第239話 Kiss Me Baby.

 セフィロトが通算八度目の茂みへのダイブを決めた時、とうとうエルフの防人のケルビンが跪いた。


「どうか、ここらで許しては貰えませぬか。……魔王グリムリープ卿、並びに暴鬼イズリー・トークディア殿。我が愚弟に代わって謝罪致す」


「……ま、まだまだ。ケルのあにぎ、おれはまだやりぇるじぇ……」


 茂みから通算八度目の出現を迎えたセフィロトは、まるで格闘ポケモンとの戦闘を余儀なくされた結果、相手の空手チョップでボコボコに凹まされて瀕死状態になったイシツブテのような顔で言う。


 この男のタフネスと根性だけは、本当に見上げたものである。


 しかしながら、早くポケモンセンターに行くことをおススメしたい。


「お前では敵わぬ! いや、ここにいる我ら兄弟が束になっても、暴鬼殿の足元にも及ばぬだろうよ。暴鬼殿は魔導師でありながら、未だ一切の魔法もスキルも使ってはおらぬ。そればかりか、手心を加える程の余裕をお持ちなのだぞ!」


 ケルビンに一喝された瀕死のイシツブテは、すごすごと引き下がった。


 機を見て、僕は言う。


「ケルビン殿、こちらもやり過ぎた。謝罪を受けよう。道先案内、よろしく頼む。それから、早く彼をポケモンセンターに……」


「は。ありがたき幸せ。しかし、ポケ……なんですか? それは……」


 ケルビンはポケモンを知らないらしい。


 全く、これだからエルフの田舎者は。


 しかし、気になることがある。


「生命の大樹ってのはなんだ? 知恵の大樹とは違うのか?」


 僕の発言に、ハティナが答えた。


「……知恵の大樹イギュノームは北方のユグドラシル。……生命の大樹は、南方のユグドラシルのこと」


「南方のユグドラシルをカレンロウと言うのか……。あれ? しかし、そっちのエルフは五百年前に魔王に滅ぼされたんじゃなかったか?」


 エルフの歴史は古い。


 嘘か誠か、天地創生の頃。


 つまり、ユグドラシルの誕生と同時にこの地に生まれ、以来ユグドラシルを守っていたそうだ。


 五百年前に大陸南方に現れた魔王は、南方のユグドラシルに住まうエルフを滅ぼし、魔物を使役して大陸の半分を死地に変えた。


 南方のユグドラシルに住んでいた太古のエルフは五百年前に滅びたはずなのに、セフィロトが南方のユグドラシルに祖先ルーツを持つというのはどういう訳なのか。


「……先祖返りというやつ」


 ハティナが無表情のまま、ポツリと溢す。


 そんなハティナの呟きに、ケルビムは答える。


「その通りにございます。愚弟は南方のユグドラシル、カレンロウの先祖返り。五百年前に滅びたカレンロウのエルフ、今ではハイエルフや古代エルフと呼ばれる種族ですが、かつての滅亡から逃れたエルフの中にイギュノームに合流した者たちがおりました。愚弟は魔王から逃れたハイエルフを祖先に持つエルフでございますれば……」


 ハイエルフ。


 蒼髪のエルフ。


 かつて南方のユグドラシルを守っていたエルフは、そのほとんどが蒼い髪を持っていたらしい。


 カレンロウが生命の大樹と呼ばれるように、南方のユグドラシルを守っていたハイエルフは生命力に溢れ、力に秀でた種族だったそうだ。


 知恵の大樹イギュノームのエルフは莫大な魔力を、生命の大樹カレンロウのエルフは強靭な肉体を、それぞれ特徴とした別種のエルフだったわけだ。


 今ではハイエルフの血も北方のエルフと混ざり合い、生まれるエルフはほとんどが僕たちの知る北方エルフの特徴を持っている。


 しかし、稀に先祖返りをしてハイエルフが生まれことがある。


 セフィロトはその先祖返りをした、南方エルフの特徴を強くその身に宿したエルフなのだ。


 ハイエルフと言うだけあって、その耐久力は半端ではない。


 イズリーにコテンパンにされながらも、幾度も立ち上がる強い肉体、折れない闘争心。


 南方の魔王が彼らを根こそぎ滅ぼしたと聞いて、僕は戦慄を覚える。


 魔物を創り操れるとはいえ、一体どれだけ強ければ彼らを種族ごと滅ぼすことができるのか。


 そもそも、一人で世界の半分を滅ぼすなんてのは、個体としての強さを超越している。


 理不尽なまでの強さ。


 まるでしょっぱいライトノベルのチート主人公みたいな性能だ。


 どうせ転生するんだったら、僕もそっち側が良かったぜ。


 気落ちした僕が沈黙すると、モノロイがおずおずと口を開いた。


「ケルビン殿、貴殿とセフィロト殿は共にイグレーターという姓を名乗ったが、貴殿らは実の兄弟なのか?」


 ……そんなんどーだってよくね?


