第265話 Lies told in silence.

 ギレンとは和解した。


 イズリーがキノコをあげて、僕が杖を貰った。


 イズリーがとぼけて、僕がツッコミ、ギレンが笑う。


 それで、この話はお終い。


 過去のしがらみは消えないが、それでも今を良くしていけるのが、人の人たる所以であると僕は思った。


 人を許し、人を認め、人を助け、人に助けられる。


 そうやって、上手いこと回っていけば良い。


 本来世界はそれだけで充分なのだ。


 


 最後にギレンは言った。


『南方と北方とを隔てるカナン大河は河幅が広すぎて人間が渡りきるのは至難の技だ。だがエルフ国の領内にはかつての交通の要所がある。カナン大河で唯一、河幅が狭くなっている場所だ。そこには今では大きな門が造られ、魔物の侵攻を防ぐ第一線となっている。門には五人の魔導師がいるが、たった五人の彼らが南方から押し寄せる魔物を水際で防いでいるのだ。過去の取り決めで、彼らは北方諸国共栄会議の権限の外にあるのだ。故に、南方に入るには門の通過の許可を彼らから認められる必要があるわけだ。そしてそれが、何より難しいだろう』


 その五人の魔導師は、世界中から集められた精鋭らしい。


 望むところではある。


 南方の魔王。


 僕の生涯のターゲット。


 この世界に生まれた意味、そのもの。


 強い仲間を集め、国の中枢を握り、他国を征してやっとここまで来た。


 たった五人の魔導師風情に、我が野望が阻まれるものか。


 僕はワクワクしていた。


 ここまで、長き、長き旅路であった。


 今は、野望の成就の夜明けを待つ、そんな気分だ。


 ギレンの部屋を後にして王国の宿舎に戻った僕を待っていたのは、銀色の天使だった。


「……おかえり」


「ハティ──」


 僕の声を遮って、金髪の天使が言う。


「ハティナ! あたし、帝国のお菓子食べた! 美味しかったなあ、ハティナの分も貰って来たよ! す、すこし味見しちゃったけども、でもでも、味は変わってなかった! あたしが食べたやつと一緒!」


 イズリーはギレンからの土産をハティナに渡して、何を察したのかスタコラ自室に入っていった。


 ハティナがため息を吐いて、僕に言う。


「……この本」


 ハティナは古ぼけた分厚い本を僕に見せた。


「なんだ? また小難しい本か?」


 ハティナは首を振る。


「……違う、さっきエルフの使者が来て置いていった」


 僕はハティナの向かいのソファに腰掛けながら言う。


「ああ! そうだ! ハティナのためにエルフから本を掻っ払ったんだ!」


 ニコが僕たちの間に挟まれたテーブルの上にお茶を出しながら、クスリと笑った。



「その本はな、エルフ国の図書館にある最古の魔導書なんだ! エルフのしみったれた文官が言うには、その……なんだ、なんかの本だ。まあ、あれだ、内容は読んでからのお楽しみだ! 本、好きだろ? 僕がハティナのために、小癪なエルフを出し抜いてぶんどったんだ! 偉い? なあなあ、僕、偉い? 惚れた?」


「……シャルル、イズリーみたいになってるよ」


 銀髪の天使はツンとして、本の表紙を優しく撫でる。


 無表情だが、この無表情は幸せな時の無表情だ。


 僕はハティナの表情に関しては一家言を持っている。


 その僕が言うのだから間違いない。


「読んでみなよ。……待てよ? 古文書だと、解読に時間がかかるか?」


 僕の心配は杞憂だと、彼女は首を振る。


「……問題ない。……この世界の文字と言語は古語までほとんど把握している。……この本はおよそ八百年前に書かれたみたい。……それに状態が良い。……防腐と対劣化の魔法が掛けられている。……内容は信仰魔法の起動原理に関する推測と基礎特性、それに今で言うテイラー積の原理原則と古代マッジ理論に関する反証」


 なるほどなるほど。


 そうか。


 なるほど。


 僕も一応、国内最高学府を卒業という、国でもトップクラスの学歴を持っている。


 日本で言えば東大卒業みたいなレベルだ。


 まあ、学歴的にはイズリーと同じなので、それが自慢になるのかは微妙なラインではあるが……。


 とにかく、そんな高学歴な僕だからして、彼女のセリフの後半部分はまあ、何となくは察しが付く。


 つまり、なんだ。


 あれだ。


 魔法の、なんかすごく難しい原理の話だ。


 これを説明するには初歩からの説明が不可欠であり、ここでは敢えて割愛しておく。


 だってそうだろ?


