幕間 死

 木叢こむら抜ける薫風。


 朝露に濡れる野薔薇。


 山犬の遠吠え。


 陽光に抱かれ煌めく大樹。


 黄昏に落ちる木の葉。


 夜の帳を彩る星々。


 そして、数多の知識が詰め込まれた書物。


 それだけが、男の全てだった。


 男はエルフと人間の間に生まれた混血だった。


 その半身にはエルフの血が流れていたが、ユグドラシルには住まなかった。


 男は望まれて生まれた存在ではなかったし、混血はエルフからも人間からも蔑視される立場だったからだ。


 人間の母親の気紛れ、そしてエルフの父親の刹那的な快楽の結果としてだけ、男は存在した。


 北方エルフの国で、男の存在はそれ以上でも以下でもなかった。


 男は生まれてすぐに母と共に森に捨てられた。


 母はすぐに、母親としての責務も義務も放棄して男の前から姿を消した。


 しかし男は、それらの過去やユグドラシルに住めない現在を気にしたことはなかった。


 男には親も故郷も興味の範疇ではなかった。


 ただ、男は書物を愛した。


 幼児おさなごから金を稼げる青年になるまで苦労はしたが、それからは男にとっての人生はただ時間を浪費するだけのものとなった。


 森に拵えた掘立て小屋で、男は日がな一日本を読んで過ごしていた。


 狩りや採集で稼いだ僅かな金子も、ほとんど全て本に消えた。


 本は良いものだと男は思う。


 新たな頁を進めるごとに、自身に知恵と強さを与えてくれる。


 本が自分を強くする。


 本が自分を高みに連れて行ってくれる。


 本が自分をより豊かにしてくれる。


 男は歳をとるにつれ、莫大な知識をその頭に詰め込んでいった。


 そうして男は法学、医学、哲学、天文を極め、遂には魔導にも食指を伸ばした。


 溢れる知識を以ってして、男ははからずもエルフ国の危機を幾度か救った。


 それは国中に広まり、男はいつしか森の賢者と呼ばれるようになった。


 

 ある日、森の賢者はひとりの女と出会う。


 森の賢者が水汲みに使う泉に、女エルフがいたのだ。


 母の記憶などほとんどない森の賢者にとって、生まれて初めて女という生き物を見た経験となった。


 書物を通して女という生き物の生物学的特徴に関して知ってはいたが、この目で見るのは初めてのことだった。


 ──実在したのか。


 男はそう思った。


 エルフには極端に女性が生まれにくいという種族的特性があり、女性はほとんど部屋から外に出ることはない。


 故に、自室ばかりか大樹ユグドラシルの外に出るなど以ての外である。


 ユグドラシルに入らず、森からも出ない森の賢者がそれまで女を見たことがなかったことに、何ら不思議はない。


 


 木叢こむら抜ける薫風。


 朝露に濡れる野薔薇。


 山犬の遠吠え。


 陽光に抱かれ煌めく大樹。


 黄昏に落ちる木の葉。


 夜の帳を彩る星々。


 そして、数多の知識が詰め込まれた書物。


 男の全てに、泉の女エルフが加わった瞬間だった。


 女エルフは浅黒い肌をしていた。


 それが理由で、女エルフはユグドラシルで爪弾きにされていた。


 エルフの白い肌は聖なる光と同義であると、誇り高きエルフたちは考えていた。


 神が創り出したユグドラシルに住う種族は、最も神に近い種族であり、それ故に皆一様に白い肌を持って生まれると信じられていたのである。


 その逆に、白いエルフから浅黒いエルフが生まれることは、不吉の象徴とされていた。


 白が光を表すように、黒は影を表す。


 邪悪を秘めて生まれたエルフの肌が黒いのは当然のことであり、それが嫌悪の対象になることもまた、当然のことだった。


 ユグドラシルのエルフたちは女エルフとの物理的な接触を避け、道ですれ違えば顔を背け、商店は物を売らず、与えられる仕事と言えば遺体の埋葬や家畜の屠殺、あるいは処刑人や汚物の処理が常である。