 僕は思うが、口には出さない。


 ケルビンは答える。


「我らは同じ妻を持っているのです。エルフは女性が極端に生まれにくい種族でありますので、一妻多夫性なのです」


 逆ハーレムか。


 ……。


 もし、ハティナに僕とは別枠で夫がいたら、僕はどんな気持ちになるだろう。


 きっと、世界を滅ぼしてでも彼女を独占する。


 僕にそこまでの力があるかどうかは別にして。


 でも、僕にはハティナとは別にイズリーとミリアがいる。


 だとしたら、彼女たちの気持ちは。


 一夫多妻はこの世界の貴族の文化だなんて、ちゃちな言い訳をして良いものなのだろうか。


 南方解放に必要だった宰相という座のために、僕は魔導四家間での婚姻政策を進めた。


 全ては世界の半分をハティナに捧げるため。


 全ては『神』との約束のため。


 目的の為に、手段を講じたつもりでいた。


 しかしそれは、結果的に目的から遠ざかっているのではないだろうか。


 僕の一番はハティナだ。


 ハティナさえいれば、それで良かったのに。


 僕の胸の内側で、真っ黒な蛇がとぐろを巻くように痛みが這いずり回る。


「主さま。全ては主さまの思いのままにございます。……わたくしと姉さまが、主さまの願いの全てを叶えます。お望みとあらば、この世界の全てを……」


 ニコが僕に言った。


 彼女に僕の気持ちは筒抜けだ。


 僕の罪悪感を、心の痛みを、彼女は敏感に感じ取って言ったのだ。


 彼女は僕が望めば、本当にこの世界すら焼き尽くしてしまうだろう。


 僕はニコにも、一抹の罪悪感を抱く。


 彼女の心の闇の部分の濃さに。


 彼女の心の昏い部分の深さに。


 ニコの『悪辣姉妹』としての側面が、そのまま僕の弱さに思えるからだ。


 

 後で、モノロイになんとなしにこんなことを言った。


『僕がハティナ、イズリー、ミリアを妻に迎えることを、当事者の三人はどう思うだろうか?』


 モノロイは全てを悟ったような顔でこう答えた。


『……相変わらず、我が主は考えすぎるところがある。少なくとも、貴族に生まれた婦女子が好いた男と契りを結べるのは、それだけで奇跡のようなもの。……しかし、我に女心は難しすぎる。本人に聞いてみるしかないのではあるまいか』



