行事の中に西洋のものが混じり、とても歪でありながらも絶対的存在感を醸し出していた。

屋台を通り抜けると神社があり、入り口の鳥居には暗闇の中で宙に浮かび、夜風に吹かれている提灯があった。

「出来たよ!運ぶの手伝って〜!」

亜美の声がした。

提灯達は洗濯物に戻り、揺れていた。

「涼太くん!手伝って!」

亜美に背中を軽く叩かれた。

気がつくと僕は、網戸に顔が当たるほど近づいていた。

「そんなに網戸に近づいてどうしたん?

何か見える?」

亜美はそう言うと僕の横にしゃがみ込んだ。

「んー・・・洗濯物しか見えへん!

ご飯冷めるから早く食べよう!」

亜美は僕の腕を持ち立ち上がった。

テーブルにご飯を並べた。

白ごはんと鮭と卵焼きと味噌汁といったこれぞ日本の朝食といったメニューだった。

「いただきます!」

「どうぞ」

僕は、鮭を箸で解して少し黄ばんだ昨日炊いた白ごはんの上に乗せて口に運んだ。

「美味しいです」

「嬉しいけど、鮭は焼いただけやから卵焼き食べてよ!」

僕は、亜美に促され卵焼きを食べた。

亜美の卵焼きは、砂糖を使った甘味の効いた卵焼きだった。

この甘味がいかにも亜美らしい感じがした。

「めっちゃ美味しいです!」

「そうやろ?美味しいやろ?」

亜美は嬉しそうな顔をしていた。

亜美の作る卵焼きは本当に美味しかった。

母親の作る卵焼きは、甘味とは真逆の味付けだったので、この甘味が僕にとっては、新鮮な味だった。

だが、僕は亜美が作る料理の中で一番好きなのは、味噌汁だった。

僕が、石田達や地元の友達と飲みに行き酩酊して亜美の自宅に帰った翌朝に亜美が味噌汁を作ってくれた。

その味噌汁が人生で食べた味噌汁の中で一番美味しかった。

いや、生涯この味噌汁を超える味噌汁は無いだろう。

「今日はな、味噌汁にじゃがいも入れてみてんけど、どう?」

僕はゴロゴロしたじゃがいもが、入っている味噌汁を啜った。

じゃがいもが、優しい味を出していた。

「じゃがいもも美味しいです!

