パン屋とモンスター(2)

「うーむ。台が古くなっていたようだな」

 もうもうと白煙が舞うように麦粉が漂う部屋。ハロオが頭を下げて謝るなか、ベイクはそうつぶやいた。


「どうしたんですか? ……って、あわわっ」

 あわてて製パン室に駆けこんできたのは、若い女性だった。


『ベイクのパン屋』のもうひとりの店員、ルヴェである。

 製パンのほうはもっぱら助手で、主に店舗における販売員を担当していた。店舗の接客とパン職人を兼ねられるよう、エプロン付きの服と頭巾を付けている。


 彼女は、三区画ほど離れた下宿から毎朝ここへ通っていた。独り身の男所帯のベイクが、若い娘を住み込みさせるというわけにもいかないからだ。

 パン好きの快活な女性で接客にも向いていたが、どうやらなぜか、ベイクの前ではあがって口ごもることが多いようであった。


「だっ、ベイクさん。こ、粉まみれ……」

「大丈夫だ、ルヴェくん。片づけて作業を続けよう。手伝ってくれ」


 ベイクのパン生地はこね上げられ、小さな塊になって並ぶ。

かもむろに運んでくれ」

 とベイク。

 ルヴェはトレイに並べたパン生地を醸し室――製パン部屋の隣りの小部屋に運ぶ。

 物置ほどの薄暗く生温かい小部屋で、棚にパン生地を並べることが出来るようになっている。

 興味深そうに見ているハロオに、彼女は説明した。


「ここでしばらくパン生地を寝かせるのよ。そうすればかもしの精霊たちが、パン生地をふくらませて美味しくしてくれるというわけなの」


 酒の醸造じょうぞうや、チーズやヨーグルトの製造と同じく、パン生地の発酵はっこうという作用はいにしえより精霊の力であると信じられていた。

 錬金術師れんきんじゅつしたちは、ごく微小な菌類という生物が錬金術的アルケミカルな変化を起こすのだ、と論じていたが、あまり一般には支持されていない。


「ああ、なるほど」ハロオは室のなかに目を走らせ、うなずいた。

「これが醸しの精霊たちですか。みんな居心地よさそうにしてますね。ここはいい場所みたいです」

「ええ。そうよ。ベイクさんの醸し室だもの」


 ルヴェは微笑んだ。自分のことのように嬉しそうで得意げだ。

 ハロオが言ってるのは、この部屋の清潔さや温度の快適さをめているのだろうと受け取った。

 ちょっと妙な青年だが、この新入りは真面目で善人、そして見る目もあると好感を持つ。


 まさか元勇者がその特性能力で、精霊がなどとは思いもよらない。


 ハロオのほうは、ふわふわ浮かびながらパン生地に取り憑いて何かしている精霊たちを見ながら、頭をひねっていた。こういった精霊を見るのは初めてのはずだが、何やら見覚えがあった。


「あっ。そうか」ポンと手を叩く。

 くされの精霊たちに似てるのだ。

 黒魔術師たちが召喚を得意としており、ダンジョンのトラップに仕組まれていることも多いから馴染みがある。

 かつて災厄さいやくの四騎士との戦いも思い出す。腐敗ふはいの魔騎士の配下たる邪精霊たちは、大地を腐らせあらゆる生物をち果てさせる恐ろしい敵だった。さんざんな目にあわされたものだ。


「きみたちは、ずいぶんと穏やかだなあ」

 しみじみとつぶやくハロオ。

 ルヴェのほうは発酵が終わったパン生地を運び出す。

「ベイクさんがパンを焼くわ。手伝って」


 醸し室から出されたパン生地は、パン焼き窯で焼きあげられる。パン作りの重要な工程だ。

 それに先立ち、ベイクは窯にたきぎを入れ火を起こしてある。

 薪の本数や配置で火力を調整し、焼くパンにあわせた温度に保つのだ。窯のなかを見ながら、時には腕を入れて手を広げ、温度を確かめる。ベイクの上腕の毛がちぢれているのは、そういうわけだった。

 パン焼きに適した温度も、長年の経験とその肌で感じとっているのだろう。

 ハロオが感心したような目で見ていると、ベイクは言い訳のようにぼそぼそと言った。


魔鉱まこう式じゃなくて、昔ながらの薪の窯でな。火の加減はこうしなくてはならん」


「そっ、そうなのよ」ルヴェのほうは横から口を出す。

「だ、だから、そのっ……とっても美味しいのよ!」

 精一杯に褒めようとしているが、ベイクの前であるせいか、顔を赤くして口がまわっていない様子だ。


「……いや。古くさいやり方だ」


 ベイクは顔をしかめて、首を振る。そしていつも繰り返しているように、窯でパンを焼き始めた。

 ベイクの言う通り、昔ながらの薪のパン窯は、火力調整や焼くタイミングをパン職人の経験と勘に頼っていた。時間や火力を間違えると、生焼けになったり、逆に焦げてしまう。

 ベイクは何年もの修業と経験を積んだパン焼きの熟練者だったが、それでも失敗することがたまにある。薪の燃え方ひとつとっても、いくら注意を重ねてもいつも同じと限らないからだ。


「俺は、火の精霊たちの機嫌を損ねないようにするのが精一杯だ」

 ベイクはつぶやくように言う。

「ああ。確かに、ベイクさんは火の精霊と仲がいいですね」


 ハロオが感心した声で反応する。

 実は、先ほどからとても感心していたのだ。

 窯のなかにいる火の精霊たちをベイクが実にうまくぎょし、機嫌を取り、仲よくやっているからだった。ベイクには精霊そのものは見えないが、うまく付き合う術を知ってるのだろう。