 そうして育ってきた女エルフであったから、森の賢者と出会った時は慌てて逃げようとした。


 それを、森の賢者は引き止めた。


 そして、除け者の女エルフにこう言った。


 ──なんと、美しい肌であろうか。


 森の賢者は初めて出会ったエルフの女性に、一瞬で恋に落ちたのだった。


 女エルフにとっては憎悪や嫌悪の念ではなく、愛好の念を贈られた初めての経験だった。


 森の賢者は、およそエルフ社会の文化や伝統に関して無知に近かった。


 知識として知ってはいても、どうしてもそれに共感することは無かった。


 見たこともないものを憎むことなど、知らぬものを蔑むことなど、森の賢者は愚行であると断じていた。


 そして、初めて見た浅黒いエルフの女を、男は美しいと思った。


 それだけが、男の真実だった。



 森の賢者と神樹の除け者は、共に初めての『他者』を得た。


 混血と異色。


 逸れ者同士の二人はまるで導かれるかのように、接近した。


 二人は泉の畔で頻繁に会い、森の賢者は本から得た知識を、女エルフは街の様子を互いに与え合った。


 そして、同時に二人は互いの愛も分け合った。


 森の賢者は自らの淡白な人生が、一変して彩りを持って輝き始めたのを察した。


 それまで孤独というものを幸とも不幸とも思わなかったが、今ではその孤独が真冬の夜の如く凍てついた世界だと感じるのだ。


 そして、女エルフと共に過ごす時間が、まるで雪を溶かす春の陽光のように森の賢者の渇いた心を潤した。


 森の賢者は世俗を知らぬが、結婚と呼ばれる文化があるという知識は持っていた。


 そんな世俗の慣習に想いを馳せるほどに、森の賢者は神樹の除け者に夢中になっていた。


 森の賢者は泉で拾った玉虫色の綺麗な石を削って首飾りを創り、そこに祈りを込めた。


 ──愛しき褐色の乙女に、末永き幸あらんことを。


 


 森の賢者は女エルフとの再会を心待ちにしていたが、二人が泉で再び会うことは叶わなかった。


 女エルフが泉に来なくなってから暫くして、森の賢者はユグドラシルに入った。


 どうしても、褐色の乙女に自分の気持ちを伝えたかった。


 どうしても、褐色の乙女の気持ちを知りたかった。


 どうしても、樹々をざわめかせる彼女の香りに酔いしれたかった。


 どうしても、あの優しく澄んだ瞳を見つめたかった。


 どうしても、長い白金の髪が風に揺れる姿を見つめたかった。



 木叢こむら抜ける薫風。


 朝露に濡れる野薔薇。


 山犬の遠吠え。


 陽光に抱かれ煌めく大樹。


 黄昏に落ちる木の葉。


 夜の帳を彩る星々。


 そして、数多の知識が詰め込まれた書物。



 今ではそんなものはどうでも良かった。


 ただただ、ひたすらに、この孤独が齎す渇きを癒したかった。


 ユグドラシルに入った森の賢者は褐色の乙女を探し、そして見つけ出した。


 褐色の乙女──







 ──だった物を。



 女エルフは衣服も剥がされ肌も露わに、樫の木で拵えられた十字架に磔にされていた。


 縦に斬られた女の腹から、女の肌より黒く腐った臓腑が垂れていた。


 樹々のざわめかせる可憐な彼女の香りは、醜悪な死臭に変わっていた。


 優しく澄んでいた瞳は昏く濁って蛆の餌と成り果てていた。


 長い白金の髪は血に染まり黒ずんで、女が受けた暴虐の有様を訴えていた。


 


