幕間 惨

 リーズヘヴン王国。


 大陸北方と南方を隔てるカナン大河下流の北岸に位置する小国である。


 私がこの地に流れて来て二年が経つ。


 帝国民のしがない吟遊詩人であった私がこの国を訪れる事になったきっかけ、それは我が祖国である帝国で開催された演武祭にある。


 この国に生まれた二人目の魔王。


 魔王シャルル・グリムリープ。


 たったの十二歳の少年が並み居る魔導の俊才の数多を打倒し、演武祭を制したのが全ての事の発端である。


 当時、酒場で流れの吟遊詩人として日銭を稼いでいた私に人生の転機が訪れたのが演武祭からちょうど一年が経った頃のこと。


 私は帝国皇太子、ギレン・マルムガルム様に呼び出された。


 私は自分のような小者が皇太子殿下に謁見出来ることなど想像の範疇の外であったために大いに訝しんだが、私は実際にギレン様に目通りした。


 当時、演武祭で魔王に敗北したギレン様は、それから民衆の前に現れることが極端に減った。


 巷では魔王に呪いをかけられたのだとか、すでにギレン様は亡きものにされ、今のギレン様は影武者なのだとか、そういった根も葉もない噂が飛び交っていたのを記憶している。


 ギレン様は私に仰った。


 王国に向かい、魔王シャルル・グリムリープについての情報を探れと。


 私は魔法も使えないし、剣術の心得もない。


 自分にそのような任を全うできるとは到底考えられなかった。


 しかし、私はその任務を引き受けることにしたのだ。


 この任をやり遂げた時、宮廷お抱えの吟遊詩人になれるという、皇太子殿下の甘い言葉に乗ったのだ。


 このことを、私はひどく後悔している。

 

 私は近々死ぬだろう。


 これまで私は三十年近く生きてきたが、正直な話、今の今まで死というものを自身の間近で感じ取ったことがない。


 死とはいかなるものなのだろうか。


 死後の世界とは、果たして存在するものなのだろうか。


 自分が消えて無くなるということは、果たして。


 私は、怖いのである。


 情け無いことだが、私は死というものをひどく恐れているのだ。


 私は自身に迫る死に、そして絶対に覆すことのできないその恐怖に押し潰されてしまいそうになる。


 あの方は、私を許すことはないだろう。


 あの方は、私を逃すこともないだろう。


 私が帝国の密偵であるということがどういった経緯であの方に察知されたのか、私にはわからない。


 きっかけも気配も、あるいは秘密が明るみになる予兆すら感じなかったのだ。


 私が把握する厳然たる事実として、あの方は私のことを最初から知っていた。


 最初から見抜いていたのだ。


 


 この二年で痛感したのは、帝国は近々滅びる事になるのではないかという疑念。


 いや、諦念にも近い感覚だ。


 帝国の上層部が危険視しているのは、魔王シャルル・グリムリープの存在だ。


 しかし、本当に危険なのは彼の大魔導師ではない。


 本当の意味で警戒すべきなのは、そのすぐ側にいる、たった一人の少女。


 悪徳の魔女。


 あるいは背徳の令嬢。


 またの名を血塗れの乙女。


 王国の裏の世界の住人は、皆一様に彼女を恐れそう呼ぶ。


 その名をニコという、一人の獣人の少女。


 魔王シャルル・グリムリープの懐刀にして稀代の策略家である。


 私も帝国民の端くれ。


 祖国が滅びることを、座して待つことも本意ではない。


 願わくばこのメモが、私と任を同じくした帝国の同胞に渡り、我が祖国を救うことを願って、ここに書き記す。




 私はマルムガルム帝国宮廷お抱え詩人になる夢を胸に、皇太子殿下の密命を受け王国に渡った。


 私が王都に着いた日の晩、男が私を訪ねて来た。


 すでに帝国から入っていた間者である。


 男は言った。


『これから、何か情報を掴んだ際は俺に報告するように。……どんな些細な情報でも良い。ただし、帝国を裏切ろうとだけはするな。帝国からの密偵は俺だけじゃない。……ギレン様はいつでもお前を見ているぞ』


 私はそれから毎月、男に情報を流すことになった。


 幸いにして私は王国に来てからというもの、魔王シャルル・グリムリープの情報を集めるのに苦労はしなかった。


 今となっては不運だが、その時はツキが向いていると思っていた。



 私が王都に着いた頃、魔王の尖兵ベリアルという傭兵団が王国で猛威を振るっていた。


 魔王の尖兵ベリアルの長は元帝国民であるという情報を密偵の男から得た私は、魔王の尖兵ベリアル団長であるテツタンバリン氏に接触を試みることにした。


 何しろ、王国に来たは良いものの相手は魔王。


 彼の大魔導師は王国魔導四家という高位貴族である上に国家の英雄のような存在だ。


 伝手がなければ有益な情報など探れる余地がない。


 幸い、テツタンバリン氏が訪れることの多い酒場で、仕事を貰えた。


 私の本職は吟遊詩人。


 夜の酒場でリュートを鳴らして英雄譚を唄う。


 テツタンバリン氏とは、すぐに誼を通じることができた。


 同じ帝国からの流れ者として、意気投合したのだ。


 私は仕事を探しているとテツタンバリン氏に持ちかけ、どこかの貴族を紹介してほしいと頼んだ。


 どこぞの貴族のお抱えとなり、グリムリープと誼を通じることが目的だ。


『俺ぁ、この国に来てまだ日が浅えからなあ。知ってる貴族なんて、一人しかいねーし。……あの人が詩人に興味を持つかもわからねえけど、まあ紹介くらいなら──』


 テツタンバリン氏はそう言って、とある少女を紹介してくれた。


 それが、獣人のメイド、盲目の少女ニコである。


 なんと、彼女はグリムリープ邸のメイドだったのだ。


 盲目の獣人をメイドとして雇うことに私は少しだけ驚いたものの、相手は勇者を降した魔王なのだ。


 何か深い考えがあるのだろうと、私は呑気にもそんなことを考えていた記憶がある。


 私が王国に来てすぐに近付きになったテツタンバリン氏が唯一面識を持つという貴族がまさに、魔王シャルル・グリムリープその人であった。


 今思えば、正しくこの瞬間に私の死は覆らぬものになったのだが、当時の私は大いに喜んだ。


 適当に放った矢が、目当ての大物を仕留めたような気分だった。


 彼女と初めて会った時、私はニコに自身の持つ全ての話術を以ってして売り込みをかけ、彼女は何ら疑うことなく私を信用した。


『吟遊詩人の方ですか。……なるほど。我が主人が詩人に興味を持つかはさておき、あなたの立場は我が主人のお役に立つでしょう。よろしければ、我が主人に紹介させてください』