今度からもじゃがいも入れて欲しいです!」

「具に入れるもの無かったから入れただけやのに、そんなに喜んでくれたら作りがいあるわ!」

亜美は自分の作った料理を食べる僕の姿が好きみたいだ。

「亜美さん」

「ん?どした?」

「お祭り行きましょう!」

僕は、先ほど一人でお祭りに行き茫洋としたまま閑散な神社に辿り着き少し怖くなっていた。

だから、今度は亜美と二人でお祭りに行き、先ほどの一人で行ったお祭りを払拭したかった。

「良いけど、人混み嫌じゃないの?」

「全然良いです。寧ろお祭りは人混みじゃないと意味がないです」

「お祭りは、そら人混みじゃないと楽しくないやろうけど、珍しいな

そんな事言うの」

「んーお祭りというか、お祭りの提灯を見に行きたいんです」

「提灯?わざわざお祭りの?」

「はい!」

「よく分からんけど、良いよ!提灯見にお祭り行こう」

僕は、網戸越しに見えた提灯が幻想だったのか現実だったのかが、はっきりとは分からなかった。

しかし、それを確認しに行きたかった。

亜美と確認しなければ、意味が無いと思った。

次の日が日曜日な事もあり、僕達は普段行かない場所に行こうという事になり京阪電車に乗って京都へ行く事にした。

京阪電車の車両は冷房が効いていて何度か眠りそうになった。

 僕たちは、祇園四条駅で降りた。

四条通りは、多くの外国人観光客や標準語を話している着物姿の女性やカップルが行き交っていた。

大阪に住んでいると、京都に行っても着物を着たいという感情には、なる事がなかった。

四条通りには、ガマ口財布や扇子や湯呑みなどを販売している京都らしいお店が多くあったが、着物の真理と同じであり僕達はそういったお店に興味を示す事は無かった。

京都に来たものの真夏の炎天下をただ歩くという時間だけが、過ぎ去っていった。

終いには、それが今日の日課のようになってしまいそうになったので、適当に見つけた純喫茶に入る事にした。

その純喫茶は京都という雰囲気を一切醸し出していなかったという事が僕達の決め手となった。

そこに長居するこ事も無くアイスコーヒーだけを飲みまた、京都の炎天下へと繰り出した。

純喫茶を出た後は、人混みと炎天下を避ける為に河原町商店街へと向かった。

河原町商店街に入ると屋根があり、地面もタイルだったので太陽の熱を放出するアスファルトとは打って変わって涼しく感じた。

「お祭り行く前に、人混み来ちゃったな。元気吸われた?」

亜美と出会って間も無い頃に、僕が言った言葉を覚えていてくれた事が嬉しくてより暑さを吹き飛ばしてくれた。

「吸われ過ぎました。」

亜美は暑さで頬赤くしながら笑っていた。

商店街をしばらく歩くと、レコード屋が見えたので僕が行きたいというと亜美は了承してくれた。

 レコード屋に入ると、日に焼けて黄色く変色したジャケットが、段ボールで作られた子供が見ても手作りだと分かる箱に無数に並べられていた。

僕は、最初にチェッカーズの『あの娘とスキャンダル』のレコードを見つけてテンションがあがった。

「亜美さん来て下さい!チェッカーズありました!」

「良かったな!最近よく聴いてるもんな」

亜美は、一緒になって喜んでくれた。

「フミヤの横で高杢が笑ってる・・・」

僕は、独り言のように呟いた。

「喧嘩して仲悪いんやったけ?」

「そうです!ネットか何かで読んだんですけど、高杢ってめっちゃ喧嘩強いらしいですよ」

「うん!強そうな顔してるもん」

亜美は、同世代の男女問わず理解出来ない僕の時代遅れの会話にもいつも返答してくれる。

もしかすると、僕が知らない所で僕に合わせて色々と勉強していてくれたのかもしれないと思った。

もしも、僕が売れているミュージシャンで週刊誌の人にこの現場を見られたら見出しは、あの娘とスキャンダル!と書かれるのだろうかと、チェッカーズのレコードをを手に考えていると可笑しくて笑えてきた。

