第259話 見返り
それからのことは、何も覚えていない。
なんとなく記憶の片隅にこびりついていたのは、心神喪失した僕はモノロイに背負われて議場を後にしたこと。
僕はエルフ国が用意した王国専用の部屋の談話室にあるソファの上で目を覚ます。
最初に目に入ったのは雑な織物のように太い樹の根が捻れて絡みついた天井。
この部屋を構成する家具以外の全てが、実際に生きた樹木でできている証でもある。
異世界の不思議。
「主様」
ソファの背もたれの方からライカの顔が覗き込んできた。
僕は老人がのようにむくりと起きて、ライカに言う。
「みんなは?」
「会議後の晩餐会に向かわれました。私とニコとムウが護衛として残っております」
談話室の壁には扉が幾つもある。
ここからは一つの出入り口を除けば、たくさんの個室に通じているわけだ。
「そうか、ごめんな。……色々なご馳走が出ただろうに」
ライカは首を振って「主様の護衛以上の名誉はございません。それに、エルフの出す料理は野菜ばかりですから、我ら獣人にとっては普段の食事の方が……」なんて答える。
僕の脳内に、これからやるべきタスクの羅列が並ぶ。
南方入りの計画を立てなければならないし、他国との水面下での折衝も必要だ。それに関して、ミキュロスやアスラとの相談して……。
そんなことを全部頭の隅っこに追いやって、僕はライカに告げる。
「ムウちゃんを呼んで貰えるか?」
ライカは頷いてたくさんある内の一つの扉に向かった。
すぐにライカがムウちゃんとニコを伴って戻って来る。
「あ……主さま、呪いの件ですが……」
ニコが申し訳なさそうに切り出したが、僕はそれに首を振る。
ニコが言いたいことは、聞かなくても分かる。
彼女は謝りたいのだろう。
女帝の呪いを解いたら、彼女がデブだったことではない。
女帝の醜い容姿が、魔物か呪いか。
それに関して、ニコの読みが外れたことだろう。
僕はニコほど他人の心を読めないが、プリンシパリアの昔話を聞いてからのニコからは、終始焦りが伝わってきていた。
何も間違えないニコが間違えた。
なんでも知っているニコが間違えた。
僕たち凡人にとってはしょっちゅうあることだが、ニコにとってのそれは痛恨のミスなのだろう。
「僕はさ、むしろ安心したんだよ。……ニコ」
頭を捻るまでもなく、そんな言葉が出る。
「安心……ですか? し、しかし! わたくしは主さまのお知恵とならなければならぬ身でありながら……」
ニコはプリンシパリアを魔物と考え、僕はプリンシパリアをブスだと考えた。
たまたま僕の考えが当たりはしたが、僕に確かな根拠があったわけではないし、ただの勘と言ってしまえばそれまでだ。
それよりも、重要なことがある。
「いや、ニコも普通の女の子なんだなあってな。ふふふ、あんな不細工な人間がこの世に存在するなんて信じがたいことだろう、無理もない」
「い、いえ、むしろわたくしは目が見えませんから、そのような言い訳は……」
僕のおどけた態度にも、ニコは肩を震わせてそんなことを言った。
「ニコ、僕たちは二人で魔王だ。僕の間違いはお前が正せ。ニコの間違えは、僕が正す。……それで良いだろう?」
「あ、主さま……」
「これからも頼りにしているぜ」
「……精進いたします」
そういうことになった。
ニコがいなかったら、一体どれだけの時間がかかっただろう。
ここに来るまで。
祖国の支配権を簒奪し、北方諸国という世界政治の牙城を崩し、大陸の南方に潜む魔王を倒すために、一体どれほどの時を失っただろうか。
ニコがいなければ、僕の夢は夢のまま終わっていただろう。
もう一人の魔王と戦って敗れるなら、まだしも。
もう一人の魔王と戦って差し違えるなら、御の字。
ニコの助けがなければ、僕はもう一人の魔王の眼前に立つことも出来ず死んでいたかも知れない。
寿命という名の時間切れで。
あるいは、政治戦に敗れて。
感謝してもしきれない。
紛れもなく、彼女が僕の野望のアクセルだった。
この世界が産み落とした俊豪。
彼女は僕にとって、魔王を殺すスペードのエース。
持ちうる手札の中で一番強力な切り札。
「ニコがいなかったら、僕は僕じゃなくなっちまうんだろうな」
「……?」
珍しく不思議そうな顔をするニコに、僕は言った。
「南方の魔王は憎しみに塗れて魔王になったけどさ、僕はニコがいて初めて魔王でいられるんだよな」
本心だった。
ニコは大きな両目を涙で滲ませている。
「南方に入れば何が起こるか分からない。もしかしたら、大切な仲間を失うかもしれない。もし僕があっちの魔王みたいに理性を失った時は、その時は……」
遮るように、綺麗な顔をくしゃくしゃにして泣くニコが鼻を啜りながら言う。
「……そうならないよ、ように、がん、頑張りますぅ、うう」
ニコのこんな弱気なところは初めて見た。
だからこそ、僕の中に後ろめたさが生まれる。
僕の野望のためにこの娘の人生を振り回してやいないだろうか。
彼女を便利な道具として、無意識にでも認識してやしないだろうか。