 ニコは私にこう言った。


 とんとん拍子で、私は魔王シャルル・グリムリープに謁見を許された。


 帝国貴族の慣習で言えば、貴重な美術品や珍しい魔物の素材、そしてお抱えの詩人。


 これらを持つことは、その貴族の格を現すステータスになる。


 そう言った背景もあり、私は王国貴族のお抱え詩人を目指したわけだが、ニコが言うに、魔王シャルル・グリムリープはおよそ貴族らしからぬ性格らしく、お抱えとして私を雇う可能性は低いだろうとのことだった。


 それでも、私は魔王との会談を望んだ。


 帝国から派遣されているだろう他の密偵に先んじて魔王シャルル・グリムリープの側に行くのは、皇太子殿下の覚えもよくなろうと考えたからだ。


 後日、グリムリープ邸に案内された私は魔王との邂逅を果たす。


 魔王シャルル・グリムリープの言葉は、今でも鮮明に思い出すことができる。


 私の目の前に現れた魔王は、良くも悪くも普通の少年だった。


 しかしその内面は徹底的な現実主義者であると、私は感じている。


 私は彼のお抱え詩人になるため、得意の物語を彼に披露した。


 その物語の内容はこうだ。


 ある村に足の遅い男がいた。男はその足の遅さをいつも村の者に馬鹿にされていた。そこで、男は言う。

『私を足が遅いと笑うのなら、私と勝負しようじゃないか。明日の日の出を合図に、先にあの山の頂上に着いた方の勝ちだ』

 村の者はその夜、一足早い祝勝会を酒場で開く。その間、足の遅い男は粛々と日の出を待った。明くる日、村の者は二日酔いで思うように歩けず、結果、男が勝った。


 帝国に古来より伝わる童謡である。


 魔王は最後まで静かに聴き、曲が終わるとこんなことを言った。


『おー。良い曲だったなあ。……うーん。なんだかウサギと亀みたいな話だな。……あの話もそうだけど、なーんか納得いかないんだよなあ。足の遅い男は無策のまま村の者と勝負したわけだろ? 本来なら勝ち目のない勝負なのだから、それなりの努力をするとか、一服盛るくらいの工夫がないと。村の人が酒場に行ったのは村の人の意思なわけじゃん? それじゃあ、ただ男がラッキーだっただけじゃないか?』


 この時の私は、人生で最も呆けた顔をしていたことだろう。


 ウサギと亀などという話を私は聞いたことがなかったが、まさかこの手の童謡に現実的な目線を向けるとは思ってもみなかったからである。


 魔王は『イズリーやハティナはこういったものを気にいるだろうか?』なんてことをニコに訪ねたが、ニコは静かに首を振って答えた。


『愚かなわたくしめには、測りかねます』


 それを聞いて、魔王はにべもなく『二人には今度聞いてみるか。でも、ウチには要らないなあ。僕、お抱え詩人みたいな、そーゆー貴族っぽいことには疎いしなあ……』と呟いた。


 結果として、私がお抱え詩人としてグリムリープ家に雇われることはなかった。


 しかし魔王シャルル・グリムリープはニコに、私に何か仕事を斡旋するように指示したらしい。


 魔王の鶴の一声により、私は魔王の尖兵ベリアル専属の吟遊詩人として雇い入れられた。


 魔王の尖兵ベリアルの活躍、あるいは悪行を脚色して歌にし、王都の酒場で歌うのだ。


 元々飛ぶ鳥を落とす勢いであった魔王の尖兵ベリアルは私の歌、すなわちプロパガンダの力もあり、王国で急成長を遂げる。


 私は魔王の情報を注意深く探りつつ、ニコの仕事の多くに立ち会い、それを毎月帝国からの密偵の男に報告した。


 表ではニコの忠実な部下として、裏では帝国の密偵として、私は情報を操っていた。


 私の中に、他者を騙して出し抜くことに、何ら感情の昂りが無かったと言えば嘘になる。


 私は楽しんでいたのだ、自身の歪な立ち位置を。


 私はニコの仕事を見るにつけ、徐々に彼女の異常さに気付いていった。


 優秀過ぎるのである。


 まるで未来を予知するかのような知謀に、悪辣な犯罪者を束ね自身と主人の狂信者に変えるカリスマ、そして何より、その万夫不当の如き圧倒的な武力。


 私は彼女の力によって庇護されることで、ある種の全能感を覚えていた。


 ニコの仕事の数々は、私にとってどれも印象深いものであった。


 中でも、名のある犯罪者を魔王の尖兵ベリアルに勧誘する際のことは私の記憶にこびりついて離れない。


 ある日の夜、ニコは私を呼び出して言った。


『これから捕物があります。相手はそこそこの手練れのようですから、わたくしとムウちゃんが出向くことにします。あなたが魔王の尖兵ベリアルの新たな英雄譚を創るためのヒントにもなるでしょうし、付いて来てください』


