第230話 おかえりと、ただいま。

 舞い踊る白雪。


 天に咲く虹霓こうげい


 水に燃えたつ蛍。


 そんな陳腐な言葉では、目の前に現れた銀髪の乙女の美しさを表すことはできない。


 圧倒的な美の凝縮。


 天上から舞い降りた天使が裸足で逃げ出すほどの可憐。


 僕の口から、自然と彼女の名が溢れる。


「ハティ──」


「ごおおおおしゅじんざまああああああああああ!!」


 ハティナの背後から現れたミリアが僕を遮った。


 文字通り飛び付いてきたミリアの大きな胸に、僕の口は物理的に蓋をされた。


 ニコに連れられて来たハルとフォーラが何やらヒソヒソと話しているのが聞こえた。


 きっと、同じように本陣から連れられて来たミザハも冷たい目で見てるのだろう。


「お会いしとうございました! このミリア、ご主人様にお会いできないこの数ヶ月がまるで地獄のような──」


 反射的にミリアを振り解こうとして、何とか柔らかな谷間から抜け出した僕は、はたと気づいてそれ以上の動きを止める。


 僕に抱きついたミリアの身体が、震えていた。


 彼女の大きな瞳から、大粒の涙が流れている。


 彼女とは対象的に、僕の身体は動きを止めた。


 ミリアの真心を感じたからだ。


 いつもみたいに調子の良いことを言う彼女とは違うミリアが、そこにはいた。


「……ミリア」


 僕はダメな人間だ。


 僕はダメな男である。


 そして、僕はダメな魔王。


 こんな時、彼女になんて声をかければ良いのかが、全くわからないのだから。


 僕のミリアに対する感情が、僕の内側で逆巻いてうねる。


 これまで、僕は彼女の気持ちに真っ向から向き合うことがなかったような気がする。


 そんな、男としての未熟さを僕は今、恥じている。


 イズリーやハティナに対する気持ちとは違う、別の感情。


 別物なのに、似通った感情。


 僕はミリアの紺色の髪を撫でて言う。


「……無事で良かった」


 もっと相応しい言葉があっただろうか。


 もしかしたら、あのキザったらしい勇者ギレンあたりなら、もっと適切な言葉を選べたのかもしれない。


 それでも、僕は心の底から──


「……」


 僕の銀色の天使と目が合う。


 無表情のジト目が、僕を射抜く。


 僕の心臓が急に冷静さを取り戻す。


「ハティナ……」


 僕の口から天使の名が滑り落ちる。


 僕とミリアを交互に見たハティナが、ため息を吐いてから言う。


「……シャルル、……久しぶり」


「……ハティナ、……そうだな」


 彼女は一瞬だけ、表情を柔らかにした。


 ……仕方ないなあ。


 なんて、言いたげな様子。


 まるで、ダメな子供を見る母親のような表情で。


 結果的に、僕とハティナの再会は淡白なものに終わった。


 あれだけ渇望していた彼女との再会が、あっさりと終わった僕に去来する一つの感情。


 怒りだ。


 そもそも、ハティナとこれだけ長い間離れ離れになる切っ掛けとなった皇国軍の侵攻と、それを許した獣人国の内乱。


 そもそもだ。


 僕は南方の魔王を退けてハティナとキスをしたいだけなんだ。


 それなのに、この世界の人間ときたらどうだ?