 義務教育すら受けていない鼻垂れに、いきなり東大の授業をやったところで、そりゃつまらないだろう。


 それに、強いて言うならこの本に書かれている内容は、僕とは専攻が違う学問のようだしな。


 僕は心の中でどこかの誰かに言い訳してからハティナに向けて言う。


「なるほど、た、た、タイラー、理論? か、あれか。あのー、あれだな? 魔法の、あれだ。なんかすごいやつだ……ったような」


「……シャルル、イズリーみたいになってる」


「お、おう」


「……噛み砕いて言うなら、当時の闇魔法と光魔法に関して書かれている」


「なるほど」


「……テイラー積の原理原則とは、そもそも闇魔法の起動条件において魔力係数が他の属性と比べて──」


 彼女はいつになく饒舌に話した。


 およそ一年分は話したのではないだろうか。


 その間、僕は「なるほど」だとか「ほほう」だとか「へえー」だとか、要は聞いても分からんからオーバーなリアクションで相槌だけ打っていたわけだ。


 わからない時と自信がない時は大声でリアクションを取ればなんとか凌げる。


 諸君も私生活で大いに活用できるであろう、魔王直伝の処世術だ。


 僕なんかこのオーバーリアクションと知ったかぶりのコンボだけで、この国の宰相職をこなしているようなものである。


 『お前仕事してねーじゃん』という指摘は的外れだ。何故ならこれは仲間とのコンビネーションの一環だからな。


 小難しいことはニコが考え、僕は『無論、わかっておった』というポーズを取る。


 適材適所とはまさにこのことである。




 ハティナの話の内容の九分九厘は理解できなかったが、僕に向けてあれこれ説明する彼女の顔は輝いて見えた。


 彼女の口から溢れる叡智の結晶は僕の頭には何一つ残らなかったが、彼女の顔には出ない笑顔に、僕はひたすら魅了されていた。


 そして、それだけで僕の心は温かい陽光に包まれるように熱を持ち、幸せの形をした稲妻が心臓から脳にかけて駆け巡る。


 ハティナは全ての言語を把握していると言ったが確かに、彼女なら謎の果実を食らった化物のような海賊たちが跋扈する偉大な航路に点在するポーネグリフでもスラスラと読めてしまいそうだ。


 ハティナの言葉にはそのくらいの説得力がある。


「喜んで貰えたなら良かったよ」


「……うん、嬉しい。……それから、惚れている」


「え?」


「……さっき、惚れたかと聞いた」


「あ、ああ、そうだったな」


「……それなら、八歳の頃から惚れている」


「あ、ありがとう……嬉しいよ。ぼ、僕も……ハティナが大好きだ」


 僕たちの間に微妙な沈黙が流れる。


 微妙な空気を感じとっているのは、僕の方だけかも知れないが。


「そうだ、その本に、女神と会う魔法は書かれているか?」


 話題を変えようとした僕の言葉に、ハティナは首を傾げる。


「……女神と会う?」


「ああ、会いたいんだ」


「……女神は存在しない。……神がいるなら、人間や動物をこんなに醜くデザインしない。……人間も動物も、他の動物や植物を食べないと生きていくことが出来ない。……他者の命を奪うことでしか生き永らえることができないなんて、非合理的。……だから、女神はいない。……本当にいるとしたら、悪い神」