 私はそれまでニコという少女が戦う姿を見たことがなかった。


 しかし、私はニコなる少女の強さを確信していた。


 魔王の尖兵ベリアルで最も強い傭兵であるムウチャンなるメイド姿のダークエルフが、ニコの言うことだけは素直に聞くのだ。


 テツタンバリン氏ですら持て余すその力を、盲目の少女が御している。


 その事実だけで、私がニコなる少女に秘められる他に抜きん出るほどの強さを確信するに何ら不思議はなかっただろう。


 その日は満月の夜だった。


 ニコは私とムウチャンを連れて屋敷を出たかと思うと、まるで何かに導かれるように御者に指示を出して王都の商業区へと馬車を走らせた。


 商業区の入り口に馬車の御者を待たせたニコは、迷う素振りすら見せずに夜の街を歩く。


 すぐに、一人の男の元へと辿り着いた。


 男は痩身。


 身体中に、歪で雑な縫い跡があった。


 ボサボサに伸びた髪に、真っ黒な装束。


 男の持つ全ての要素が、不吉そのものだった。


 男を見て、ニコは言う。


『あなたがゲナハですね?』


 男は答えた。


『ほお? 私をご存知ですか。……はて。以前、治療こわしたことがありましたかな?』


 後に聞いた話では、このゲナハと言う男は外科医として天性の才覚を宿していたが、天才ゆえの破綻か、あるいは神の悪戯か、夜な夜な出歩いては麻酔を施すことなく通行人に手術を施す死の外科医であった。


 そして昨晩、彼は魔王の尖兵ベリアルでもかなりの腕利きであった傭兵を襲い、周りにいた護衛諸共、治療したのだ。


 側から見れば、それは治療と言うより拷問に近い行いだったであろうが。


『わたくしの配下が、昨晩あなたに襲われたそうです。わたくしの配下とは言え、元は下劣な咎人とがびと。彼らが死のうが生きようがわたくしには瑣末な問題です。……が、あなたが襲った相手は魔王の尖兵ベリアルの構成員。つまり、あなたは我が主人である魔王様の所有物に手を出したわけです』


 ニコは淡々と語った。


 男はそれを聞いても、特に何も思うことはなかったらしく『それが、私とどんな関係が? 昨晩の彼らの病は、ちゃんと治したはずですが?』と答える。


 それに対してニコはただ一言、こう言い放つ。


『わたくし……怒っていますよ?』


 見えない目を見開いた少女が纏う気配が変わったのが、戦闘など経験したこともない私にもわかった。


 私は彼女の周りに、暗くおぞましい冷気のようなものが立ち込めるような錯覚にとらわれる。


 今ならばわかる、あれは、そう、まさしく死の気配であった。


 私はその圧力に、呼吸すら忘れるほどであった。


 すぐに、戦闘が始まった。


 ゲナハは袖口から何本ものメスを取り出し、ニコに襲いかかる。


 ニコは動じることもなく、いや、この表現は正確ではない。


 正確には、その場から一歩も動くことなく、ゲナハが振り下ろした左腕をその小さな右手で掴んでいた。


『もう一度言います。わたくし、怒っているんです』


 ボキッ。


 と、まるで馬車に轢かれた太い枝が折れるような音が夜の街に響き、ゲナハは呻き声を上げて全てのメスを落とした。


 そしてゲナハのメスの切先が地面に刺さり甲高い金属音を奏でた次の瞬間、ニコの左の拳がゲナハの腹部を捉えていた。


 勝負の決着は一瞬でついた。


 ゲナハは地に崩れ、泡を吹いて悶えていた。


 恥ずかしながらこの時、私は股間を濡らしていた。


 王国最強とまで呼ばれる傭兵団の腕利きを数人、たった一人で倒しているのがゲナハである。


 そのゲナハなる強者を、目の前の少女は瞬きのうちに退けたのだ。


 私はニコを酷く恐れた。


 そんな私など視界に入らないかのように、ニコはムウチャンに言った。


『ムウちゃん。この男、懲らしめてあげなさい』


 そんなニコの言葉に、ムウチャンは『むうー?』などと気の抜けた声を上げる。


 ムウチャンなるダークエルフは、口を革紐で縫われており、およそ人の言葉を発することがない。


 それでも、ニコはムウチャンに向けてこんなことを言った。


『ふふふ。わたくしもそうしたいところではありますが、殺してはいけません。その男の技術は主さまのお役に立つでしょう。死ぬ寸前のところまでで結構です。その男は既に、主さまの所有物ですからね』


 ニコが言葉を持たないダークエルフと意思の疎通が取れていることにも驚いたが、これほど凶悪な男を仲間に引き入れようとしていることに、私は度肝を抜かれた。


 こうして、ゲナハはムウチャンの拳による裁きを受けた。


 ゲナハは魔王の尖兵ベリアルに取り込まれる形で、ニコに絶対の忠誠を誓うことになる。


 噂によると、ゲナハはダークエルフのムウチャンから過度な暴行を受けた後、彼女を恋慕うようになったそうだ。


 全く、強者という生き物は私たちの考えを遥かに上回るものである。


 とにかく、この一件は私がニコの強大さの一端に初めて触れた瞬間である。




 ニコはミリア・ワンスブルーという女魔導師と頻繁に会っていた。


 私が彼女たちの会話を直接聞いた機会は少ない。


 しかし私は、彼女たちが何やら数日おきに密談を交わしていたことを把握していた。


 場所は決まって、商業区にある古びた倉庫である。


 ここは以前、とある奴隷商が商品の奴隷たちを競りにかける闇市のような場所であった。


 それを魔王の尖兵ベリアルが強襲し、今では彼らの詰所のようになっている。


 魔王の尖兵ベリアルのプロパガンダのために働いていた私も、ここには頻繁に出入りしていた。


 ある日、ミリア・ワンスブルーが一人の男を連れて来た。


 女神信仰の司祭の服を着た男である。


 男が身に纏う白に金の装飾を施された祭服は、血糊で茶色く変色していた。


 両手に枷を嵌められた男の顔には、大きな火傷の跡があった。


『ニコ、あなたには以前お話ししましたが、この男が先日の任務で捕らえた者ですわ。なかなか見所のある男ですので、あなたの組織に入れてはいかがかしら。それからついでに、黒の十字架サタニズムにも入れることにしましたの。しかしながらこの男、すこぶる強情ですのよ。あなたの力でご主人様の偉大さをわからせてあげて欲しいのですわ』


