第260話 彩

 ハティナたちが参加していた晩餐会は、僕がムウちゃんと話しているうちに終わったようだった。


 部屋に帰ってきたハティナは僕のことを見ると一言、「……おはよう」とだけ言った。


 口数少ない彼女なりの労いの言葉だ。


 イズリーは晩餐会でしこたま出てきたご馳走をペロリと平らげたらしく、「た、食べすぎちゃったかもしれない……」なんて苦しそうに部屋に入って来た。


 で、僕を見て一言。


「あ、シャルル! おはよー!」


 彼女たちは姉妹だ。


 イズリーは僕を見ると、重たくなったお腹のことなどすっかり忘れてしまったようで、自分の部屋からグローブを持ってきて僕がいるソファの隣にちょこんと座った。


「オルとロスがねえ、汚れちゃったんだ。今日はねえ、シャルルがいない間にセフィロムと修行をしてねえ。たくさん殴った!」


 セフィロムは、以前イズリーに弟子入りを懇願していた蒼髪のエルフのことだ。


 モノロイも僕も忙しい上に、イズリーの付き人であるタグライトは今ごろ獣人国だ。


 なので、新しいサンドバッグがエルフの地で得られたことは僥倖である。


 僕はイズリーの左手のグローブ──つまりロスの方だ──を磨きながら、イズリーに切り出す。


「イズリー、玩具箱の中に、まだエンシェントの素材は入っているのか?」


 玩具箱というのは、イズリーが集めた魔物の素材だとか、ちょうど良い感じの棒だとか、珍しい色の石だとか、綺麗な鳥の羽だとか、あるいはキンドレーから借りパクをかました魔道具だとかが入っている大きな箱のことである。


 イズリーにとっては宝箱だが、僕たちからすればその中身のほとんどの物がガラクタなので、玩具箱と呼ばれている。


「……? うん、あの馬のうんちみたいやつね。入ってるよ! あの馬のうんち、なんだか良い匂いがするんだ!」


 深淵エンシェントが落とした素材は馬糞みたいな形状のキノコである。


 美少女が馬糞(みたいなキノコ)を持っている絵面というのは、計らずも僕の目には扇情的に映り、新たな性癖を開眼してしまう恐れがあるが今はそれはどうでもいい。


 とにかく、僕はイズリーに言った。


「それ、貰えないかな?」


 イズリーは答える。


「いいよ、シャルルになら。でも、何に使うの? アレ、いい匂いがするけど何の役にも立たない馬のうんちだよ?」


 確かにアレはまるで馬のうんちみたいだが、馬のうんちではない。


 幾度となく超絶美少女の桜唇から飛び出る『いい匂いがする馬のうんち』というパワーワードに僕は戸惑いながらも、正直に答えようと思った。


 たぶん、僕の軽いデマカセを彼女は信じるし、僕が軽く受け流しても彼女は快くエンシェントの素材をくれるだろう。


 しかし、イズリーがこの手のことに疑問を持つのは珍しい。


 僕はこれを素直にイズリーの成長だと捉えた。


 自分の興味の範疇以外のことに、彼女は少しでも関心を持とうとしている証だ。


 それは、やっぱり彼女の成長の小さな一歩であり、そして大きな進歩なのだ。


 だからこそ、僕は正直に答える。


「ギレンにあげようと思うんだ」


 右手のグローブ──つまりオルの方だ──を磨いていたイズリーの手が止まった。


「……ふうん」


 彼女はそれだけ言って、グローブの腕甲についた黒い染みをジッと見つめる。


「……嫌、か?」


 沈黙に耐えかねた僕の口から溢れる。


「……うん、なんであげるの?」


 イズリーはやっぱり黒い染みをジッと見ながら言う。


 彼女とギレンには因縁がある。


 演武祭で、ギレンはイズリーを負かしているのだ。


 僕はそれで彼女が渋っているのだろうと思っていた。


 しかし、イズリーから出た言葉は意外なものだった。


「あの馬のうんちはさ、シャルルとハティナとあたしとミリアちゃんとライカちゃんとニコちゃんとお師さんで倒した魔物が落とした思い出なのに、だから大切なのに、なんであげるの?」


