幕間 戮 白銀の死神

 ボクは魔導師だ。


 しかし、そこらの十人並の魔導師と一緒にされるのは心底、不愉快である。


 それはボクの経歴を知って貰えれば理解していただけると言うものだろう。


 ボクは魔法七属性、その全てに天賦の才と言えるほどの適性を持って生まれた。


 ジョブは王道の魔導師。


 十歳でエルフの防人に選ばれ、十五の頃には一軍を率いる将として抜擢されたことで、見目麗しきプリンシパリア帝からもこの異才を称賛された。


 幼き頃より飛兎竜文の誉れを手にしたボクが、史上最年少にして臥竜門の守護者に選ばれたのは当然と言えば当然のことであるし、守護者入りから史上最短の期間で守護者筆頭の座を得たのも当然のことだ。


 ボクにとって魔法は呼吸の様に簡単なことである。


 息を吸うことを親から教わる子はいない。


 それと同じく、ボクは誰からも魔法を学ばなかったが、誰よりも魔法の扱いに長けていた。


 それはまるで魚が生まれた時から泳ぎを知っているのと同じだし、鳥が自然と飛ぶことを覚えるのと同じなのだ。


 防人としての職務が理由で演武祭出場の機会は得られなかったが、はっきり言ってボクが出てさえいれば他を寄せ付けぬ強さで祖国を優勝に導いていただろう。


 魔王を僭称するリーズヘヴンの田舎貴族相手に、祖国の才無き魔導師見習いたちが全面降伏などという不名誉を被ることなどなかったはずだ。


 同世代はもとより、上の世代にもボクより強い魔導師はいない。


 ボクの才能はかの英雄トリス・メギストスにも引けを取ることはないなんて言われているが、ボクからすれば冗談ではない。


 南方開放に失敗した聖女メディア・コルギスに敗北したトリス・メギストス如きがボクより優れていることなど、万が一にもあり得ない。



 ボクの才能は、魔導師の上限を超えていると言える。


 最早、古今東西全ての魔導師に敵は無い。


 魔物も魔導師も、ボクに挑む者は全てボクに膝を屈した。


 ボクが最強たる所以は他を凌駕する魔法の才能だけではない。


 ボクは魔導師として最強のスキルを有している。


 その名も、灰色の沈黙グレイオブミュート


 このスキルはその名前の通り、呪文の詠唱をすることなく、魔法を起動させることができるスキルだ。


 ボクはこの世界で唯一、詠唱を抜きにして魔法を扱うことが許された、神に選ばれし才能の持ち主なのである。


 最強、故に無敵であるボクにとって、戦いとはこれまで退屈以外の何物でもなかった。


 しかし、今、ボクの目の前に現れた敵に関しては楽しめそうだ。


 リーズヘヴンという弱小国家の宰相だそうだが、噂によると幼少の頃より魔王を名乗っているらしい。


 ボクが出場して優勝するはずだった演武祭を制したのが、この男。


 黒と赤の髪に黒い瞳。


 線が細く華奢な男だ。


 顔は優男と言うより、中性的で女子のようにも見える。


 およそ強さとは縁遠い印象だ。


 それに、強者特有の覇気や張り詰めた緊張感もない。


 かと言って、目立つ隙もないわけだが。


 演武祭を制するくらいなので、そこそこ魔法は使えるのだろうが、この様子では南方に渡っても三日と持たないだろう。


 弱小国家に生まれたが故に鶏口となったが、我が国や帝国に生まれていれば牛後となっていたのは明白。


 ボクは実力が無いのに口や態度が達者な人間を嫌悪している。


 故に、ボクは目の前のこの男が気に食わない。


 この男の虚な目と気怠げな雰囲気から伝わるのは圧倒的な自信。


 自分が負けることなどまるで想像もしていないのだ。


 許せない。


 他の誰でもない、このボクの眼前に立ち、あまつさえ勝てると思っていることがだ。


 ボクはそんな自意識過剰で勘違いした魔導師に圧倒的な差を見せつけて撃破し、その傲慢にも肥大化した自意識を打ち砕き心をへし折ることに心底快感を覚える。


 だからこそ、この戦いは楽しめそうだとボクは思っている。


 

「あー、マジか。一体いつからこんなワガママになったんだ……?」

 

 目の前の魔導師が呟いた。


「……ワガママ?」


 僕の感情を逆撫でするように、魔導師はため息を一つついてからこちらをチラリと見た。


「あ、悪い。あんたに言ったわけじゃないんだ、僕の相棒がちょっとさあ……」


 心理戦か?