 ミリア・ワンスブルーはそう言って、男の鎖を引っ張ってニコの前に引き立てる。


『ミリアさま、毎日のように面倒事を持ち込まれるのは困ります』


 ニコはツンとした様子で言うが、ミリア・ワンスブルーは意にも介さず答える。


「あらあら、まあまあ、随分な言われようですわね? まあ、聞かなかったことにしましょう。それよりこの男、かなりの強者ですわよ? 私もうっかり死にかけるほどでした』


 男は沈黙したまま俯き、一言も言葉を発しない。


 男の名はマーライン。


 私が調べたところ、この男は元々女神信仰の司祭であった。


 傭兵から司祭へと転職したという変わった経歴の持ち主であったが、自身の受け持った教会が火事で全焼し、彼は女神信仰を捨てた。


 代わりに、彼は女神信仰の教会を次々に襲う破戒僧へと成り下がった。


 彼による被害を重く見た王国がマーライン討伐にミリア・ワンスブルーを向かわせ、彼女は見事にマーラインを打ち破った。


 しかし、先日マーラインが牢獄を脱走したという話を、私は王都の広場に設置された王報を通して知っていた。


 そのマーラインが何故ミリア・ワンスブルーと共にいるのか、私には大いに謎だった。


『ミリアさま、脱走の手引きの次はこの者の懐柔までわたくしにやらせるおつもりですか?』


 どうやらマーラインの脱走の裏側には、ニコの手伝いがあったらしい。


 ニコの言葉に、ミリア・ワンスブルーは答える。


『うふふ。私もタダであなたを働かせようとは思っておりませんわ。私もワンスブルーの末席に身を置く者、ちゃんと報酬も用意しておりますの。……こちらですわ』


 ミリア・ワンスブルーは何やら布切れのような物を懐から取り出し、ニコの前に広げる。


 ニコはそれを手に取り、目を見開いた。


『こ……これは、まさか……? ど、どこでこの聖遺物を……』


 ミリア・ワンスブルーからニコが受け取った布切れは、どうやら子供服のようだった。


 貴族の幼な子が着るような、古びてはいるものの値の張りそうな良い仕立てのシャツだ。


『うふふ。私を侮ってはいけません。それは、私のコレクションの中でも最上位に位置する代物。……ご主人様がまだ六つの頃にお召しになっていたシャツですわ。袖口の穴は、ご主人様が魔法の修行の際に破いてしまわれたそうですわね』


『……こ、これをどちらで?』


『うふふ。黒の十字架サタニズムの情報網は、あなたの魔王の尖兵ベリアルに並ぶとも劣らないということですわね』


『どうりで……。いくら探しても見つからないわけです。ミリアさまが所有していたなんて……』


『あなたの知らない、ご主人様がまだ幼い頃の香り。それがあなたの物になるかどうかは──』


『やりましょう。その男の枷を外して下さい。わたくしが神の御威光をご覧に入れましょう』


 この時の私の気持ちを、何と形容すれば良いだろうか。


 私にも吟遊詩人としての矜持、あるいはプライドのようなもがある。


 詩人として、言葉を失うなどということは自らの存在そのものの否定にも近い。


 しかし、この瞬間の私はまさしく言葉を持たなかった。


 マーラインとは、泣く子も黙るほどの犯罪者であり、無慈悲の代名詞のような男である。


 ミリア・ワンスブルーに討伐されるまで、彼は王国各地を流浪し次々に教会を襲い、王国内では無慙むざんのマーラインと呼ばれ恐れられてきたほどの極悪人だ。


 彼にかけられた懸賞額は金貨2500枚。


 当時の王国で最高額の賞金首である。


 それほど危険な男の処遇を巡って、この少女たちはぼろぼろの子供服を取り引きのダシにしているのである。


 魔王の尖兵ベリアルの管理下にある古びた倉庫で、王国で最も危険な男の枷が取られた。


 そこに至って初めて男は口を開く。


『……私に自由を与えて、自らの未来が無事であると考えたのか? ……傲慢な少女だ。……ミリア・ワンスブルー。……私が貴様に敗北したのは、貴様のちゃちな策略ゆえ。……この場では、もうあのような罠は使えまい。……貴様ら全員、我が苦痛の贄としてやろう』


 私はもう、この時点で漏らしていた。


 マーラインの鋭い眼光の奥に、烈火の如き憎しみを見たからだ。


 しかし、私の目の前の二人の少女は違った。


『あらあら、まあまあ、随分とご機嫌ですこと。マーライン、私とあなたでは確かにあなたに分がありますが、今あなたが目の前にしているのは背徳の魔女ニコ。魔王の尖兵ベリアルを司る血塗れの乙女ですわよ? その強さは、悔しいことではありますが私では到底及びません。……そうそう、私があなたをハメたあの罠。あれも、ここにいるニコが考えたものなのです』


『マーラインさん。わたくしには絶対の神がいます。迷える仔羊であるあなたに、本当の神の力の一端をお見せしましょう。そして、あなたは近い将来、本当の神に使えることになるでしょう』


 ニコは昏い両目を見開いた。


『……神。神だと……? 神など、この世にいるものか。神がいるなら何故、私にあのような過酷を強いたのだ。女神信仰などと言う邪教も、貴様の言う邪神も、まとめて私が滅ぼしてくれる。……この痛み、この苦しみ、この恨み。……我が過酷の全てを、私は否定する──』


