花信風に青い花の終焉を

西芹ミツハ

花信風に青い花の終焉を

 

「わたし、花って嫌いなのよね」


 一つ上のさくら先輩の言葉で、わたしの記憶の中で一番強く印象づいているのは、その言葉だった。


 高校に入学したばかりの頃だ。その年は、桜が咲くのが、とても遅かった。入学式に間に合うどころか、一週間くらいは満開のままでいたほど、のんびりとした遅咲きだった。

 わたしと、さくら先輩だけの、二人きりの文芸部。部室の窓際に向かい合うように座って読書をしている最中、ふと目の端に過ぎった光景は、校庭に桜吹雪が舞っていた。単純にその様子が、綺麗だなと思って、心のままに呟いた。だけどさくら先輩は、読んでいた本に栞を挟むと、薄く目を細め頬杖を突いた。そして自分の名前の由来でもある花を、無感情に嫌いだと言った。


「花信風なんて、吹かなければいいのよ」


「カシンフウって、なんですか?」


 わたしの愚かな問いに、先輩はつとこちらを見て、薄く微笑んだ。


「春に花が咲くのを知らせる風のこと」


 そう言って、また窓の向こうをぼんやりと眺め始めた。


「へえ……」


 博識な先輩は凄いなあ。と思いながら、頬杖をついたまま佇むその姿は、ただ美しかった。その美しい姿を見ることができるなら、そんな言葉は些末なことのように思えて、そのとき、わたしは理由を聞くことができなかった。それは、後々ずっと疑問になってしまったが。


 わたしが慕うさくら先輩は一言で言うと、とても美しくてミステリアスな人だった。


 絵本に出てくる白雪姫の描写がぴったり合うような、そんな人ならざる者のような美しさだった。そのまま描写するのも面白みが欠けるのだが、本当に艶やかな長い綺麗な黒髪に、雪のように白い肌。血潮のように赤い唇。長いまつ毛に縁どられた瞳は琥珀のように煌めいていた。人によっては整形ではないかと、にわかに疑うほどの美しい容姿だけでなく、頭脳も明晰で、学年一位なのだと噂に聞いた。それに、声も綺麗だった。中学生のとき、修学旅行で訪れた神社に水琴窟をイメージして作ったと言うお守りの鈴を買ったことがある。その鈴の透明で冷ややかな響きが、先輩の声の美しさを表現するのにぴったりだと、初めて先輩の声を聴いたときに思った。


 わたしは、入学式の後の部活紹介のとき、文芸部の部長として一人で淡々と説明する先輩を、一目見て、ひたすらに憧れた。生まれて初めて、人に対して執着心を強く抱いた。今までも、仲良しの友だちが他の友だちと仲良くしているのを、ただ嫉妬交じりに羨まし気に眺めていたこともある。でも、そんな感情の比ではなく、ただただ、わたしはさくら先輩を独り占めしたいと思った。


 入部届はその日に出すくらい、とにかく先輩に近づきたかった。それは、ただ飛びぬけた美しさにあてられたのか、それとも恋をしてしまったのかはわからなかった。世の中では同性同士のお付き合いも個性だと、寛容になってきた時代に生まれたわたしは、同性が好きだということについて気にもならなかった。それほど先輩の側に居たかったし、仮に先輩がその同性同士の関係を嫌っているのだとしても、その想いを口にさえしなければいいのだから。


「あなたは変な子ね、わたしと仲良くなりたがるなんて。学校でわたしのことを名前で呼ぶのは、あなただけだわ」


 入学して数か月経った後、さくら先輩はこう言った。それは、わたしが先輩のことを下の名前で呼んでいいか。と訊ねたときのことだ。わたしは先輩を名字でなく、下の名前で呼びたいと切に願っていた。それに関してはあっさり了承されたが、それはつまり、わたし以外にさくら先輩を名前で呼ぶ人間がいないということを知れて、鮮烈な悦びが体中を駆け巡ったのが、とても根強く残っている。その悦びは先輩は、わたしの物なのだと、勝手に妄想を膨らませた。