 何かの駆け引きか。


 ボクは気にせず、彼に問いかける。


「一つ、聞きたいことがある。君は、本気でボクに勝てると思っているのか?」


 魔導師は寝起きのように弛緩した調子で答える。


「うーん、どうだろう、ちょっと自信はないかもな」


 ほう、どうやらこの魔導師も気付き始めているらしい。


 ボクの持って生まれた、圧倒的才覚に。


 ボクはわかりやすいように笑みを作ってから言う。


「くくく、今さらボクたちの間に隔たる実力差に気付いたのかい? 降伏するなら許そう、その代わり、君のその杖は置いていってもらうよ。それ、火の枝だろう? その杖は、この時代最強の魔導師であるボクにこそ相応しい」


 この魔導師が腰に差した、赤く揺らめく光を放つ杖。


 どこで手に入れたのかは知らないが、十中八九フーブランシュだ。


 最強の魔導師だけが手にできると言われる伝説のワンド。


「……え? あー、違う違う! 自信がないって言ったのは、そーだな、怒らないで聞いて欲しいんだけど、あんたを殺さずに済ませる自信がないってこと」


 ……?


 ボクは自身の理解を超えた解答に言葉を失う。


 馬鹿、なんてもんじゃない。


 勘違いもここまで来るといっそ清々しさすら感じる。


 魔導師は続ける。


「僕の相棒がさ、なんか知らないけど怒っちゃったんだよね。降伏すれば攻撃を停止するように言っとくから、本当に無理はすんなよ。いや、マジで! 忠告しとくけど、話が通じる相手だとは思うな! これ起動したら僕は僕じゃなくなるからな! 何言ってるかわからないと思うけど戦えばわかると思うから! 頼むぞ! 死ぬなよ!」


「そうかい、だが君は死ね……! 雷閃叫サンダーロア!」


 ボクの怒りは沸点をとうに飛び越えていた。


 灰色の沈黙グレイオブミュートによる無詠唱の雷魔法。


 有無を言わせぬ強襲だ。


 ボクの灰色の沈黙グレイオブミュートは魔法名を告げるだけで魔法を起動する。


 本来必要な呪文の詠唱を挟まない、最強の魔導師にのみ許された特権。


 世界唯一の無詠唱魔法を可能にするスキルだ。


 一瞬で目の前の魔導師に到達した電撃が爆ぜる。


 土埃が魔導師を包み込んでその姿を隠した。


 ボクはワンドを構えたまま、地面に唾を吐いて言う。


「弱すぎて遊ぶ暇もなかったよ」


 土埃が晴れる。


 そして、ボクは驚愕した。


 先ほどの魔導師が、微動だにせずそこに立っていたからだ。


 防御された、とでも言うのだろうか?


 無詠唱から放たれた雷魔法を……?


 ボクは気付いた。


 王国聖騎士が頻繁に使用する魔塞シタデルに似た魔力の残滓が残っていることに。


 魔塞シタデルをあらかじめ使っていた?


 しかし、ボクの種族はエルフ。


 魔力の存在には他種族より鋭敏な嗅覚を持っている。


 ……ボクの魔法が起動し、彼に到達する前に唱えたとしか思えない。


 しかし、あり得ないことだ。


 無詠唱から放たれた最速の雷魔法に、防御スキルが追いつくなんてことは。


 しかもエルフのボクの魔力は人間には感知できない。


 何故なら、エルフは人間や獣人のように体内魔力ではなく外部魔力を体内に宿しているからだ。


 その特性から、エルフの魔法は『見えない魔法』なんて呼ばれる。


 それを、魔法の起動を見てから防ぐ?


 見えない魔法の無詠唱による急襲を?


 ……不可能だ。


 ……ボクと同じ、無詠唱を持っていない限りは。


 いや、たとえ無詠唱を持っていたとしても、こちらの魔法に反応してすぐさまスキルを起動することなど……。


 気付くと、魔導師の雰囲気が変わっていた。


 両眼が赤く変色し、瞳は猫のように縦に割れている。


 悪魔のような貌。


 ボクの背筋にゾクゾクと悪寒が走った。


 ──食われる……?