 次の瞬間、マーラインから理性というものがストンと抜け落ちたことを、私は感じ取った。


『ぎゃああああああああああああ!』


 マーラインの絶叫が廃倉庫にこだまする。


 マーラインは両手にドロドロとした黒いオーラを纏った。


 魔法など知らない私にも、はっきりと知覚できるオーラ。


 無慈悲の合掌ルースレスパームという、マーラインの必殺のスキルだそうだ。


 この手に掴まれれば、たちまちそれは朽ちて滅びるらしい。


 触れた対象を腐らせるスキル。


 それは人体どころか、武器や鎧のような金属の類にも効力を及ぼすらしく、マーラインに掴まれた剣は錆びて使い物にならなくなるそうだ。


 マーラインは腐食の魔力を両手に宿し、迷わずニコに飛びかかる。


 ニコはそれを、踊るように回避する。


 私は戦闘でニコが攻撃を躱す姿を初めて見たが、まるで地面を滑るようなステップでマーラインの攻撃を紙一重で避けるのだ。


 マーラインは猛獣のように雄々しく咆哮し、尚もニコに猛攻を仕掛ける。


 私のような弱者では、ニコの動きが人智を遥かに超えたものだということがわかる程度でしかない。


 それでも、彼女がマーラインの動きを完全に読み切り、その上で彼ほどの強者を余裕で弄んでいることが伝わってきた。


 とは言え、相手は無慙のマーライン。


 マーラインの無慈悲の合掌ルースレスパームに掴まれれば、ニコと言えどもタダでは済まないだろう。


 一方、ニコはゲナハの腕を片手でへし折るほどの圧倒的な握力を持っている。


 一撃必殺。


 互いが互いに、一撃の元に勝負を決する力を持つ。


 私は股のあたりに冷たい感触を覚えたまま、二人の強者の戦いに酔いしれた。



『さて、そろそろ──』


 ニコは口元を綻ばせて言った。


 一転して、守勢に回っていたニコが押し返す。


 構わず飛び込むマーラインの出足に、ニコが合わせる。


 マーラインが距離を詰めるために出した一歩目の足に、ニコが自分の足の裏を当てた。


 こつりと、ニコの革靴の底がマーラインの脛に当たって音を出す。


 マーラインはバランスを崩しながらも、左手をニコの喉元に伸ばす。


 しかし、マーラインに対して機先を制したニコは相手の懐に入るように身体を密着させる形でその手を躱す。


『──強いの、いきますよ』


 ニコはマーラインに向けて呟く。


 振り抜いたニコの左手が、マーラインの腹部に突き刺さり、彼は後方に飛ばされた。


 それから一瞬遅れて、まるで丸太がへし折れるような音が響く。


『ぐうう!』


 マーラインはかろうじて、右腕でニコの強烈な一撃を防いでいた。


 その証拠に、マーラインの右腕の肘から先が逆の方向にねじ曲がっている。


『今のを防ぐとは、聞きしに勝る剛の者ですね。……さて、そろそろ仕上げと参りましょう。あ、腕は治して頂いてよろしいですよ。万全な状態でないと、主さまのお力を示すことになりませんから』


 聞きしに勝る剛の者などとニコは言うが、私から見れば大人と子供の戦いだ。


 マーラインは自らの腕をスキルで治癒し、ニコに向き直る。


 極悪非道の男から、すでに闘志は失われていた。


 捕食者に襲われた、被捕食者。


 ウサギの獣人に睨まれた、稀代の極悪人。


 この構図だけを見れば、捕食者の側はマーラインに見える。


 しかし、実態は真逆なのだ。


 私の目に映るマーラインは、ただ食われるのを待つ小動物のようなか弱さを思わせる。


 それに対してニコは、まるで神が産み落とした暴力の化身。


 心の折れたマーラインに向けて、ニコは言葉を放つ。


『最初に説明しておきますが、今からわたくしが繰り出す技は我が故郷に伝わる秘技。……眠兎みんとと呼ばれる体術です。鉄が貴重だったわたくしの故郷で、武器を持てない獣人が己の拳を武器に見立てるために編み出した技──』


 そう言って、ニコは右手の人差し指を立ててマーラインに見せる。


『──指一本、威拳いけんは釘打つための拳』


 ニコがゆっくり、ジリジリとマーラインに詰め寄る。


 そうしながら、彼女は人差し指に加えて中指、薬指と順番に指を立て、眠兎と呼ばれる体術の特性を語る。


『──指二本、茨拳じけんは肉を斬るための拳。指三本、斬拳ざんけんくびきるための拳。指四本、死拳しけんは命を断つための拳。指五本は兒拳ごけん、これは……知らない方が幸せです』


 ニコが右手の指全てを開いてマーラインに見せる頃には、彼女はすでに彼の目と鼻の先にいた。


 ニコは昏い瞳を喜色に染め、その美貌に似つかわしくないほどの邪悪な笑みをたたえる。

 

『まずは一本』


 ニコは右手の人差し指を立てた状態で、マーラインを突いた。


 マーラインの回避行動も虚しく、ニコの人差し指がマーラインの左肩に突き刺さる。


 人体を指で貫いた。


 まるで当たり前のように。


 紙に指で穴を開けるような気安さで。


『二本目』


 ニコは人差し指と中指を立て、マーラインを切りつけた。


 これは、決して比喩などではない。


 彼女は文字通り、マーラインを袈裟斬りにした。


 男から噴き出る血を浴びて、悪徳の魔女は身体を震わせる。


『……ああ、生温かい鮮血。なんと、心地よいのでしょう』


 ニコが薬指を立て、マーラインに三本の指を向けたその時、男の口から疑問が溢れた。


『ごほっ……な……何故だ?』


『……』


 ニコは男の次の言葉を待つように、沈黙を保つ。


『……何故、貴様ほどの強者が他者に飼われている? その気になれば、この国などその力で平げられように……』


 男の疑問に、ニコは答える。


『わたくしは他人の考えていることをある程度読むことができます。……そんなわたくしだからこそ、わかるのです。……主さまは死を恐れておりません。そればかりか、まるで生来の友のように、自らとその死を結びつけておられます。……わたくしの考えが正しければ、主さまは一度死んでおられるのです』