 とはいえ、なぜ尋常ならざる美しさを持つさくら先輩のことを、他人が仲良くなりたがらないのか。理由として、――私的には、そんな些末なことで仲良くならない理由がわからなかった。そのお陰で要らぬ虫がつかなくて幸いではあったのだが――さくら先輩の性格にあった。決して苛烈ないじめっ子だったりするわけではないけれど、誰に対しても冷淡で偏屈だったからだ。


 入学式の部活紹介でその美しさは、皆が目にしていた。けれど実際、さくら先輩は話しかけても素っ気ないし、先輩と同級生の男子がプレゼントに花束を渡したら叩き落とされた。告白したらけんもほろろに断られた。などとそういった類の噂が、入学したばかりの一年生の耳にすぐ届くくらい、偏屈な性格だと知れ渡っていた。文芸部の説明だってかなり面倒そうな雰囲気で話していて、とても面白そうに思えなかった。それに先輩自身が、普段から読むのは古典文学で難しいタイトルばかり挙げていたからか、文芸部に入る人はわたししかいなかった。かく言うわたしが読むのは、ライトノベルや児童文学ばかりだが。


 顧問の先生も部員が二人しかいない廃部寸前の部活より、ほかの部活の顧問を掛け持ちして、めっぽうそっちにかかりっきりだった。だからほとんどわたしと、さくら先輩の二人きり。

 つまるところ約二年の間、わたしは入学当初に抱いた、“さくら先輩を独り占めする”ということを、ほぼ達成できた。だが、その二年を通しても関係性は希薄だった。


 部活の内容としても、お互い好きな本を読み終えたら読書ノートをつけたり、たまに感想を言い合ったり。文化祭のときは小説まがいの物を書いて、簡単に冊子を作ってテーブルに置いて終わり。そもそもメインが読書なものだから、たくさん話すわけでもなく、部室に入ってちょっと挨拶したりする程度。会話を投げかけてみても、ほとんど続かない。


 だから、わたしは二年を通してもさくら先輩がどんな食べ物や色が好きで、なにが嫌いかほとんど知らなかった。どうやら、先輩の家は古い家柄であるようなことは、少し聞いたが、それくらいだった。連絡先を交換しても滅多に連絡を取り合わない。一年に一回か二回、具合が悪くて先輩が休んだ日は、今日は休んでるから部活をやらない。と連絡が来るだけ。それくらい、薄っぺらい関係。だから、わたしが知る先輩は、美しくて頭がよく、“花が嫌い”ということしか知り得なかった。


 それでも、側にいてその姿を目に入れることができるなら、わたしにとってこの二年間は掛け替えのない時間だったのだ。それにあの日のように、極稀に、先輩はとても優しく微笑んでくれるときがあった。タイミングがどんなときかもわからないくらい、稀だったから、微笑んでもらったその日はずっと先輩のその笑顔を思い返して、わたしはにやにや一人笑っていた。


 そんな先輩は、今日、卒業する。卒業したら、どこの大学に行くのかを聞いても答えてくれなかった。


「進学先は、決まっていないの」


 いつもそう言ってはぐらかされる。先輩がいるなら、どんなに頭が良い大学でも行こうと決めたわたしは、打ちのめされそうだった。2月の後半に聞いても、もそう言われた。


 もしかしたら、嫌われているのかもしれないのではないかと、わたしはその考えに至った。今までろくに会話をしてもらえなかったのも、わたしが嫌いだからだったからかもしれない。本当かどうかはわからなくても、真実だとしたら目を背けたい事実だ。だから側に居れるだけ、幸せだと思うことにした。

 そんな卒業式の日、先輩からメールが届いた。『屋上に来て』と、ただ一言だった。


 鍵がこじ開けられた屋上で、先輩がたくさんの花束を抱えて立っていた。また、同級生の人に貰ったのだろうか。わたしは足早に先輩に近づいた。ほとんど触れるか触れないかくらいの距離まで、近づいた。