 自分たちの権益や利益を優先してそれを邪魔する。


 僕だって、自ら進んで南方の魔王と殺り合いたいわけじゃない。


 最悪、僕が死ぬまであっちの魔王とはお互い不干渉でいられるならそれでもいいんだ。


 『神』には文句を言われるだろうが……。


 僕の南方解放の野望は、言うならば人生を賭けたボランティアだ。


 それをコイツらは──


 僕は天幕に用意されたテーブルの前に置かれた四つの椅子。


 その二つに座る、タスクギアの使者とクロウネピアの幹部であるナラセン、そしてナラセンの背後に立つゴーズを見る。


「……お前たち獣人族から先に滅ぼしても良いんだぞ」


 席に座った二人とゴーズ、ニコに連れられて来たミザハ、そしてハルとフォーラが硬直する。


 僕から不意に溢れた本音を、モノロイの咳払いが掻き消す。


「シャルル殿、まずは戦後処理の交渉を……」


 モノロイの冷静さに救われた、と僕は思う。


 僕は少なくともこの場に、王国軍宰相として存在している。


 そんな僕から獣人国の二つの派閥を敵視する言葉が出れば、戦争が泥沼化しかねない。


 僕はモノロイに頷き、二人の獣人と向き合う形で椅子に座る。


 僕の隣席には、涙を拭いたミリアが座った。


 それを感じ取ったニコが言う。


「……それでは、これより獣人国タスクギア及び新興国クロウネピアによる和平協議を始めます。本協議は仲裁役としてリーズヘヴン王国宰相、シャルル・グリムリープ様の御名の元に執り行われます」


 僕は感心してニコを見る。


 彼女は僕の考えを看破している。


 そればかりか、タスクギアとクロウネピアから反発が出ないところまで読んでいるのだ。


 でなければ、今の言葉は出てこない。


 まず、クロウネピアを新興国と呼んだ。


 反乱軍ではなく、新興国。


 これはつまり、王国はクロウネピアを国として認めるというポーズ。


 逆にタスクギアは王国軍に敗北したことで国家存亡の危機だ。


 首都を落とされて降伏寸前の彼らからしてみれば、この協議の方向性自体が王国への降伏交渉ではなくクロウネピアとの和平交渉となることは国家の存続を意味するわけで、これには反発しようがない。


 そして、それを取り仕切るのが王国。


 全ての勢力に最大限のメリットを提示した完璧な言葉だ。


 惚れ惚れするほどの知謀である。


 タスクギアからの使者は、舌鋒のユリムエルと言った。


 全権使者としてこの場にいる。


 彼の決定が、タスクギアの決定となるわけだ。


 議会制のタスクギアで牛族代表の議員をやっていたらしい。


 牛族の獣人は初めて見た。


 太ったユリムエルには、牛の耳と小さな角が生えている。


「タスクギア全権大使、舌鋒のユリムエルと申す。……以後、よしなに」


 そんなことを言うユリムエルを見て、僕は牛の獣人の女性は、やはり大きな胸なのだろうか、なんてことを考える。


 僕の脳内に死ぬほどどうでも良いような考えが流れ、反射的に隣のミリアに目がいく。


 彼女はまた少し、胸が大きくなった気がする。


「ご主人様?」


 不思議そうに僕を見るミリアと目が合い、僕は慌てて「な、何でもない」なんて目を逸らす。


 ……なんだろう。


 ミリアの顔を見るのが少し恥ずかしい気がする。


 ……何故だろう。


 ……こんなのは初めてのことである。


 とにかく、僕は目の前の交渉に集中する。


「リーズヘヴン王国二代目宰相、魔王シャルル・グリムリープだ。さて、まずは僕の考えを話そうと思う。……が、その前に、ユリムエル殿にナラセン殿、貴殿らに言っておく。僕は魔王、甘くはない。そして王国軍は魔王の軍だ、その恐ろしさを貴殿らは身をもって知るところであろうが、その我ら王国軍が獣人族にとって敵となるか味方となるかは、貴殿らの決断に掛かっている」