 精霊は見えるが付き合い方がうまいわけではないハロオと、ちょうど逆だった。


「ははっ。精霊が見えるのか」

 ベイクは冗談と受け取り、苦笑する。

「じゃあ、火の精霊のやつに、もうちょっと元気を出すように言ってくれるかな」

「えーと。……やってみましょう」


 ハロオは何やら窯に向かってつぶやいたり、頼むように頭を下げたりした。


 ……とたん、窯の火は急に勢いを増し、炎を吹き上げる。


「うわあ!」とベイク。


「ごめんなさい。少しは話が出来るんですが、僕は専門の精霊使いじゃないですし……」

 ハロオは頭を下げて謝るが、ベイクもルヴェもそんな言葉は聞いてなかった。


「べ、ベイクさん、焦げちゃう!」

「ああ、パンが焦げる!」

「そ、そうじゃなくて、ベイクさんがっ!」


 ふたりの慌てふためく声が、響きわたる。



     ★     ★



「……やはりダメだな。薪の窯は安定しない」


 ベイクは黒焦げのパンを前に、焦げた前髪の頭をうなだれた。

 先ほどの件はハロオが関わっているとは思いもしない。気まぐれな薪式の窯が、とりわけ不機嫌になったのだと理解している。


「前に考えたように、魔鉱式の窯に変えよう」

 決意したように言う。

「で、でも、ベイクさん。それにはたくさんお金が……」

 ルヴェが心配した声をあげた。


「結構な借金をすることになるが、それでもこのまま店が潰れるよりはましだ。なに、きみの給料のことは心配しないでくれ」

「そ、そんなことを言ってるじゃ……」

「こんな黒焦げのパンなど売りものにならん。……どうせ、そうでなくても売れはしないんだがな」


 ベイクの憤った声。

 ルヴェは何か言おうとしたが、その前にハロオが声を発した。


「えっ。このパン、おいしいですよ」


 いまは、このパン屋の昼食の時間だった。

 製パン部屋のテーブルで卓をかこんでいるところだ。

 この店ではありあまっているパンと、それからルヴェが用意したお茶と料理が並んでいる。出来の悪いパンはまかないに回るというのはパン屋の常だが、さすがに今回のは焦げ過ぎていた。

 そんな黒焦げになったパンを、ハロオは美味そうにほおばっている。


 ベイクはきょをつかれて、きょとんとした顔になった。


「いや。世辞せじはいいし、無理して食べることないぞ」

「ムリってなんですか? 本当においしいですよ」


 ハロオは機嫌よく、さらに焦げたパンをほおばった。

 彼は嘘をついてはいないし、そもそも世辞を言うような器用さは持ち合わせていない。もっとひどい味の、あるいは石のように堅いパンを、暗黒の荒野や凍てつく氷原や深いダンジョンの旅のなかで生きるため食べたこともある。

 だが、それを差し引いても、ベイクのパンは美味だった。

 選び抜いた粉と水を使い、醸しの精霊に愛されたこのパンには生命の活力を感じる味わいがあり、それは少々焦げていても損なわれるものではない。

 ――と、彼にもっと豊かな語彙力があればそんな表現をしたかもしれない。しかし、ハロオの言語能力では『おいしい』と表現するのが関の山だった。


「ええ、そうよ。ベイクさんのパンは本当に美味しいわ」

 今度はルヴェが言った。

「でも、そんな黒焦げじゃなくて、いつもの焼き上がりのパンは、もっともっと美味しいのよ!」

「へえ。それは楽しみだなあ」ハロオは素直に言った。


「あっ。ルヴェさんの料理もおいしいですよ」

「えっ。……あ。そ、そう? ありがとう」


 ハロオののんきな言葉に、ルヴェは調子がくるう。

 だが実際、彼女のまかない料理は美味だった。

 ベイクはパンを作るしか能がなく、ほかの料理など出来ないのだ。

 ルヴェの料理は味が良いだけでなく、安い材料で手軽に作れ、まかないにも適したものになっていた。食器を多く必要とせず、仕事のあいまに手早く食べることが出来るよう工夫されており、それでいて品目豊かでバランスがいい。

 いま食卓に出ているのは、豆と挽肉をあわせた炒め物と、つぶした芋に色とりどりの野菜が混ざったサラダだった。デザートに甘く煮て冷やした果実も添えてある。見た目もいい。食べる者を微笑ませるような料理だった。


「ともかくだ。このままではダメなんだ」


 ベイクは食卓が目に入らないように、苛立いらだった声で話題を戻す。

「ハロオくん、きみも気がついたろう。午前中も、うちの店にはろくにお客が来ていない」

「えっ。そうなんですか?」


 ハロオは首をかしげた。

 そもそも、パン屋につとめることなど初めてだから、どの程度の客が来るのが普通なのかも知らなかった。午前中も、販売のほうも手伝いながら、何人か訪れた客の笑顔を見て『パン屋というのはいいものだ』と思っていたぐらいである。


「……以前は、もっとたくさんお客が来ていたのよ」


 ルヴェが、溜息ためいき混じりに言った。


「最近、大手のパン屋チェーンの支店が近所に出来て、お客をとられちゃったの」 

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