「主様──」
僕の考えを切り裂くように、ライカが言う。
「──我らの幸せは主様にお仕えすることにございます。どうぞ、御心のままにあられませ。それこそが、我らの至福にございます」
じんと目頭が熱くなるのを感じた。
ニコの知恵は僕を実利で助けるが、ライカの言葉は僕の心を助けてくれる。
「ああ、そうだな。……僕が野望を叶えるまでは、甘えさせてもらおうかな」
これ以上、自分に迷いが芽生えぬように僕はそれだけ言うと、ライカとニコが揃って頭を下げた。
そして、ムウちゃんに向き直る。
「ムウちゃん、これからダークエルフは王国で引き取ることになった。……エルフ国で罪人扱いである彼らは、王国に入っても罪人としての扱いを受ける。……そこは僕とミキュロスが特赦を出して、彼らには魔王麾下として働いてもらう。王国では未来永劫、ダークエルフへの謂れなき差別に関しては厳しく取り締まることにする。……君たちダークエルフが故郷を追われるのは、申し訳なく思うけど、今はそれで我慢してくれないだろうか?」
ムウちゃんは革紐で縫い合わされた口をモゴモゴと動かしてから、ちらりとニコを見た。
「……ムウちゃん」
落ち着きを取り戻したニコがムウに頷き、僕に向き直る。
「ムウちゃんは主さまに、『ありがとう』と……。それから──」
ニコはそこまで言って、またムウちゃんを見る。
ダークエルフの長身メイドであるムウちゃんはまたモゴモゴと口を動かし、ニコに向けて何かを伝える。
僕とニコを見るムウちゃんは、心なしか警戒心を抱いたような眼差しだ。
「──ムウちゃんが言うに……そのう、あの……」
目の下を赤くしたニコが口籠る。
僕は穏やかな気持ちで、ニコに「ムウちゃんはなんて言ってるんだ?」と尋ねる。
ニコは言う。
「み、見返りは何かと……」
ムウちゃんは何やら警戒するようなジト目で僕を見る。
……考えもしなかった。
確かに、仲間とは言えムウちゃんの世話はニコやライカに任せきりだ。
僕とムウちゃんの関係性は薄いと言わざるを得ない。
だから彼女が、僕に恩を売りつけられたと考えるのは当然と言えば当然なのかもしれない。
「ダークエルフの保護は……」
そこまで言って僕は考える。
僕は何故、ダークエルフを助けたのだろう?
僕は自分の行動を振り返る。
僕は奴隷や差別なんてもんは最悪の風習だと考えている。
それは前世の価値観から来るものだろうし、この世界で培ったものでは、おそらくない。
きっとその辺りに、僕の行動原理が隠されているのではないか。
僕は相手がダークエルフだから助けたのだろうか。
エルフとダークエルフが正反対の境遇であれば、僕はエルフを助けたはずだ。
ニコやライカにしてもそうだ。
それが親切な行動だとは思っていない。
いないが、しかし、奴隷商から彼女たちを助けたのは自分だと、どこかで勘違いをしてやしないか。
自分が助けたのだから、自分に仕えるのは当たり前。
だなんて、それはある種の差別的な思い上がりではあるまいか。
僕がライカを買った理由は、ただの気まぐれである。
神の啓示と言えばそれっぽいが、その結果ライカは僕の元で戦いに身を置く羽目になっている。
ニコなんて、ライカのおまけとして出会ったのだ。
彼女たちの『奴隷としての幸せ』を、僕は奪ってやしないだろうか。
これを僕のエゴと言わずして何と言おうか。
ニコとライカの奴隷としての幸せと、今の幸せ。
どちらが良かったかなど、誰にもわからないはずなのだ。
で、あればあるいは……。
答えに辿り着くと同時に、僕はムウちゃんに向けて言う。
「ダークエルフの保護は、僕の趣味みたいなもんだ。ムウちゃんが礼を言うことではない。何故なら、僕は魔王という力を背景に他国を
僕がニコとライカにも向けて放ったこの言葉を、彼女たちはどう感じるだろうか?
ムウちゃんは一瞬だけ固まって、それからニコの耳元でヒソヒソと何かを告げた。
「このご恩は忘れないと。それから、南方の魔王の討伐に協力するとのことです。……もちろん、主さまの半身たるわたくしも、お供いたす所存にございます」
ニコは微笑んでそう言った。
ライカは一言、「無論、このライカも。……それから、主様にお仕えできて光栄です」とだけ言った。
僕は思う。
恩を受けているのは僕の方だ。
彼女たちのような仲間に支えられていなければ、南方入りは夢のまた夢だった。
彼女たちの自己犠牲に、僕は答えられるだろうか。
しかし、確信がある。
将来、僕は彼女たちの自己犠牲に、きっと自らの自己犠牲で答えるだろう。
選択に迫られたその時、きっと僕は怯むことなく選べるだろう。
彼女たちは僕の魂の一部であると、僕は揺るがぬ想いでそう断言できるのだ。
僕たちの出会いのきっかけは、僕のエゴだった。
エゴから生まれた僕たちの繋がりを維持するのは、僕と彼女たちの自己犠牲。
僕たちは、良い仲間だ。
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