 お、おおう。


 これは、何と言うのが正解なのだろうか。


 僕は女神と会っているから、その存在を確信しているが、普通はそうじゃない。


 それなのに、『神』に会ったこともないハティナの理論の方が不思議と筋が通っているように感じるし、悪い神と言うのは完全に正解だろう。


 怠惰を悪とカテゴライズするのであれば完全に、正解なのだ。


 僕から言わせれば、彼女は堕落の『神』だ。


「もしだよ? もしいたら、会ってみたいと思わないか?」


「……いるならね」


「だ、だろ!?」


「……いるならね」


「あ、ああ」


「……いるならね」


「そ、そうだ! いるならだ。いると仮定した時の話だがな、実は獣人国で別行動をしている間、神に会う魔法をあれこれ考えたんだがな。これがどうにも上手くいかないんだ」


「……いないからじゃない?」


「あー、まあ、そうだな、いないなら会えるわけないな」


「……」


「だ、だけどさ、もしも、万が一いたとしたら、可能だろうか?」


「……神に会う魔法?」


「うん」


「……不可能」


「不可能かあ……」


「……とは、言い切れない」


「言い切れないか!」


「……神に会ったことでもあるの?」


「ないよ!」


「……」


「ないよ」


「……」


「ないよ……?」


「……」


「だから会いたいんだ」


「……いるならね」


「そう、いるなら」


「……いなかったら?」


「いなかったら、……会えないかも?」


「……」


「いるかも知れないじゃん」


「……なら、まずは神がいることを証明する、あるいは確認する魔法から創るべきでは?」


「あ、ああー、それもそうか……」


「……シャルル」


「……はい?」


「……あなたって本当に──」


「……?」


「──……変わってる」


「そ、そうか? そ、そうか……」


「……好きよ」


「え……?」


「……あなたの、そういうところ」


「あ、ありがとう、ハティナ……」


「……調べてみる」


「ほんとか!?」


「……会いたいんでしょ」


「うん! 会いたい! 会ってぶん殴りたい!」


 そう、一発お見舞いしてやりたい。


 あのいけすかない女神に一発。


 そして、礼を言いたい。


 僕をハティナの側に生んでくれたことを。


「……神を殴るために会いたいの?」


「あー、まあ、その、なんだ……」


「……変なの」


「神を殴ったら、ほら、自慢できるだろ? 歴史に残る偉業だろう」


「……そんなことしなくても、あなたは歴史に残る」


「ああ、王国宰相だしなあ」


「……そうじゃない」


「違うの?」


「……魔王を倒した者として、あなたは歴史に名を残す」


「……ハティナ」


「……」


「……」


 再び僕たちを沈黙が包んだ。


 心地よい沈黙だ。


 沈黙こそ、尊ばれる唯一の美徳。


 僕は今でこそ、本当にそう思う。


 果たして、人生で何人と出会えるだろうか。


 沈黙すら苦にならない、そんな関係性を持てる人間と。


「……わたし、もう寝るね」


 ハティナはそう言うと、本を持って自室に帰っていった。


「あ、主さま……──」


 控えていたニコが口を開く。


「言うな」


 僕は短く言う。


「……御意。やはり、主さまを我が主君と仰いで正解でした」


 彼女に、僕の嘘は筒抜けだ。


 彼女には、僕が女神と会ったことがあることが、筒抜けになったのだ。


 負い目がある。


 僕は愛する人に、真実を隠した。


「……僕は、酷い人間だな」


 僕の独白に近い呟きに、ニコは首を振った。


「時として、吐かねばならぬ嘘もございます。そして、それは罪ではなく、優しさかと存じます」


「いいんだ、僕は悪人だ。悪人なんだから、このくらいの傷はどうってことない。むしろ、相応しいだろう。僕のような人間には……」


 この咎が。


 この罪が。


 この罰が。


 ニコはそれでも、首を振る。


「悪人は自らを悪人だと顧みたりはしません。主さまは、お優しいお方です」


 ニコの淹れたお茶は既に冷えていた。


 それは僕の喉を通って、腹に収まる前に少しだけ暖かくなった。

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