第262話 真心

 ギレンがニコを見る。


「主さまから『ちゃん』付け……。ふふふ、ミリアさまに自慢するのが今から楽しみでございます……」


 まるで新緑の爽やかな風を浴びるように目を閉じて顔を上げるニコ。


 やめてくれ。


 ニコ。


 反射的に人のせいにした僕の穢れた心にひとつまみだけ残っていた良心が痛んで止まない。


 ニコは何故かやる気を出したようにギレンに向けて言い放つ。


「ええ、主さまが仰せのようにわたくしがやりました。我慢も限界でしたので、何か問題でも?」


 ニコはマンホールに空いている小さな穴からカサカサと現れたゴキブリでも見るかのような目でギレンに視線を送る。


 見られたギレンは「……さ、左様か」などと狼狽えながら、今度は僕に視線を送った。


 まるでクラスメイトとの喧嘩に不良の兄を連れて行った根性なしでも見るかのような目だ。


 ギレンの目つきは腹立つものがあるが、実際のところは咄嗟にニコのせいにした僕に非がある。


 しかし、そんなことは瑣末な問題だ。


 今日、僕はまた大いなる進化を遂げたのだ。


 なぜなら今日はイズリーをもっと好きになれた一日だったからだ。


 イズリーは可愛く、可憐で、純粋で、何より優しい。


 僕が好きになった人が、他人を思いやれる人だった。


 それだけで、僕の胸は一杯なのだ。


 それ以外のことは本当に、瑣末なことじゃないか。


 イズリーを守る。


 彼女の幸せを。


 彼女の笑顔を。


 そのためになら、僕はこの命を捨てたって構わない。


 彼女のためにこそ、僕は死のう。


 心の底から、僕はそう思えるのだ。


「……じゃあ、そういうことで」


 そう告げて帰ろうとした僕に、ギレンは叫ぶ。


「貴様は扉を壊しに来ただけか!?」


 帝国のお坊ちゃんにしてはキレのいいツッコミである。


「主さまがお帰りです。一瞬でも主さまに拝謁できたこと、伏して慶びなさい」


 ニコがギレンに言った。


「シャルル? もう帰るの?」


 イズリーはキョトンとした顔で聞いてから、ハッと気付いたようにギレンの元にトコトコと歩いて行って馬糞のようなキノコを差し出した。


「ギレンくん、これあげる! お父さん、早く良くなるといいね!」


 すっかり忘れていたが、そのために来たのだった。


 今日はイズリーだけが常識人みたいじゃないか。


 どうなってるんだ。


「……なんだそれは」


 ギレンはイズリーの握るキノコを見て尋ねる。


「馬のうんち!」


 元気に答えるイズリー。


「……」


 時が止まったように押し黙るギレンに、イズリーはまたまた元気に言う。


「馬のうんち!」


「聞こえなかったわけではない!!」


 その様子を見ていた僕は、いたく感心した。


 ほほう。


 やはり、ギレンにはツッコミの才がある。


「どういうつもりだ、グリムリープ! 巫山戯ふざけていないで、さっさと説明しろ!」


 ギレンに水を向けられて、僕は逡巡した。


 駆け引きの光明。


 今、ギレンは当惑している。


 夜更けに突如として訪れた僕たちの目的が馬糞を渡すことだけだとは考えられない。


 だからこそ、コイツは僕たちの行動に振り回されている。


 つまりギレンは駆け引きという戦いで後手を踏んでいるわけだ。


 こと政治戦において後手を踏むのは致命的だ。


 逆襲のための策を用意した上で後の先を取るならまだしも、詰将棋のていを成す政治の駆け引きにおいて、感情の揺さぶりによって後手を踏むことは死を、すなわち敗北を意味する。


 このタイミングで、ギレンに取引を持ち込めば大きな勝ち筋が見える。


 が、果たして本当にそれで良いのか。


 イズリーの真心を、駆け引きの材料にする?


 魔王らしい無慈悲な戦略と言えばその通りだ。


 南方の魔王のように、憎しみに焼かれた人間ならば手段は選ばないだろう。


 だが、だからこそ、僕は僕と南方の魔王を分け隔てる分水嶺を見た気がした。


 あちら側に行ったら最後、きっと僕は戻れない。


 イズリーが大好きな優しいシャルルには、戻れない。


「深淵エンシェントが落とした素材だ、イズリーがそれをお前にやるんだとさ。……僕の読みが正しければ、お前はその素材を欲しているんだろ。父親の病の治療に必要なんじゃないのか?」


「……」


 ギレンは悔しそうな、そして歯痒そうな顔で僕を睨む。


「くれてやる。受け取れ」


 僕は突き放すように言う。


 ギレンはイズリーの手にあるキノコと僕を交互に見て、その顔から悔しさを微塵も隠すことなく言う。


「……よかろう。貴様の言うように、深淵の素材は薬になる。天満茸、それがそのキノコの学名だ。そして、余は偉大なる父上のためにコレを受けとらざるを得ぬ」


「……だろうな」


「……」


「じゃ、帰る」


「待て!」


「……なんだよ?」


「まだ貴様の要求を聞いておらぬ。……余としても帝国皇太子という立場がある。故に、流石に聞けぬ相談もある。代わりに何を所望するのか、受け取る前に聞いておきたい」


「なんもねえよ」


「……?」


 呆気に取られたギレンに、僕は言う。


「本当はお前を帝国に縛り付ける駆け引きの道具にしようと思ったが、気が変わった。イズリーの真心まで政治の道具にしたら、僕はいよいよあっち側の人間になっちまうからな」


「……」


 ギレンは驚愕に顔を染めて僕を見ながら口をぱくぱくしている。


 言葉が出ないといったところだろうか。


「さ、帰ろう。イズリー、ニコ」


 イズリーはギレンにキノコを渡すと、何事もなかったようにニコに向かって「ニコちゃん、お腹空いたねえ」なんて言った。


 さっきまで晩餐会でご馳走をたらふく平らげて「食べすぎちゃったかもねえ」なんて言いながら小さなお腹をぽんぽんと叩いていた女の子とは思えない。


 僕は心の中で苦笑する。


 僕たちが背を向けると、ギレンは言った。


「待て、いや待ってくれ」


「ああ? しつこいな、ホントなんだよ?」


 僕は若干キレ気味に返す。


「余の客人として、迎えさせては貰えぬか。グリムリープ卿、二代目震霆、暴鬼イズリー殿、そして聖女ニコ殿。……帝国から持参した茶と菓子がある故、すぐに用意させよう」


「え! お菓子あるの!?」


 食いしん坊のイズリーは帝国皇太子、勇者ギレン・マルムガルムによっていとも容易く籠絡された。


 イズリーがこうなっては、僕とニコに断る手段は残されていない。


 僕たちは芋づる式に、帝国の宿舎に招かれることになった。

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