 そうして、僕は自身の考えを話した。


 まず、現在クロウネピアが統治している副都ギィレムンから王国と接するキッシュの街までの東の領域をそのままクロウネピア領として独立を認める。


 そして、ギィレムンより西側と首都カイレン、そして今回の戦で王国軍が切り取った獣人国北方をそのまま返還してタスクギア領とする。


 ただし獣人国中央部のヴァレンの谷からカイレンを臨む百獣門と呼ばれる砦のクイネルまでの一帯は、王国直轄領とする。


 タスクギアにとって首都カイレン防衛の要衝であり鬼門である地域に関しては、王国軍が握るというわけだ。


 ヴァレンの谷はライカが掌握した。


 モノロイの報告は、何やら血生臭い内容であったが、僕は我関せずを貫くことにした。


 王国にとっては飛び地になるが、ヴァレンからクイネルまでの一帯はタスクギアのみならずクロウネピアの主要都市である副都ギィレムンにも睨みの利く土地だ。


 獣人国の反逆を防ぐ役割くらいは持てるだろう。


 そして、最後の提案を僕は口に出す。


「クロウネピアは国として自立するまで王国から代官を立てようと思う。……僕たちが国に帰還してすぐに、またタスクギアと戦争を始められては敵わないからな。王国直属代官にはミザハを立てる」


「……!」


 ナラセンとゴーズに緊張が走った。


 口を閉ざして成り行きを見守っていたミザハも、驚きの表情を浮かべる。


 ナラセンとゴーズの二人は互いに目配せした後、ゴーズが口を開いた。


「裏切り者のミザハを? グリムリープ、貴殿は豪胆な男だとは思っていたが、理由を聞かせて貰えるか?」


 僕は端的に答える。


「コイツは頭がキレる。今はそれだけで充分だ。僕個人は一枚食わされたが、王国が裏切られた訳ではないからな」


 僕の言葉に、ナラセンもゴーズも言葉に詰まる。


 そんな二人に、僕はさらに言葉を続ける。


「ゴーズ、お前には軍務を。ナラセン、貴殿には内務を一任する。ただ、王国からの要求はミザハに伝える」


「……我らにミザハを支えろと?」


 食い下がるゴーズ。


「ゴーズ、お前には貸しがあるはずだ。我らが父祖の代からの貸し、ここで返して貰おうか」


「借りは返すつもりだが、もしもコイツがキナ臭い真似をしたら、その時は自分の国に尽くすぞ?」


「構わない。それが熟考の末の決断なら、それもお前たち獣人の自由だ」


 ……それで良い。


 ミザハは切れ者だが、彼から絶対的な忠誠心は買えないだろう。


 コイツはそういうタイプの人間だ。


 それなら、板挟みにしてしまえばいい。


 王国という、彼の真上から。


 クロウネピアという、彼の真下から。


 ミザハは危うい立場に立たされるはずだ。


 部下からは警戒され、王国からの信頼は得られない。


 二心を抱こうとも、それを実行する手足は得られないのだ。


 彼が裏切り易い人間なら、裏切りという選択肢を削ぎ取ってしまえばいい。


 そして僕はその優秀な能力だけを搾取する。


 ミザハには悪いが、僕を謀った落とし前は付けて貰おう。


「できるな? ミザハ」


「……御意」


 僕の問いにミザハは首を垂れて答えた。


「それから、王国としては他国の内乱の鎮圧に協力したのに得たものがヴァレンの谷間一帯だけでは割りに合わない。現時点で王国にも多額の軍費に少なくない数の兵を失ったことで莫大な損失が出ている。……故に、両国に対し賠償金を請求する。一度に返済するのは不可能だろうから、数十年単位での分割返済には応じよう。正確な金額は我が参謀である聖女ニコと王国軍師団長である我が……」


 そこまで言って、僕はミリアを見る。


 僕を見つめ返すミリア。


 ……我が……何て言えば良いだろう。


 ……なんだ。


 ……何で僕は戸惑っている?


 この心の湧き立つ感情は何だ?


 ミリアの目を直視できない。


 さっきまでの、僕を抱きしめて泣いていたミリアの温もりが脳内に何度もフラッシュバックする。


 僕はそんな心の混乱を呑み込むためにも、言葉を捻り出す。


「……我が未来の妻であるミリア・ワンスブルーと交渉するように。……以上だ。後のことは万事二人に任せる。僕は王国への報告もあるので失礼する」


 僕はそう言って席を立つ。


 まだ心臓が嫌な唸りを上げている。


 ……なんなんだマジで。


 ……こんな感情は初めてだ。


 ……この感情は何だ?