『……死せる生者だと、あるいは生ける亡者だと。……そう言いたいのか?』


 マーラインはその顔に驚愕を浮かべる。


 ニコほどの強者が、このような場で嘘を言うとも思えなかったからだろう。


 私もそうだ。


 私も、ニコの言葉が嘘ではないと本能的に理解した。


 だからこそ、この時私は重要な言葉を聞き逃した。


 いや、聞いてはいたが、考えが回らなかった。


 ニコの言った言葉。


 他者の考えを読むという、彼女の言葉を。


『ふふふ。その言いようはわたくしの本意ではありませんが、つまり……そう、我が主人はこの世で唯お一人、死を超克なされたお方なのです』


 笑ったニコから、さっきまでの邪気は感じなかった。


 代わりに私が感じたのは、憧憬。


 彼女はまるで恋する少女のように、屈託なく笑う。

 

 ニコほどの人物を従えるカリスマ。


 その持ち主が魔王。


 私の中で全てが繋がった瞬間だった。


 南方の魔王は、魔物と呼ばれる異形を従えて世界の半分を滅ぼした。


 北方の魔王は、この悪徳の魔女を従えて世界のもう半分を牛耳るのだろう。


 まるで固く噛み合った歯車のように、二人は結びついた。


 いや、まるで世界が何らかの意思を持ったように、二人を結びつけた。


 魔王と魔女。


 二人は出会うべくして出会い、主従の契りを交わした。


 私はそこに、変えようのない世界の意思を感じたのだ。


 マーラインは言った。


『……我が神は、現世うつしよにおられたのか』


 王国で殺戮と暴虐の限りを尽くした男が、本人の預かり知らぬところで、魔王に屈服した瞬間であった。


 二人の戦いの終わりを悟ったのだろう、ミリア・ワンスブルーが口を開く。


『ニコ。あなた、マーラインを本気で殺そうとしてましたわね? ……と言うか、すでに死にそうですけれど』


 ミリア・ワンスブルーは呆れたようにニコを見る。


『ええ、ミリアさま。主さまに服従しない愚物など、この世に存在してよいはずがありませんから。……この男は死にかけですけど、近頃配下に加えた男に医術の心得を持つ者がおります。その男に治療させましょう。……治せなければ、あの者も殺すだけです』


『全く、相変わらず無茶苦茶ですわね。約束のこのシャツは、いつものように私の部下の者に届けさせますわね。今のあなた、返り血でベトベトですし』


『よろしくお願いします。……はぁ、楽しみです。今日中にお願いしますね? 絶対ですよ?』


『わかりましたわ。……そう言えばニコ、もしこの男を殺していた場合、報酬のシャツをどうするつもりでいましたの? 私とあなたの契約では、この男を仲間にしたらと言う話だったはずですわよね?』


『ふふふ。先程も言いましたが、わたくしはある程度他人の心や考えが読めるのです。例えこの男を殺しても、ミリアさまはわたくしにシャツを渡していました。……これから先のことを考えればわたくしとは敵対しない方が得だと、ミリアさまは考えておられますから』


『……全く、気に入りませんわね。まだあなたの姉の犬っころの方が可愛げがありますわよ』


『ふふふ。褒め言葉と捉えておきましょう』

 


 私は彼女たちの会話を聞いて、彼女たちの話題に自分が出てこないことを幸せに思った。


『そう言えば、ニコ。ご主人様の死生観についてですが、確かにご主人様はご自分のお命を……何といいましょう、こう、軽くお考えになっている節があるのは分かります。ですが、一度死を経験なさっておられるというのは、一体どういうことですの?』


『ミリアさま、主さまはご自身のお命に関することをお考えになる時、必ず一つの思考を辿るのです。それは、自分は一度死んでいる。演武祭の帰路で襲われた時も、主さまは同じような考えをなさっておいででした。……あのようにご自身のお命を考えるお方には、わたくしお会いしたことがございません。人は自身の死を感じた時、必ず恐怖するものです。それは、死を経験したことがないからです。死後、自分はどうなるのか。残した人間はどうなるのか。……人は死の先を考えることで死に恐怖するのです。しかし……』


『ご主人様には、それが無い』


『ええ。ですから、おそらく主さまは死の先を知っておいでです。死の向こう側を知っているからこそ、主さまは自らのお命より貴き場所に、愛すべき人の命を置いておられるのです』


『それはつまり、ご主人様には……前世、とでも言うのでしょうか、その記憶があると?』


『……そればかりは、直接お伺いをたてなければわかりません。しかし、主さまは死という概念を超越した場所におられることだけは確かです』


『……なるほど。私が目指すべき場所は、そこでしたか』


『ふふふ。あそこはイズリーさまとハティナさまの特等席。わたくしたちでは、入る隙間はございません』


 それから、彼女たちは如何に魔王シャルル・グリムリープが偉大かという話題で盛り上がった。


 彼女たちの言う、魔王が死を超克しているという話題には少しだけ興味を持ったが、私はそんなことよりも、虫の息で地面に這いつくばるマーラインをこれから命懸けで治療する羽目になってしまったゲナハ氏の冥福を祈ることにした。