「涼太くん!こっちに浜省もあるよ!」

若い女性の口から「浜省」という言葉が出た事が少し違和感に感じた。

亜美が見つけてくれた浜省のジャケットを見ると『路地裏の少年』のレコードだった。

浜省のシングルでは、これがソロデビューの曲だ。

ジャケットはレコーディング最中の写真だろうか。

実に白いハイカットのスニーカーが似合っていて格好良かった。

その他にも数えきれない程のレコードを見て目が痛くなる程、アーティストと睨み合った。

その中でも僕が一番気に入ったのは、研ナオコが歌う『夏をあきらめて』だった。

本家のサザンが歌っているのも、もちろん良いのだが、研ナオコが歌うからこそサザンとは違う歌詞の風景が見えるのだ。

「これ欲しいの?」

研ナオコを離さない僕を見て亜美が聞いてきた。

「うーん・・・欲しいけど、レコードプレーヤー持ってないから買っても聴けないんで辞めときます」

その言葉を聞いていた店主が長時間居たにも関わらず、何も買わずに出ようとしている僕達を見て、如何にも暗鬱な表情を浮かべていた。

その、店主の表情に亜美も気づいたみたいだった。

「いいよ!私が買ってあげる!」

「そんなん悪いですよ!こんな所で長時間付き合わせてるのに」

完全にやってしまったと思った。

もはや、今の僕の発言に対しては、店主の顔が泣きっ面にさえ見えてきて仕方がなかった。

亜美に、肘で軽く小突かれた。

「いいよ!大学前期お疲れ様祝いや!」

亜美は、よく分からない記念日を作ると僕から無理やり研ナオコを取り上げて、レジに向かって行き、会計を済ませた。

亜美は、茶色の紙袋に入ったレコードを渡してくれた。

「ありがとうございます!」

「いいよ!今日は、よく嬉しそうな顔するな!」

それは、僕も亜美に対して同じ事を思っていた。

この日の亜美は、僕が嬉しそうにすると同じように嬉しそうな顔を見せた。

レコード屋から出ると空が傾き出していた。

一体どのくらいの時間レコード屋に居たのかと驚いた。

河原町商店街から木屋町通りに向かって薄暮の京都を歩いた。

 木屋町通りに着くと、大学生らしき団体や留学生らしき人達で賑わっていた。

その人達の隙間から腰エプロンを着けた派手な男や女が次々に顔出してきて、下手くそな店のプレゼンをしてきた。

「お兄さん!飲み屋とかどうですか?」

この質問は、かなり気持ち悪い質問だ。

そもそも、木屋町通りには居酒屋と、機能しているのかしていないのかすら分からない交番と公衆便所くらいしか無いのだ。

そんな所を歩いている限り飲み屋しか探していないのだ。

そして、別にお前に手伝ってもらわなくても自分達で店くらい決める。

「大丈夫です」

「今ならサービスしますよ!」

「大丈夫です」

サービスをする前に僕達には、声をかけないサービスをしてもらいたいと思った。

結局僕達は、駅の近くになら何処にでもあるチェーン店の居酒屋に入った。

亜美と生中のグラスで音を鳴らした。

「夏のビールは、美味しいな!」

「いっぱい歩きましたもんね」

「今度どっか出かける時は、ちゃんと予定立てないとあかんな」

「そうですね。どこ行っても散歩になって普段家の近所でしてる事と変わらないですもんね」

「あ!涼太くん飲み過ぎ注意な!

こないだ石田くん達と飲みに行った時みたいに、ベロンベロンなったら私涼太くんの事担いで帰られへんからな」

「分かってますよ!この一杯で止めときます」

「偉い偉い!

でも、レコードプレーヤー買わないとあかんな!

それ、聴かれへんもんな」

「ネットで売ってるからお金に余裕ある時買います」

「それやったらネットで買うんじゃなくて、今度出かける時は

レコードプレーヤー探しに行こう!」

「楽しそうですけど、また今日みたいに歩くだけになる可能性ありますよ!」

「その時はその時で良いやん!」

居酒屋では、レコードの事もあったので、僕が多くお金を出して会計を済ませた。

居酒屋を出ると、木屋町通りに夜の匂いがする風が吹いた。

酔っぱらった屈強な留学生が、パブの前で外国の瓶ビールを片手に咆哮していた。

亜美がその咆哮に怖がったので、僕は亜美の手を握り京都を後にした。

僕は、亜美の手を握りながら一度振り返った。

木屋町通りは壮観として僕の目に映った。

僕達二人が来るには、まだ早過ぎたのかもしれない。

 翌朝は、暑さではなく自然と目が覚めた。

亜美の姿は、台所にあった。

外を見ると、夏の雨が降っていた。

暑さで目が覚めなかった理由が分かった。

「おはようございます。」

「あぁ、起きたん?おはよう!