「先輩、どうしたんですか……」


「さいごに、あなたに会いたかったの」


 鮮やかな花束を抱えた先輩は、いつもより白い肌が映えて、もっと綺麗に見えた。でもわたしは、不安で震える脚が恨めしくて、なんとか力を込めて立っていた。目の前の事実から目を逸らそうと、だけどなにもしなければそうしている間にも、無言が二人を縫ってそこで終わってしまうような、そんな気がした。だから、わたしはずっと抱えていた疑問をぶつけることにした。


「先輩はどうして、花が嫌いなんですか?」


 たくさんの花束を抱えながら、わたしに背を向けたさくら先輩はフェンスにもたれかかる。今年の桜は、早咲きだった。入学式より早く咲きすぎた桜は、もうすでに風に巻かれて吹雪いていた。あの日、先輩が漏らした言葉のときのように。

 あの日のようにさくら先輩は、無感情にわたしの質問に答えた。


「桜吹雪は綺麗なように見えて、地に落ちれば道路の汚れ。

 椿は生き残るため、身を落とすのが見っともない。

 薔薇もチューリップも、開きすぎたらひとえに無様。

 沈丁花や金木犀は、鼻につく臭いをさせ、百合や牡丹は主張が激しい。ラフレシアなんて論外だわ」


 静かに、さくら先輩はそう言った。そして振り返ってわたしを真っすぐに見つめる。


「だから、花は嫌い。一時しか美しくないし、どうしたって主張が激しいから」


「……でも、花に囲まれた先輩、とっても綺麗です」


 答えられる言葉は、これしかなかった。その言葉に、ふっとさくら先輩は顔をほころばせた。今まで、稀に見せてきた微笑みより、ずっとずっと、優しくて綺麗な笑顔だった。


「やっぱり、香織ちゃんはまっすぐで、素直でかわいい」


「えっ」


「わたし、香織ちゃんのこと大好きよ」


 先輩に、好きだと言ってもらえた。わたしの思う好きじゃないかもしれないけれど、ただその言葉は頭に反響して、わたしはしどろもどろになった。今まで一度も見たことがない、くすくすと声を立てて笑いながら、さくら先輩はわたしの頬に触れる。その感触がくすぐったくて、でもただ嬉しいと感じてしまった。だって初めて先輩が、わたしの下の名前を呼んで、わたしに触れて、わたしを好きだと言ってくれた瞬間だったから。


「前に、ノヴァーリスの『青い花』の感想を話したでしょう」


 嬉しさを噛みしめながらも、急に出てきたその題名には、覚えがあった。先輩が読んで感想を言ってくれなければ、きっと知ることもなかった古典文学だ。あらすじは詩人のハインリヒが、夢の中で見た青い花の少女に恋い焦がれて旅をする話だ。先輩は、その小説を読み終えて、こう言った。


『読んでおいてなんだけど、この話、馬鹿馬鹿しいわね。詩人賛美なところはあるけれど、文章は確かに美しい。でも花に憧れて、ましてや夢で見た花に憧れて、旅をするなんて。それも現実に出会ったマティルデが青い花の少女だった、なんて。父親が夢はあぶくだと言う台詞には同感できるけど。ハインリヒが遅くまで狂熱に駆られて、探し求めたのはなんだったのかしらって、疑わしいわ。まあ、野暮なことを言っているのかもしれないけれど』


 それ以外、言うことがないと先輩は『青い花』の感想を切り捨てた。そこまでぼろくそに言うものだから、わたしも試しに読んでみた。もともと古典文学は苦手な上に、詩が入り混じって抽象的で、更には未完の作品だったこともあって、意味がわからないまま終わってしまった。だから、それを読み切って理解できた先輩が凄いと素直に感じたものだ。