 今にして思えば、私はまたもニコの口から出た重要な言葉を聞き逃していた。


 彼女が本当に他人の考えを読めるのであれば、私の素性など……。


 あの時、なぜ私は自分だけは大丈夫だなどと考えたのだろうか。


 私は過去の自分の愚かさを恨む。



 次の日、ゲナハ氏の必死の治療の甲斐あり、マーライン氏は一命を取り留めた。




 私に死刑宣告が下ったのは、それから一月ほど経ったある日の晩のことである。


 その日、帝国からの密偵の男は約束の時間になっても現れなかった。


 仕方なくその日の接触は諦め、自室で魔王の尖兵ベリアルのプロパガンダのために新しい曲を書いていた私は、ニコに呼び出された。


 何事かと訝しんでいた私に、ニコは言った。


『昨夜、王国で魔王の尖兵ベリアルに対抗していた最後の組織が潰れました。……彼らは見せしめとして、全員舌を抜いて吊るしました』


 この時の私は、それが自らの未来にどんな関係があるのか知るよしもなかった。


 そんな私は、呑気にニコに向けて『おめでとうございます。これで、王国での魔王の尖兵ベリアルに敵はいなくなったということですね』なんてことを述べた。


 今思えば、阿呆も良いところである。


 ニコは言う。


『ええ。ですから、もうあなたのプロパガンダも必要ありません。わたくしたちに対抗する勢力が排除された以上、我々の恐怖はこれから否応なく万人に浸透していくでしょうから』


 私はいきなりのニコの言葉に、思考が凍ったように停止する。


『そうそう、それから、あなたと帝国との伝令役だった男ですが、すでに殺してあります。……と言うより、最初からあなたが伝令役だと思い込んであれこれ情報を流していた男は、そもそもわたくしが用意した替え玉。本当の間者はあなたがリーズヘヴンの地を踏む前に既に消しておりました』


 ニコが何を言っているのか、私には理解が及ばなかった。

 

『……替え玉の男も任務とは言え魔王の尖兵ベリアルと主さまの情報を深く知ってしまいましたから、わたくしの配下の一人ではありましたが念には念を入れて処理したのです』


 この時、私は何かを考えるどころか、何の反応も返すことができなかった。


 彼女の言葉を否定することも、ましてや、言い訳をすることも。


 彼女はただ機械的に、確定した事実だけを私に突きつけたのだが、私はすでに何かを考えるほどの余裕を失っていた。



 私は月に一度、帝国の密偵に魔王の尖兵ベリアルとシャルル・グリムリープに関する情報を密告していた。


 最初に彼と接近したのは、王都に着いたその日のこと。


 本当に彼が替え玉だったとするならば、私が王都に着いたその時すでに、本物の伝令役は亡き者にされていた。


 つまり、私が王都に来て初めて会った伝令役を名乗る男こそ、ニコの用意した替え玉だったわけなのだから、私の運命はこの国に来た最初の夜、否、帝国から王国に向かっている時から定まっていたことになる。


 悪徳の魔女。


 背徳の令嬢。


 血塗れの乙女。


 私には彼女にまつわる二つ名が、まるで彼女には相応しくない陳腐なものに感じられた。


 目の前で私に死刑を宣告するこの少女は、そんな小さな存在では決してない。


『初めてお会いした時、わたくしはヒントを差し上げていたんですよ? アレに気付いていれば、あなたの将来がこうなることはなかったでしょうに』


 ニコに会った時のことは覚えている。


 今の今まで、人生で最良の日だったからだ。


 あの時、彼女はこう言った。


『吟遊詩人の方ですか。……なるほど。我が主人が詩人に興味を持つかはさておき、あなたの立場は我が主人のお役に立つでしょう。よろしければ、我が主人に紹介させてください』


 そうだ。


 彼女は確かにそう言った。


『あなたの立場は我が主人のお役に立つでしょう』


 立場。


 私の詩人としての能力あるいは存在ではなく、立場。


 私が帝国からの密偵であるという……立場。

 

 あの時、気付くべきだったのだ。


 そして、祖国など裏切って心底から彼女に着くべきだったのだ。


 絶望する私は、ニコに向けてこんなことを聞いた。


『……わ、わ、私は……こ、殺されるのでしょうか?』


 私の質問は、情け無いものだろうか。


 例えばこの話を聞いた者がいたとして、その中には今の私を臆病者だと嘲笑う者もいるだろう。


 だが、その者たちは知らないのだ。


 本当の恐怖を。


 本物の怪物を。


 ニコは私にこう答えた。


『近いうちに、必ず』


 その一言だけで、私には充分だった。


 私を狂わせるのに、その言葉は充分過ぎるほどの一撃であった。


 崩壊を始める私の精神を他所に、続けてニコは言う。


『そうそう、主さまが仰っておりました。あなたの歌に、主さまの想い人であらせられるイズリーさまがご興味を示されたとか。……ふふふ、良かったですね。もしもあなたがイズリーさまのお抱えとなれば、わたくしも手を出すことができません。イズリーさまは主さまにとって最も尊きお方。イズリーさまが悲しむようなことは、わたくしには絶対にできませんから……』


 不意に訪れた光明だった。


 まさか、最後の最後で魔王に救われるとは思ってもみなかったからだ。


 私はこの時、自身が生き残ることがあれば必ず魔王に忠義を誓い、彼を神と崇める黒の十字架サタニズムと呼ばれる宗教に改宗することを誓った。


 だが、ことここに至っては思う。


 ニコは私に救いを齎すためにそんなことを言ったのではない。


 あのお方は私に救いの光を見せることで、私が精神を壊し狂うことすら許さなかっただけなのだ。


 きっと、イズリー・トークディアに私への興味を持たせたこと、それすら私を狂わせないことへの布石。


 狂ってしまえば、楽になれる。


 自身が壊れてしまえれば、死を恐れずに済む。


 彼女はそれを許さなかったのだ。


 助かる道を示して、それに縋らせる。


 そうして、私に正常な精神を保たせたのだ。


 より私を痛めつけるために。


 私に確かな苦痛を与えるために。


 絶望を肌で感じる時間を与え、本当の恐怖をこの身に刻むための下拵え。

 