 僕の言葉を聞いたミリアが一瞬だけキョトンとした後、すぐに「このミリアにお任せくださいませ!」なんて飛び跳ねそうな勢いで答えた。


 タスクギアの使者であるユリムエルが「宰相殿!」なんて僕を引き留めようとするが、すかさずモノロイが口を開く。


「ユリムエル殿、我が主たる魔王シャルル・グリムリープ卿は何より無駄を嫌うお方だ。そして、一度その不興を買えば相手に対して容赦という言葉を持たないお方──」


 そう言ってモノロイは自身の大きな手を、席で縮こまっているユリムエルの肩に置いた。


「──さらには、この天幕には演武祭を制した王国魔導師が多数いる上に獣人族最強にして最恐の呼び声高い悪辣姉妹もいる」


 モノロイに掴まれたユリムエルの肩がガクガクと震える。


「……心から貴殿に同情するよ。……その上で、グリムリープ卿の時間を無為に奪うであれば、それこそ御身の命だけでなく、種族としての存亡を賭けるつもりで発言することをお勧めするが、如何に?」


 モノロイの物腰柔らかな恫喝により、ユリムエルは項垂れるように沈黙した。


 その恫喝は、ナラセンとゴーズにも有効だったらしい。


 僕は獣人三人の観念したような様子に満足し、ハルとフォーラを連れて天幕を後にした。


 日はすでに暮れていた。


 天幕の外に、名前の長すぎる魔王の精鋭アザゼル隊長、通称『即唱』が待機していた。


「宰相閣下! ご無事で何よりでした」


「即唱か、僕は疲れた。……寝る」


「御意! 敵軍から接収した屋敷がございます。すぐにご案内致します」


 ハティナはまだ天幕に残っている。


 心残りはあったが、僕が残れば彼らは何かしらの譲歩を引き出そうとするだろう。


 だから、僕はこちらの要求だけ告げて天幕を出る必要があった。


 後はニコがうまくやるだろう。


 モノロイの言葉を借りるわけではないが、あの娘は僕より容赦がない。


 獣人族の人たちが、彼女の機嫌を損ねることがないことを祈るばかりである。


 

 僕はカイレンの中心部にある屋敷に案内された。


 僕やミリアを筆頭にした指揮官階級には、一人につき一つの屋敷があてがわれた。


 屋敷には当然、百人近くの護衛がいるが、それでも僕とハルとフォーラの兄妹で過ごすには広すぎる邸宅だ。

 

 戦闘用のローブから部屋着に着替えて、ふかふかのベッドに腰掛ける。


 ハルとフォーラの二人は早々に、屋敷を探検するとか何とか、子供特有の意味不明なことを言って何処かに消えた。


 どっと疲れた。


 もう当分は何もしたくない。


 早く王都の家に帰りたい。


 というか、早くハティナと喋りたい。


 根本的にハティナ成分が足りないのだ。


 イズリーに会えていて良かった。


 これでイズリー成分まで不足していたら、僕は本気でこの土地を焦土に変えかねない。


 僕の脳内で花火のように愚痴が炸裂する。


 そんな時、部屋の扉が開かれた。


 振り向くと、そこに銀髪の天使がいた。


「……シャルル」


「……ハティナ」


 僕たちは暫く見つめ合う。


「……抜け出して来ちゃった」


 ハティナが言う。


 彼女の首から下げた、狼のペンダントが揺れる。


 僕は自分の心臓を吐き出しそうな気持ちになる。


「……会いたいって、思ってた」


 僕は言う。


 僕の首から下げた、双子とお揃いのペンダントも揺れた。


 そうして、どちらからともなく、僕たちは近づいて互いを抱きしめる。


「……おかえり、シャルル。……会いたかったよ」


「……ただいま、ハティナ。僕も同じ気持ちだ」


 別れ際に、再会を誓って渡したペンダント。


 僕と双子しか持ってない、三人のペンダント。


 二人の首に下げた狼のペンダントが、今はまだできない究極の愛情表現を、僕たち二人に代わってしてくれたみたいにコツンとぶつかり合った。

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