 そんな言葉が、何故かボクの頭によぎった。


 殺気とは全く違うが、それに似通った感覚。


 強大な魔物のターゲットになった時に自分が捕食対象にされるような、もしくは無機質で重い暗闇に包まれるような、そんな感覚。


「……」


 魔導師は沈黙を保ったまま、悪魔のような瞳をボクにチラリと向ける。


「ぼ、ボクの無詠唱魔法を防御したのか……?」


「……」


 魔導師は黙ったまま、右手に持ったフーブランシュを振る。


 次の瞬間、ボクの驚愕の感情が、一瞬で恐怖の感情に色合いを変えたのがわかった。


 目の前の魔導師の背中から六枚の羽が生え、 そのうちの四枚が彼を頭から覆い隠して傷んだフード付きのローブのように変わり、黒いフードの奥にある感情が抜け落ちたかのような貌を、徐々に白い石膏が包み込むようにドクロの仮面が形成される。


 その面の額の部分には、赤黒く輝く王冠があしらわれていた。


「……」


 尚も沈黙を保ったままの魔導師のフーブランシュから黒い閃光が放たれ、それは収束して漆黒の大鎌を形成した。


「な、なんなんだ……その姿は……!」


 ボクは無意識のうちに叫んでいた。


 しかし、同時に脳内では冷静に分析する。


 おそらく何らかのスキルの多重起動だ。


 あの一瞬で詠唱したのか?


 赤い瞳、王冠のついた仮面、黒い翼。


 それぞれ別のスキルだろう。


 だとすると、あまりにも速すぎる。


 つまり、自動発動型のスキルか?


 何らかの条件を整えて、一斉にそれらを起動したのか?

 


 ドクロ面の奥で赤い瞳が淡く光る。


「……」


 まるで羽を持つ死神のような姿に変わった魔導師が右手に持った黒い大鎌をひらりと回し、左手の指先をゆっくりとこちらに向けた。


 次の瞬間、魔導師の指先がきらりと光る。


 ボクがワンドを持っていた右の肩口に衝撃が走り、遅れて熱を感じ、さらに遅れて痛みが走った。


 僕のワンドが落下して地面を転がる。


「……! ぐあ!」


 ボクは狙撃されていたのだ。


 ノーモーションから繰り出された雷魔法に……!!


 王国魔法の界雷レヴィンではない。


 この魔法は間違いなく、雷閃叫サンダーロア


 ボクが先ほど放った魔法を、そっくりそのまま返された。


 全く同じ魔力量、全く同じ魔力の波長、そして全く同じ熟練度で。


 何故、王国魔導師がエルフの雷魔法を……?


 スキルの一斉起動直後だというのに、また次の魔法の詠唱を終えたのか!?


 速すぎる!


 ボクは後方に受け身を取りながら、すぐさま左手でワンドを拾って叫ぶ。


雷閃叫サンダーロア!」


 しかし、ボクのワンドから魔法が飛ぶことはなかった。


 戸惑うボクを嘲笑っているのか、魔導師はドクロの仮面の奥の深紅の瞳に淡い光を宿しながら手のひらでくるくると大鎌を回し、そして剣礼のように黒い大鎌を自身の面の前に掲げ、首を傾げた。


 余裕だとでも言いたいのだろう。


 挑発していやがる……。


 ボクの恐怖は和らいだ。


 先ほどまでの恐怖が怒りに変わったのだ。


 魔導師の黒いローブの裂けた裾が風もないのに揺らめき、ボクを威圧するように背中の二枚の羽が大きく広がった。


 目には見えないが、邪悪で粘り気のある黒い魔力が突風のように吹き荒れ、ボクを飲み込む。


 まるで巨大な魔物の咆哮。


 この肌を焼くような強大な魔力の奔流は、まるで魔物だ。


 あの小さな身体に、一体どれほどの魔力を内包しているんだ!


 その禍々しい姿と存在感、そしてこれまで経験したことのない状況が、一瞬だけ怒りに変わったボクの心胆を再度凍てつかせた。


 頭の中にさまざまな考えが浮かぶ。


 雷閃叫サンダーロアが起動しなかった理由はなんだ……?


 魔法の起動を妨げられたのか……?


 魔法を封印されたのか……?

 

 肩に食らった電撃が原因か……?


 それとも魔導師が身に纏った面やローブによる権能か……?


 黒い大鎌は何に使うのか……?


 一変した状況に思考が追いつかない。


 その時、ボクの鋭敏な感覚が死神の魔力の僅かな揺らぎを感知した。


「……」


 死神の指先から、漆黒の火の玉が飛び出した。


 黒い火魔法!?


 見たこともない魔法だ!