 そして、私にとって運命の日。


 つい先程のことである。


 私は魔王シャルル・グリムリープの邸宅に呼び出された。


 シャルル・グリムリープの自室には、まるで天女のような美しさを持つ双子の少女がいた。


 金髪と銀髪。


 私の命を一時的に救ったイズリー・トークディアとその姉、ハティナ・トークディアである。


 双子は不思議そうに私を見ていた。


 イズリー・トークディアは私に期待の目を向けてから、シャルル・グリムリープとハティナ・トークディアに向けて言った。


『どんな歌だろね? 楽しみだねえ』


 それに対して、ハティナ・トークディアは沈黙を保ったまま眠たげな目を私に向け、シャルル・グリムリープは『イズリー、曲の間は大人しくしてるんだぞ?』なんてことを言った。



 私は頭の中に楽譜を広げる。


 今まで私が書き溜めてきた、千を超える曲の数々を思い浮かべ、そして目の前の少女に相応しい、否、目の前の少女の興味を惹くであろう曲を選ぶ。


 そして、私は人生を決定付ける決断を下す。


 私はゆっくりとリュートを鳴らした。


 このリュートは私が吟遊詩人を目指してから、二十年余りを共にした自慢の相棒である。


 私のリュートは数多の夜の街に感動を齎してきた。


 時に歓喜を、時に感涙を。


 私は決意する。


 私は信じる。


 物語の力を。


 私は武力を持たないが、代わりに観衆の心を動かす力を持っているのだ。


 このリュートを武器に、私は自らを守る。


 夜の街を彩る物語の力で、私は生き残る。


 私はリュートを繊細に、優しく奏でる。


 私のリュートから、儚げなメロディが流れる。


 スローテンポの曲に込める、月と星のイメージ。


 相手は少女。


 やはりこの年頃の少女は、熱い恋愛に強く惹かれるものだ。


 酒場の男たちが熱狂するような、英雄譚を選ぶは愚策。


 私が自身の命を賭けた歌は、ロマンチックな淡い恋愛歌。


 この名曲で、少女の心を揺さぶる。


 歌い出しから勝負は始まる。


 私の鍛えた美声で、目の前の少女の心を鷲掴みにするのだ。


 もうすぐ前奏が終わる。


 舞台は整えた。


 この歌い出しに、私の人生の全てを賭ける。


 私は深く息を入れ、手元のリュートからイズリー・トークディアに目線を移す。

 

 金髪の乙女が私の瞳に映ったその時、私は目の前の光景に驚愕した。


 少女が目を閉じている。


 私の歌に聴き惚れているわけではない。


 私の救い人になるはずの金髪の乙女は、眠っていたのだ。


 コクリ、コクリと船を漕ぐ金髪の少女。


 さっきまで、あんなにも高いテンションで私の演奏を楽しみにしていた少女がすでに居眠りをしている。


 私は頭の中が真っ白になる。


 あれほど歌い込んできた歌詞が頭の中から風に吹かれた砂のように消えてなくなる。


 

 銀髪のハティナ・トークディアはそんな私の様子に初めて感情を込めた目線を向けた。


 驚きの視線である。


 目の前の吟遊詩人が、歌詞をすっかり忘れているのだ。


 さぞ珍しい光景であっただろう。


 魔王シャルル・グリムリープはと言うと、特に何の違和感にも気付いていないように思える。


 部屋にはリュートが鳴らすメロディだけが流れる。


 私は心にドロドロとした恐怖をたたえながら、ニコを見る。




 彼女は静かに眼を開き、昏く深い瞳に私を映して口を綻ばせた。


 彼女の持つ天使のような美貌にはあまりにも似つかわしくない悪魔のような微笑み。



 ──あなたはもう、終わりなのです。



 私にそう告げるような、凄惨な笑顔。




 私は今までの人生で最も精彩を欠いた演奏を終えた。


 魔王シャルル・グリムリープの拍手が、耳の奥に聞こえる。


『いやー、すごいなぁ。リュート? って言うの? その楽器、難しそうだけどあんな綺麗なメロディが弾けるんだなあ。やっぱプロはすげーや』


 魔王の賞賛など、今の私の心には虚しく響くだけ。


 むしろ、私にとっては皮肉にしか聞こえない。


 遅れて、ハティナ嬢の小さな拍手がポツリポツリと私に届く。


『……』


 結局、彼女は一言も発さなかった。


 そして、イズリー・トークディアは演奏が終わってからやっと目を覚ました。


『……?』


 辺りを見回し、彼女は言った。


『なんか、思ってたのと違ったねえ』


 イズリー・トークディアは魔王シャルル・グリムリープに小声で『こら! 失礼でしょ!』などと叱られていた。


 絶望に硬直していた私に、ニコが言葉をかける。


『ご苦労でした。……あなたは退室なさい』


 


 そして今、私はこのメモを書いている。


 私は今夜にでもあのお方に殺されるに違いない。


 果たして、どんな苦痛が私を待っているのだろうか。


 私は己の全てを諦めつつも、どうか安らかな死を望んでいる。


 しかし、それは無理な願いだろう。


 私は狂うことすら出来ず、恐怖という見えない鞭が私の胸を強烈に痛めつける。


 

 もう時間もない。


 ここの辺りでペンを置き、私はこれまでの自分の人生に向き直ろうと思う。


 そうでなければ、私はこれから訪れるであろう責苦の恐怖に抗うことができないからだ。


 それしか、私が安息を得られる術はない。


 どうか、私のこのメモを見つけた貴方に頼みたい。


 このメモを、帝国の民に届けて欲しい。


 私の最期の望みである。


 この世に神がいるのなら、どうか最期まで報われることのなかった私の願いを聞き届け給え。


 少なくとも、どうかこのメモがあのお方の手に渡ることがないように。



 

 まずい。


 ノックの音が聞こえる。


 私を呼び出すニコの声だ。


 このメモはこの部屋に隠す他ない。


 私が出会った悪魔のような少女の存在が、帝国の民に知れ渡ることを願って。




 ──筆者不明。


 このメモは王暦442年に行われたグリムリープ邸改修工事の際に発見され、現在までリーズヘヴン王立魔導図書館に保存されている。


 このメモの発見は、メモにある日付から実に100年後のことである。

 

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