 友の言葉でも、僕の心に立ち込めた霧が晴れることはなかった。


 尽きない疑念。


 自身の心の内に蔓延る疚しさに、僕は尻尾を巻いて逃げたくなる。


 それでも、今は自分の責務を果たさなければならない。


 僕の心のドロドロはそのままに、僕たちは知恵の大樹イギュノームに向かう。



 夜。


 焚き火を囲んで食事を摂る。


 モノロイは魔物を探しに森へ入った。


 なんでも、最近では人の食べる食事を身体が受け付けなくなったらしい。


 腐肉の味がする魔物の肉の方が彼は好物らしいのだ。


 青汁を飲んだおじいちゃんが、『不味い! もう一杯!』なんて言うかのように、あの筋肉原始人は『不味い! もう一体!』なんて言いながら魔物を食べるのだろう。


 狂った野蛮人である。


 食事を終えて、ミザハとミリア、そして舌鋒のユリムエルと僕で北方諸国共栄会議での政治的な折衝を終えたあと、皆は就寝の為にそれぞれの天幕に戻った。


 夜はエルフの防人とヴァレンの戦士たちが交代で哨戒にあたる。


 半日経っても心がズキズキと痛む僕は、居ても立っても居られずにハティナのいる天幕に向かった。


 天幕の外で、僕は声をかける。


「ハティナ、いるか?」


「……いる」


 蝋燭の光が漏れる天幕の内側から、ハティナの澄み切った声が聞こえた。


 僕はおずおずとハティナの天幕に入る。


 何冊もの大きな本が散乱し、その中心でランプの中の蝋燭の火が揺れている。


 ハティナは長い銀髪を櫛でとかしていた。


 厳しい軍服は綺麗に畳んで天幕の隅に置かれている。


 薄手の白いワンピース。


 ハティナは部屋着だった。


「……どうしたの?」


 所在なく佇む僕に、ハティナは『ここに座れ』と大きな本をどかした。


 僕はさっきまで本が独占していた彼女の隣に腰掛ける。


「ハティナ……。そのう、なんだ……」


 何から話せば良いのかわからない。


 頭の良い彼女には、すでに僕の考えなんてのはお見通しなのかもしれないが。


「ハティナは、僕がミリアやイズリーと婚姻を結んだこと、どう思ってるのかと……。僕は、なんと言うか、軽い気持ちで……いや、決して君への想いが軽いというわけではないんだけど、その、何て言うか」


 ミリアとイズリーの婚姻も、半ばその場の流れで決まった節がある。


 それを彼女はどう思っているのか。


 知りたいけど、知りたくない。


 複雑な気分だ。


 ハティナは少し考えてから、やっぱり無表情で口を開く。


「……シャルルが他の女の子と恋仲になるのは……嫌だよ」


 僕は地面が崩れるような感覚になる。


 いや、むしろ逆だ。


 このまま地面が崩れて土に埋もれて誰にも気付かれないままスーっと消えて無くなってしまいたい。


 僕は自分のくるぶしの辺りを爪でぐっと抉る。


 そうでもしないと、自分を保てない気がした。


「……嫌だけど、あの二人を恨んでるわけじゃない。……イズリーは大切な妹。……彼女とわたしが一緒に幸せになれるから、シャルルが旦那さんで良かった。……ミリアも、昔は嫌いだったけど、最近は……友達……なんだと思う。……一緒にいて嫌な気はしないし……むしろ……気楽になれる」


 ハティナはポツリポツリと言葉を紡ぐ。


「……間違いなく、わたしの中にシャルルを独占したい気持ちがある。……でも、貴族に生まれて好きな人と一緒になれることなんて……滅多にないこと。……それに、わたしたちは双子だから。……わたしとイズリー、家を継がない方はトークディア派の貴族と婚姻を結ぶことになっていたと思う。……運が悪ければ、年老いた貴族の後妻に……もっと運が悪ければ、誰かの妾に」


 ──それと比べれば、この上なく幸せ。


 ハティナは言った。


 彼女の正直な気持ちなのだろう。


 僕も、正直に打ち明けようと思った。


 僕にどこまでも真っ直ぐなハティナに。


 僕も、真っ直ぐに。


「君が望むなら、二人との婚姻は──」



「……いい」


 ハティナは僕の言葉を遮った。


 そうして、彼女は珍しく何かを考えるように上を見上げる。


 動物の革でできた天幕が風に揺れた。


「……むしろ、あの二人と家族になれることは、わたしにとっては嬉しい。……シャルルを独り占めしたい気持ちはあるけど、それはそれで嬉しいの」


 僕には彼女の考えはわからなかったし、もしかすると僕に気を遣っているのかもしれない。


 僕の微妙な表情から何を思ったのか、ハティナは言った。


「……そんなことより、わたしは早く世界の半分が欲しい。……家のことはわたしに任せて。……シャルル。……あなたは何も悩まず、振り返らず、ただひたすら、わたしの唇を目指して──」


 ハティナはぐっと目線に力を入れて続けた。


「──わたしに……キスして」


 言い終わって、彼女は頬を赤らめた。


 何故、どうして。


 そんな疑問は尽きない。


 自分の気持ちも、ハティナの気持ちも、イズリーの気持ちも、ミリアの気持ちも。


 僕を縛る、この世界の文化というしがらみ


 全て振り払ってしまいたい。


 それでも彼女は、僕にキスしてと言った。


 僕は思う。


 僕が、僕こそが、永遠とわに彼女の隣にいよう。


 心の臓が止まるまで、命の輝きが消えるまで、この世界がなくなるまで、僕たちの世界がなくなるまで。


 どんな最期が待っていようと、僕はハティナの隣にいる。


 ハティナの隣で、笑っていたい。


 僕は今、本当の意味で覚悟を決めた。

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