洞擲夢盾フルディフェンス!」


 ボクを爆心地として黒い炎の柱が上がる。


 防御スキルの洞擲夢盾フルディフェンスがボクの魔力をどんどんと削る。


 黒い火炎は消え、ボクも防御スキルを停止する。


 未だ吹き荒れる熱風がボクの頬を撫でた。


 そして、ボクは一つの事実に気付いてしまう。


 今、ヤツも無詠唱で魔法を起動しなかったか……?


 ……ボクと同じ無詠唱?


 本当にそうか……?


 ……ただのひと言も、そればかりか、魔法名すら発さなかったじゃないか!


 雷閃叫サンダーロアを受けた右肩の傷は強い熱で焼かれたおかげで出血は少ない。


 しかしもう右腕は使い物にならないだろう。

 

 ボクは半ば半狂乱のまま体内に水の魔力を生み出し、それを左手に持ったワンドに込めて唱える。


半裂椒魚ドラゴニュート!」


 ボクのワンドから巨大な水のトカゲが現れ、それが地を滑り魔導師へ向かう。


 巨大なトカゲは黒い死神を飲み込まんと大口を開けて迫ったが、次の瞬間、トカゲが消える。


 そして逆に、今度はボクの眼前に大口を開けた巨大なトカゲが現れた。


「……!? 弾劾絶壁インピーシス!」


 ボクの防御スキルが間に合い、致命的なダメージを負うことはなかったが大水に流されるように後方に吹き飛ばされる。


「ごほっ……」


 衝撃に行き場を失った肺の中の空気が出口を求めてボクの中で暴れた。


 口の中に鉄の味が広がる。


 ボクの放った魔法がそっくりそのままこちらに返ってきた……?


 ああ、ボクは……。


 ボクは今……アレに弄ばれている。


 ボクを殺す手段を、この魔導師は幾つでも持っているだろう。


 それでも、まだボクは生きている。


 猫が死にかけの鼠を痛めつけるように、ボクはあの化け物のオモチャにされている……。


 命の取り合いである魔法戦で、このボクがまるで鼠のように……!


 史上最高の才能と歴代最強の能力を持った、人類魔導師の最高傑作であるこのボクが!!