もうすぐご飯出来るから顔洗っといで!」

僕は、顔を洗って朝食が出来るまで座って待った。

今日は、目玉焼きと味噌汁と白ごはんだった。

僕たちは、朝食を食べ終わると各々で時間を過ごした。

亜美は、パソコンを開いて大量の資料とパソコンの画面を交互に見ながら会社の仕事をしていた。

僕は、新曲の歌詞を書こうと思いノートと睨み合う時間が流れた。

二時間くらいが経過しても僕のノートは、製造会社が均等に引いた線だけしか無かった。

雨がベランダの柵や建物に当たる音が、大人な雰囲気を出していて良いBGMのように感じた。

僕は、どう考えても歌詞が書けない事を悟り、亜美にコーヒーを入れる事にした。

台所に行く前に、昨日の事もありベランダが気になったので窓を開けてから台所に向かった。

雨と雨雲が太陽を妨げていて、夏とは思えないほど寒かった。

アイスコーヒーにするかホットコーヒーにするか悩みながら亜美を見ると、ホットコーヒーの方が、雰囲気に合っている気がしたので、ホットコーヒーを入れた。

網戸が雨に冷やされた冷たい風を吸収していた。

朝食以降から亜美と会話をしていない事と、必死に仕事をしている亜美の姿が相まってなのか、亜美の姿を見ながら入れるコーヒーは、何故か僕を悲しい気持ちにさせた。

亜美の元へコーヒーを持って行くと亜美は、タイピングする手を止めた。

「コーヒ入れてくれたん?ありがとう

まだ、雨降ってる?」

「まだ、降ってますよ」

僕がそう答えると亜美は、窓を見た。

「いつの間に窓開けたん?」

「コーヒー入れに行く時です。寒いですか?」

「ちょっと、寒いけど空気も入れ替えたいし暫く開けとこか。

よし!このコーヒーのお陰で、頑張れそうやわ!

涼太くんは、歌詞書けた?」

僕は、仕事を頑張ってる亜美の姿を見ると、書けていないと言うのが情けなくて正直に言えなかった。

「まぁ、ぼちぼちです!」

「そっか、じゃあもうちょいお互い頑張ろう!

あ!夜ご飯何が良いかも考えといてな!」

「分かりました」

僕達は、またお互いのやるべき事に集中した。

相変わらず亜美のタイピングする音が鳴り止む事はない。

僕は、ノートに向かい最近感じた事を箇条書きにしたが、ハンバーグ、生姜焼き、冷麺など夕食に食べたい物しか出てこなかった。

このままだと、奇天烈な歌詞を書いてしまいそうなので歌詞を書く事は諦めた。

僕は、ベランダにタバコを吸いに行った。

「タバコ吸う時は、網戸のままは辞めてや!」

女性は見ていないようで、しっかりと見ている。

優しい亜美でもそういった部分は、抜け目が無いと思うと可笑しかった。

タバコを吸いながら亜美とのこんな何気無い生活が、当たり前になってきている事が、ふと怖くなってきた。

もしも、この当たり前の日常が当たり前では無くなってしまう日が来た時、僕は、どうして良いか分からない。

亜美と出会う前の当たり前の日常の歩き方を僕は、無意識のうちに忘れている。

いや、無理矢理記憶から消している気がした。

それは、同時にその時の環境でしか感じる事との出来ない何か大切なものも同時に失っているのでは、ないだろうか。

その失ってきているものの中に歌詞を書くヒントがあった気がする。

亜美と濃密な時間を築けば築いて行く程、自分のミュージシャンという夢から遠ざかっているのでは、ないだろうか。

自分自身が本当に居るべき環境が分からなくなった。

何故こんな事を考えてしまうのだろうか。

もしも、僕が吸っているタバコがアメスピでは無くマルボロならタバコが灰に変わるスピードが早いので、こんな事を考える暇は無かったのだろうか。

先日、ここで見たお祭りは何だったのだろうか。

もう、全てが分からなくなった。

ただ、分かっている事はお互いが好きでもそれは、好きという感情だけに過ぎず、各々の間には別の時間が流れて行っているという事だ。

亜美が、窓を開けた。

「いつまでそこにおるん?

私仕事終わったよ!」

「お疲れ様です。直ぐに中入ります」

タバコの火を消して急いで部屋の中に戻った。

「夜ご飯決めた?」

「ハンバーグが良いです!」

「ハンバーグ?」

そう言いながら亜美は冷蔵庫の中を物色した。

「材料が何にも無いわ。ハンバーグどころか、これじゃ何にも作られへんわ!」

朝食を作った時に、何故気づかなかったのだろうかと思った。

抜け目が無いと思いきや亜美は、時折こういった部分を見せてくれる。

その度に僕は、亜美との思い出が一つ増えているような気がして嬉しかったが、今はこの何気ない思い出に変わる一つの記憶のフィルムが悠久してしまうかもしれない事が少し怖く感じた。