 シレッと忘れられているモノロイのことはさておき、僕はイズリーの気持ちを知れたことに幸福感で満たされる。


 確かにそうだ。


 僕たちの戦いの歴史であり、それは確かに、絆の証なのだ。


「あのキノコ、薬になるっぽい」


 僕の読みが正しければ、だが。


 ギレンがエンシェントに執着していたのは、地下貯蔵庫での彼の様子からすぐにわかった。


 ギレンはエンシェントを討伐したがっていた。


 何十年も樹海でパラケストに釘付けにされていたエンシェントが、その間に人的被害を齎したとは思えない。


 倒す理由があるとすれば、その素材だ。


 ギレンの父親、つまりマルムガルム帝国皇帝は病に臥している。


 この二つの事実、無関係には思えない。


 おそらく、エンシェントの素材が皇帝の病を治す鍵になるのだろう。


 エルフと帝国が協力して南方封鎖に及んだ彼らの取り決めも、おおかたエルフがエンシェントの素材を渡すことを条件に取り決められたのだろう。


 しかし、エルフがエンシェントの素材を持っているとは思えない。


 人類がエンシェントを討伐したのは、歴史上僕たちが初めてのことだと、パラケストは言っていた。


 人類で最初にエンシェントを発見したのはエルフだそうだ。


 そして、最初に戦ったのもエルフの傭兵だ。


 その後、エルフは獣人国と王国の協力を得てエンシェント討伐軍を起こしてこれを撃退したと歴史書には残っている。


 が、実際はエンシェントの生息域を樹海の奥に押し込んだだけに過ぎなかった。


 この事実は祖父モルドレイ・レディレッドのそのまた祖父が実際に従軍したからこそ、僕は知る機会があった。


 ギレンはエルフがエンシェントの素材を持っていると思って、エルフからの取引に乗ったのだろう。


 もしかしたら、エンシェントの討伐とは関係なく、元々あのキノコと同じ物をエルフが所有していたのかも知れないが、とにかく、ギレンがあのキノコを欲していることだけは確かである。


 当然、彼からしたら一度殺そうとした僕と交渉するよりは希望があると踏んだ。


 結果、エルフに担がれたわけだ。


「馬のうんちなのに、お薬になるんだねえ」


 イズリーは上の空でそんなことを呟く。


 視線はやっぱり、腕甲の黒い染み。


 僕たちの間に短い沈黙が流れた後、イズリーはやっと黒い染みを布で磨き始めた。


「誰か、病気なのかなあ?」


「帝国皇帝、ギレンの父親だ。……その病を治すのに、あのキノコが必要なんだと思う」


「そっかあ……。うん、わかった」


 イズリーはソファの上にオルを置いて、スタスタと自室に入っていった。


 しばらくして、イズリーはエンシェントの素材を持って戻って来た。


「これ、あげよう」


「いいのか?」


「思い出は思い出だもん。あたしが覚えてれば、それで良いんだよ。でも、誰だって自分のお父さんにはやっぱり、生きていて欲しいもん」


 イズリーは後ろで結んだ金色の尻尾を揺らしながら言った。


 こんな良い子がこの世にいるだろうか?


 いや、いない。


 いようはずもない。


 自分の大切なものを、他人のために差し出すなんてこと!


 そしてこんなに可愛い!


 サイコーじゃね?


 やべくね?


 ニヤけた僕の顔を指差して、イズリーが笑う。


「にしし、シャルル変な顔ーっ!」


「ふん、いつも通りのイケメンだろう?」


「魔王なのに可愛いねえ」


「今は良いのだ」


「今はってどゆことー?」


「今は今だ、魔王を倒す束の間の休息だ」


「あっちの魔王を倒したらさ、ずっとその顔でいられる?」


 僕、そんなに変な顔をしているだろうか?


 僕の脳内暴走は、ひとまずイズリーの言葉で落ち着きを取り戻した。


「シャルルの難しいこと考えてる時の顔、なんだか怖いもん。今の顔の方が、あたしは好き!」


「そ、そうか」


「魔王を倒したら、もうシャルルが難しいこと考えなくて済むよね?」


「どうだろうな? 僕、一応国の宰相だから」


「でも、あたしは今の顔が好きなの」


「じゃあ、宰相辞める」


「そしたら、怖い顔しなくていい?」


「ああ、魔王を倒したら、難しいことは考えないよ」


「うん! 楽しみだねえ。魔王、強いかな?」

 

「たぶん、今まで会った中で最強だろうな」


「そっか。でも、あたしがシャルルを守るよ。だから大丈夫! もうシャルルが怖い顔しなくて済むように、あたしが守る! シャルルがいなかったら、あたし、ダメダメだから」


 いつまでも子供のままだと思っていたイズリー。


 そんな彼女の、成長の片鱗。


 屈託のない顔で笑うイズリーに、僕は心の中で呟いた。


 僕の方だよ、イズリー。


 イズリーがいなかったら、きっと僕はずっと怖いシャルルだった。


 君に出会えたからこそ、僕の二度目の人生は。


 こんなにも、豊かないろどりを得られたんだ。


 だから、イズリー。


 僕が君を守る。


 そのために、奴を殺す。

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