 森の賢者は地に伏した。


 心を抉り出すような衝撃と脳を掻き切るような激痛に気を失った。


 これまで充分過ぎるほど過酷な男の人生で、初めての絶望だった。


 森の賢者が気付くと、磔の女は炭となっていた。


 ユグドラシルに住うエルフは女の亡骸に火を放ち、自らの残虐を忘れることにしたのだった。


 十字架があった場所に、灼熱の残り香を感じさせるように、燻った赤い灯火だけが儚げに揺らめいていた。



 この年。


 エルフの住うユグドラシルは長い日照りによる旱魃に喘いでいた。


 中央大河の川幅は細り、井戸の水は枯れ果てた。


 エルフたちは考えた。


 よこしまを天に返すことで、自らの潔白を神に証明しようと。


 邪とはすなわち、褐色のエルフであり、生贄には数十人の褐色が使われた。


 当然、褐色の乙女もその対象となった。


 森の賢者は、堕ちた。


 まだ熱を持った褐色の乙女の遺灰を手に取り、顔に塗りたくった。


 まるで影にその身を委ねるように、男は自らの白い肌を黒く塗った。


 男の顔は火傷で爛れ、片目を失うほどであったがしかし、男は構わず全身に褐色の乙女の残骸を塗りたくった。


 森の賢者にとってそれは通過儀礼イニシエーションであった。


 自らの肌を黒くすることで、森の賢者は理性を捨てた。


 男は邪悪と同化した。


 知性ある男はこう考えた。


 ──エルフの道理が善と、そう神が言うので有れば受け入れよう。然らば、私は悪で良い。悪こそ幸であり、我が道理である。


 混血と異色。


 森の賢者はこの世の差別と偏見と嘲笑と侮蔑の権化と化した。


 森の賢者だった男は、その知識の牙を神樹に向けた。


 まるで自身を塗り上げた黒い炭が垂れて出るように、男の身体から黒煙が巻き上がり、エルフの多くを巻き込んだ。


 怨嗟の煙は触れるもの全てを腐らせ、くろつちと変えた。


 そうして、男は黒を撒きながらエルフの王宮に向い、この愚かな人身御供ひとみごくうを決断した当時の女帝に迫った。


 助命を乞う女帝に、黒の悪逆は言い放つ。


 ──偽りの美に酔いしれる愚者に授ける。我が呪いの名は想像の結実イミテイション。我が破滅が汝らを滅ぼすその時まで、汝らを在るべき真実の姿へと変えるであろう。


 男は呪詛を吐き捨て、川幅の痩せた中央大河を渡り南方に消えた。




 木叢こむら抜ける薫風。


 朝露に濡れる野薔薇。


 山犬の遠吠え。


 陽光に抱かれ煌めく大樹。


 黄昏に落ちる木の葉。


 夜の帳を彩る星々。


 そして、滅びかけたエルフ。


 男の住んでいた掘立て小屋には、大量の書物と玉虫色に輝く首飾りだけ。


 それだけが男と女の存在が、関係が、愛が、確かにそこに在ったことを示すばかりである。

 





 それから数十年の後、突如として現れた異形の怪物たちが南方の遍く全ての命を狩り尽くした。


 その虐殺の淵源を、後に人々は魔王と呼んだ。





 

 黒の悪逆が神樹を去る時、彼はこう言い残した。







 愛する人よ。


 貴女を殺そう。


 愛する人よ。


 全てを殺そう。









──リーズヘヴン王国第十九代筆頭魔導師グリゼル・ランザウェイ


 

 当記録はリーズヘヴン王国二代目宰相『魔王』シャルル・グリムリープが晩年、義弟であり一番弟子である『魔剣士』ハル・グリムリープとその妹にして第十七代王国筆頭魔導師『冥王』フォーラ・グリムリープにのみ語った寓話とされるものが、『豪姫』グリゼル・ランザウェイ(旧姓トークディア)の日記より確認された一文である。


 グリゼル・ランザウェイがこの日記を書いた当時、リーズヘヴン王国は先代の国王であった『遠見』の異名を持つ賢王ミキュロス・リーズヘヴンの治世で莫大な経済圏を獲得していた。


 それにより、王国内部では他の北方諸国との経済的な格差を背景とした北方領土拡大を声高に叫ぶ武断派と、先代の意志を継いで平和的な国際秩序の維持を主張する文治派とで国が二分されていた時代である。


 当記録には、この時代に師団長として魔王の精鋭アザゼルを指揮していた『魔剣士』ハル・グリムリープが文治派の筆頭として、同じく武断派の筆頭であったグリゼル・ランザウェイに語った内容だと表記されている。


 グリゼルは、シャルル・グリムリープと『慧姫』ハティナ・トークディアの嫡男『不滅』アンブローズ・トークディアを父に持ち、悪名高きアーゴン・ランザウェイに代わって王国南方を治めたカルゴロス・ランザウェイ(旧姓リーズヘヴン)の嫡孫、アンへロス・ランザウェイに嫁ぎランザウェイ性となっている。


 余談ではあるが、グリゼルはトークディア家の令嬢として生まれはしたが、その気質はむしろ祖父の血統であるグリムリープ家のそれを色濃く受け継いでおり、権勢を重んじ野心を美徳とした。


 そして、嫁いだその日に夫であるアンへロスを撲殺しかけたという話があるくらい、激しい気性を持っていた。


 グリゼル・ランザウェイはその苛烈な気性と破天荒な性格から幼少期にはイズリー・トークディアの再来とも呼ばれた天才大魔導師であり、『魔王』シャルル・グリムリープに師事した多くの弟子たちの中でも最高傑作の呼び声高い『冥王』フォーラ・グリムリープの弟子にして、後に老齢であった自身の叔祖母、二代目震霆『暴鬼』イズリー・トークディア本人にも師事していたことから、同世代では『震霆』パラケスト・グリムリープの教えを最も正統に受け継いだ魔導師として、三代目震霆の名を欲しいままにした魔導師だった。


 グリゼル・ランザウェイは『魔王』シャルル・グリムリープの直系の孫にあたり、グリゼル自身も祖父である『魔王』シャルル・グリムリープに畏敬の念を抱いていたとの証言もあることから、シャルル・グリムリープがエルフ国より齎したとされるこの寓話によって、王国筆頭魔導師として武断派を率いていた彼女が他国への侵略戦を思い止まったことは想像に難くない。


 

 しかしながら、記録者であるグリゼル・ランザウェイ自身もこの記録の内容に関して多くを語ろうとしないまま没した。


 この記述はランザウェイ邸の書庫に残されていたグリゼルの日記から偶然発見されたものであり、南方入りする直前の『魔王』シャルル・グリムリープがエルフ国にて開催された北方諸国共栄会議でエルフ国の女帝『憐憫帝』プリンシパリアから聞いたとされるが、真偽、出典、共に詳細は不明である。



 当日記は現在、リーズヘヴン王立魔導図書館王国史研究課与り第一王国史資料室にて厳重に保管されている。

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