 そんな過去に思いを馳せていると、先輩は笑みを深めた。


「今でも、ハインリヒは馬鹿だと思うわ。でもね、青い花に対してそれだけ熱量があることは、羨ましいと思う。マティルデが本当に青い花の少女か、もしくは、ただ夢を現実にすり替えたとしてもね」


 そう言いながらわたしの頬を、細い指でなぞる。そして、笑みを浮かべたままわたしの目をじいっと見つめる。先輩の瞳に、自分が映っている。それが、ひどく不思議だった。また無言がわたしたちの間を駆け巡ったが、今度はなぜか不安にならなかった。しばらくの間をおいて、先輩は不意に言葉を発した。


「わたしね、ずっといろんな人に綺麗だって言われてきたわ。花のように綺麗と言われたことも、何度もある」


「先輩は凄く綺麗だから事実です」


「そうね、事実だわ」


 わたしはごく自然にそう言って、先輩もまたごく自然にそう返した。


「でも、わたしの美しさって一過性のもの。花と同じ。いずれは醜くなる」


「そんなこと」


 ないです。と言いたかった。老いても綺麗な女性はいくらでもいる。でも、わたしの言葉を掻き消すように先輩は頭を振った。


「あるわ。だって、わたしは不老不死じゃないもの。ドリアン・グレイみたいに老いを吸い取る絵でも、あればいいんだけど。なんにせよ、老いても美しい人はいるけれど、老いた先には、死ぬわ。だから、一過性のものよ。ハインリヒもマティルデも、よく言うわよね。愛が永遠だなんて。死は二人を分かたないのかしら」


 その言葉に、わたしは返す言葉がなくなった。否定したくせに、老いた先輩を想像できなかったからだ。そして、死ぬ先輩も。想像できても、今の美しい先輩が目を瞑って眠るようにしている様子しか、想像できない。先輩は、一度わたしの頬から手を離すと、唇の端に触れた。


「ねえ、香織ちゃん。わたしは、あなたの青い花になれるかしら」


「……え?」


「わたし、気づいていたわ。あなたが、わたしに憧れてずっと追いかけてきてくれたこと。大学も、一緒の所に通いたいから聞いてきたんでしょう?」


 そう言って、先輩はぱっと手を離したと思った瞬間、わたしの制服を強く引っ張った。お互いの唇が触れ合った。一瞬だったのか、何十秒もかけていたのか、わたしにはわからなかった。ただ口づけする瞬間の、さくら先輩の口紅を差していないのに紅い唇が目にひどく焼き付いた。唇を離した後、苦い鉄の味と、柔らかな感触に夢心地になりそうな気持ちを揺り起こそうと、目を瞬かせると先輩はまた微笑んだ。


「結局、マティルデもすぐに溺死した。老いたお互いを確認できないまま。そんな状況で愛は永遠なんて、誰が保証できると言うの。老いた人間は愛せると、誰が証言できると言うの?」


 そう言って、またわたしに唇を寄せる。唇を離す間際に、ぺろりとさくら先輩の舌がわたしの唇を掠め、湿った感触が残る。


「でもね、わたしは考えたの。ハインリヒがあれほど求めた青い花が事実マティルデだったとして、マティルデはすぐに死んだわ。その後の彼は、巡礼に出かけ、彼女の影を追い求めてる。実際の物語はそこで終わってしまったけれど、ハインリヒの中の青い花も、マティルデも、永遠に彼の中に焼き付いているんじゃないかしら。

 ……わたしは、そうでありたい。あなたの永遠の、花でありたい。花信風が吹くならば、吹き終わる前に、あなたの永遠になりたい。散る間際の無様な姿は、見せたくない」


「どういう」


 わたしの言葉は最後まで発せなかった。先輩は微笑んだまま、そのまま後ろに体を倒した。その間際、こう残して。


「わたし、香織ちゃんのことを愛してる。だから、あなたの永遠であり続けるわ」


 さくら先輩の持っていた花束が空中に浮いて、先輩はわたしの目の前から、永遠にいなくなった。

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