「ゲホッ……。な、なんなんだ……。なんなんだ! 君は……!」


 ボクの口から出たのは、攻撃魔法の名前ではなく、そんな叫びだった。


 心の底からの叫び。


 まるで、負け犬の遠吠え。


 窮鼠猫噛むとは言うが、今のボクは噛み付くことすら許されない。


 絶対的な、力の差。


 圧倒的な、才の差。


 ボクを見下すように、死神は顔を少し上げ、戦闘に入って初めて声を発した。


「……我ガ名ハ沈黙は銀サイレンスシルバー。…………敬愛セシ主君ノ忠実ナルシモベ。……脆弱ナル贋物ヲ根絶ヤス絶望ヘノ架ケ橋。……我コソガ、真ナル沈黙」


 中性的な顔立ちの青年から出るような声ではなかった。


 身の毛もよだつような、しわがれた声。


 滅びる直前の魔物のような声質だ。


 全身が怖気立ち、肌が粟立つ。


 生まれて初めて、ボクは敗北を察した。


 こんな才能がこの世界に在ったのか。


 こんな魔導師がこの世界に存在したのか。


 これじゃあ、ボクはまるで噛ませ犬じゃないか。


 ボクの砕け散ったプライドが、ワンドを捨てて降伏しろと告げる。


 ……それでも、ボクは。


「ボクは退かない! 最強の魔導師は、このボクだ! ボクを超える魔導師など存在してはいけない! 存在するべきではない! ボクは! ボクは──」


 そこまで言った時、死神の黒い大鎌が残像を残して視界から一瞬ブレた。


「……沈黙セヨ」


 その声がボクに届いたと同時に、死神が一閃した漆黒の大鎌がボクの喉を切り裂いた。


 ボクは後方に飛び退き、喉を抑えて出血を確認する。


 血は出ていない。


 怪我の跡もない。


 しかし、切られた喉元にはまるで水に炭を溶かしたように黒い枷がじわりと出現した。


 黒い鎌はボクの喉元をすり抜けたのだ。


 すり抜けて、黒い首輪のようなものを残した。


「──!」


 声が、出なくなっていた。


 さらに、この黒い首輪に魔力が吸われていくのが分かる。


 そしてあろうことか、この首輪は大岩のような重さを持っている。


 ボクは立っていることすらままならず、膝頭を地につけ、頭を垂れた。


 まるで、死神に跪くように。


「……!」


「……」


 ボクと死神の間に沈黙が流れる。


 ボクは魔法が使えなくなったことで無力となった。


 無詠唱のスキルを持っていても、魔法名を言葉にしなければ魔法は起動できない。


 これでは、ボクはただの戦士以下だ。


 死神は悠々とした動作で右手の大鎌を翻し、左手の人差し指を掲げる。


 首輪の重さに耐えながら死神を見ていたボクは自分の目を疑う。


 死神の指先に、黒い火の玉が浮かんでいた。


 絶望的なことに、間違いない。


 ……ことここに至って初めて確信した。


 目の前の死神は呪文の詠唱も、そればかりか魔法名を誦じることもなく魔法を起動したのだ。


 ボクの灰色の沈黙グレイオブミュートを超える、完璧な無詠唱。


 沈黙は銀サイレンスシルバーと、確か彼は言った。


 灰色を超える……──





──……銀?


 それでも、ボクはなけなしの蛮勇ととうに砕けてへし折れたプライドを己の内から掻き集め、左手で杖を構える。


「……」


 死神は左手の指先に火の玉を浮かべたまま、右手に持った大鎌でボクの左手を切り裂く。


 左手首に黒い枷が現れる。


 ボクは杖を落とした。


 指先に力が込められない。


 そればかりか切られた手首から先には何の感覚もなく、魔力も遮断されたようだ。


 ボクの左手からはまるで実際に切り落とされたかのように、全ての感覚が消え失せた。


「……!」


 必死で怨嗟を唱えるが、それすらも届かない。


 死神は大きな羽を広げ、暗幕を張るようにボクを包む。


「……」


 周囲を漆黒の羽に囲まれた。


 ドクロの仮面の向こうに、鮮血のような両目が光る。


 死神は黒い火の玉をボクの鼻先に突きつけた。


 死神は何も言わないし、その表情は仮面に隠れてわからないが、きっと彼は邪悪な笑みを浮かべているだろう。


 彼の仕草から、ボクはそんなことを感じていた。


 まるでコップの中の水を海だと主張した愚者が、大海で溺れる様を見るような顔だろう。


 そして、ボクは事ここに至って初めて理解する。


 ──ああ、ボクはここで殺される。


 その時、死神が驚き狼狽えるように一歩後退りしてある一点を見つめた。


 死神の目線の先にいたのは、銀髪の女。


 無表情のまま、小さな声で「……シャルル、……めっ。……だよ」と、まるで悪戯した子供を叱るように、彼女はそれだけ言った。


 死神はボクと彼女を交互に見てから迷うように何かを考える素振りを見せ、悔しそうにボクを睨みつけながら地団駄を踏む。


 目の前の餌を我慢する動物のような、そんな動きに見えた。


 そして、死神は不服そうにしながらも銀髪の女に向き直ってから顔を伏せるように頭を少しだけ下げて答えた。


「……銀色ノ姫君ガ仰セノママニ──」


 死神は指先に浮遊する漆黒の炎にふっと息を吹きかけるような動作をした。


 強大な魔力を内包した黒い火の玉は蝋燭の火が消えるかのように一筋の煙を残して鎮火した。


「……冥府の魔導コールオブサタン……災厄型カラミティモード……起動停止」


 死神は呟くと、仮面の奥の赤い光が明滅し、その輝きを失った。


 彼は一瞬だけ弛緩したように脱力し、すぐにその禍々しい仮面を付けた顔をぱっと上げた。


「ぷはっ! 危なかった! あんたが降伏しないから止められなかった! 最初に言ったじゃん! 早めに降伏しろって!」


 雰囲気がガラリと変わった死神が言った。


 声の質感は、青年のものに戻っている。


 最初に死神の翼とローブが引っ込み、次にドクロの面と王冠が砕けて消え、大鎌は赤く輝くワンドに戻った。


 黒い大鎌が消えたことでボクに嵌められた不気味な枷は消えたが、そこには入れ墨のように不吉な模様が残っていた。


 死神は、青年に戻った。


 最後に、ボクを殺しかけた魔導師は言った。


「全く、あんた諦めが悪すぎるぜ……。しかし、ハティナのおかげで助かった……。僕も、あんたもな……」




 この時を境に、ボクは魔導師を辞めた。


 辞めざるを得なかった。


 結局、何年経ってもこの刺青は消えず、ボクの声と左手は戻らなかったからだ。


 それでも、良かったと思っている。


 今では驕った自身への戒めだと割り切れているし、そして何より、生きる上で魔法は必要なくなった。


 臥竜門の守護者がこの時以降、南方から押し寄せる魔物と戦うことは一切無かったからだ。

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