だから、僕は買い出しを一人で行く事にした。

なるべく亜美と一緒に居る時間を少なくしたかった。

「亜美さん疲れてるでしょ?今日は、僕が一人で買い出し行きます」

「本間に?助かるわ!ありがとう」

また、自分の勝手な感情の責任を亜美に転換している自分が恥辱にも感じた。

しかし、今日はこれで良いのだ。

こうする事が平穏を暮らす一番の方法だった。

亜美から買う物のリストを書いたメモを渡された。

靴を履いている時に、余計な物は買わないようにと子供がお使いに行く時のように何度も注意された。

車にも気をつけるようにと言われたかもしれない。

玄関を出ると雨が止んでいて、真っ赤な夕陽が雲の切れ間から顔を覗かせていた。

夕陽が顔出していてもこの日は、気温は上がる事はなかった。

だが、この気温の中、一人でお使いをするのは少し心が無になり気持ちが良かった。

スーパーで亜美のメモに書いている物だけを買った。

スーパーの二階には、日用品やちょっとした雑貨コーナーがあった。

僕は、何となく二階の雑貨コーナーに立ち寄った。

そこに、アリクイの親子のお尻から花が咲いている小さなオブジェが売っていた。

僕は、もしも亜美との日常が壊れてしまった時に、このアリクイの親子が記憶の何処かで亜美との日常が幻では無かった事を証明してくれるのでは、ないかと思いアリクイの親子を購入して帰った。

家に帰ると言わずもがな亜美に叱られた。

「食材は全部買ってるけど、その袋は何?

いらんもん買ったやろ?」

「アリクイの親子・・・」

「アリクイ?見してみ」

そう言うと亜美は袋からアリクイの親子を取り出した。

亜美は、アリクイの親子を見ると思わず吹き出した。

「これ、何なん?可愛いけど本間にいらんもん買ってるやんか!」

「可愛いかなと思って・・・」

「もう、涼太くん一人でお使い行かしたらアカンな!

これは、玄関に飾っとこ」

この日からアリクイの親子は僕達が出かける時に、毎日見送ってくれた。

亜美は、買ってきた材料で手際良くハンバーグを完成させた。

僕のハンバーグが異常に大きかった。

そのハンバーグには、ケチャップでア・リ・ク・イと書かれていた。

夕食後は、いつも通りの時間を過ごし、ベッドに入った。

「今日はお昼も寒かったけど、夜になったらもっと冷えてきたな」

「お使い行った時も寒かったですよ」

「何か、夏の終わりみたいやな今日は」

はっきりと『夏の終わり』と聞き取れたはずなのに、頭の中で僕の中にある変なフィルターが、『二人の終わり』と変換した。

「涼太くん寒くないん?」

もちろん寒かったが、気持ちが寒かったのか体感的に寒かったのかは分からない。

「寒い〜!」

大きい声を出しながら亜美が戯れるように抱きついてきた。

身体が暖かくなったと同時に、心も暖かくなった。

「どう?あったかいやろ?」

「めっちゃあったかいです」

「でも、明日は三十度超えるらしいから目覚めたら多分離れてるで」

亜美は、真っ直ぐな目をして言った。

亜美の中で、この日常が壊れるという事など微塵も考えていない。

そして、僕と出会う前の感情や離れてしまった時の感情など一切考えていない。

ただ、今この何気ない時間を精一杯生きて、楽しんでいる。

過去に囚われたり、見えない未来に怯えているのは、僕だけだった。

その事に気がづくと、ベランダでタバコを吸いながら考えていた事は自己陶酔していただけなのかもしれない。

気がつくと、亜美は眠っていた。

その寝顔を見ると、分からなくなった全ての事が、僕の中で融解していった。

朝になっても僕達は離れる事はなく眠っていた。

僕は、夢の中で亜美と宙に浮かぶ提灯を見ながらうちわで風を起こして揺らしてみたりしていた。

幸も不幸も時計の針は刻一刻と止まる事無く進み続けている。


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