幕間 弐

 獣人国タスクギア。


 そこに、ヴァレンの谷と呼ばれる場所がある。


 天を突くような山間に、深い谷がある。


 谷底は日が差さず、常に暗闇に囲まれている。


 それでも、谷底は豊かな自然が広がっていた。


 ユグドラシルの根が張っているからだ。


 谷間の両側に、二つの部族が住んでいた。


 一方は犬族、もう一方は兎族。


 力に富んだ犬族と、俊敏な兎族。


 二つの部族は、長きに渡って争った。


 谷間の豊かな自然を巡って、日夜抗争を広げた。


 二つの部族が互いに手を取り合うのは、谷が他の部族に攻められた時だけだ。


 第三者が谷に勢力を伸ばそうとすると、二つの部族は協力してこれを撃退した。


 内乱を続けた戦闘民族である二つの部族の兵は精強だった。


 犬族の膂力と兎族の俊敏さは、互いに助け合うことで恐ろしい程の強さを持った。


 いつしか、ヴァレンの谷の兵士は獣人国にて最強と呼ばれるようになった。


 それでも、外敵との戦が終ればすぐに内乱を繰り広げた。


 犬族には、勇敢な戦士がいた。


 栗毛色の髪に犬の耳、端正な顔立ちに、巌のような肉体。


 名をローライと言ったその男は、犬族の申し子のような男だった。


 岩をも穿つ膂力を持ち、兎族の戦士の多くを討ち取り、付けられた姓は兎狩り。


 兎狩りのローライと呼ばれた男は、ある抗争で一人の兎族の女と出会う。


 兎族の女は、名をハッセルと言った。


 薄紅色の髪に兎族の耳、少女の様に幼い顔立ちに、細くしなやかな四肢。


 ハッセルは、兎族の極地のような女だった。


 影すら見ない程に速く動き、まるで風のように犬族の戦士を倒し、犬除けの姓が付けられた。


 二人の男女は戦場で出会い、そして引き分ける。


 それから、二人は何度も何度も戦った。


 戦う度に、引き分けた。


 兎狩りのローライは犬除けのハッセルの動きを見切ることが出来なかったが、ハッセルもローライの硬い守りを崩すことができなかった。


 二人は幾度も戦場で相見え、殺し合い、互いに憎しみ合っていた。


 憎む感情と、愛する感情は遠いようで近い。


 互いが四六時中、互いのことを考えるのだ。


 二人はいつしか愛し合っていた。


 愛し合って、殺し合う。


 それでも、その気持ちに互いが気付いていたかと言えば、それは否である。


 ある日の戦場で二人の殺し合いは、遂に決着を迎えた。


 ローライを翻弄するハッセルが、小石に躓いた。


 歴戦の戦士としては、有り得ないミス。


 転んだハッセルは隙だらけだった。


 ローライが振り下ろした大剣は、空を切って地に伏すハッセルの鼻先の地面に突き刺さった。


 ローライは言った。


「今のは無しだ。もう一度殺ろう」


 ハッセルは言った。


「慈悲はいらぬ。殺せ」


 ローライは気付いてしまっていた。


 自分はハッセルを愛している。


 ハッセルの美技に酔いしれている。


 自分がこの女戦士に止めを刺すことは、できないと。


 ローライはハッセルに跪き、自らの首を差し出して言う。


「俺はお前を殺せない。この戦いが終わるとすれば、お前が俺を殺した時だけだ」


 立ち上がって剣を構えたハッセルは、泣いた。


 剣を構えたまま、大声で泣いた。


 ハッセルも、ローライを殺すことは出来なかった。



 永遠に続くと思われた谷間の抗争は、意外なことで終息を迎えた。


 愛が、争乱を治めたのだ。


 いつしか互いの陣営で一番の戦士の間に、子が生まれた。


 谷間の二つの部族は、同盟を結んだ。


 それでも、それまで争い続けた二つの部族の兵士たちの気持ちに、区切りが付いた訳ではなかった。


 長い間殺し合いを繰り広げてきたのだ、すぐに分かり合えるわけもなかった。


 しかし、谷間の獣人は争乱の終結をひとまずは喜んだ。


 ローライとハッセルの娘は、ライカと名付けられた。


 母親譲りの薄紅色の髪に、父親譲りの犬の耳。


 ライカは幼いながらも、犬族の膂力と兎族の俊敏さを待っていた。


 両部族最強の両親から日夜稽古を受けたライカが、獣人国最強と呼ばれた谷間の兵士たちと一線を画すまでに、そう時間はかからなかった。


 ライカが生まれて数年、妹が生まれた。


 父親譲りの栗毛色の髪に、母親譲りの兎の耳。


 美しい少女だった。


 気品に溢れる長いまつ毛、小さい小鼻に小さな口。それとは対照的なほど大きな目。まるで神が創造したかのような美しさだった。


 しかし、両親は悲嘆した。


 名をニコと名付けられた少女は、生まれつき目が見えなかった。


 目が見えない。


 これは、戦士としては致命的だったからだ。


 しかし、ニコは順応した。


 兎族特有の優れた聴覚と、犬族自慢の嗅覚で、自らの視覚を補った。


 三つの時に、弓を取って獲物を狩った。


 四つの時に、姉妹喧嘩で姉を倒した。


 五つの時に、父を倒した。


 六つの時に、母を倒した。


 七つの時に、魔物を仕留めた。


 犬族きっての戦士である父親と、兎族最強の戦士である母親を、十にも満たない少女が倒した。


 さらには、大人の兵士でも苦戦するような魔物を殺した。


 ニコは異常だった。


 目の見えないニコは音と気配で遥か先を見通し、人の嘘を見抜き、まるで最初から全てを知るかのような知謀を持った。


 谷間の獣人は彼女を敬うより先に、彼女を恐れた。


 魔王の生まれ変わりではないかと考える者もいたが、ニコは自分をそうは思わなかった。


 最初、ニコは自分を卑下した。


 自分は天賦の才を持っていながら、目が見えない。


 盲目は自分の決定的な欠点だ。


 その欠点は明確で、それでいて覆しようのないものだ。


 自分は何でもできるのに、こればかりはどうにもならない。


 ニコは自身の無力さを知った。


 そして、いつしか姉のライカに憎悪を向けるようになった。


 姉のライカは自分より才に乏しい。


 それなのに、彼女は耳が聞こえ、鼻が効き、五体満足だった。


 聡く幼い少女が、世界の孕む理不尽さを受け入れられず、どこにも向けようのない不満を憎しみに変えるのに、それほど時間はかからなかった。


 ニコのまだ小さく幼い精神に、その不満は大きすぎたのだ。


 一方、ライカはひたすらに努力した。


 妹がまだ幼い頃、彼女が自分を倒したのを未だに覚えていた。


 彼女は両親の課すあらゆる鍛練に全力を注いだ。


 彼女はひたすらに自分の強さの向上に心血を注いだ。


 より強く、より速く、より聡く、より猛々しく。


 妹より弱くては、妹を守れない。


 妹は目が見えない。


 自分が妹の目となり、彼女を守り、彼女を導かなくてはならない。


 ライカは、そう思った。


 妹を守れなければ、果たして自分に存在価値などあるのだろうか。


 自分にはニコほどの才はない。


 それでも、自分は耳が聞こえ、鼻が効き、五体満足だ。


 ライカもまた、世界の理不尽さに苦しんだ。


 自分が盲目として生まれるべきだった。


 自分の両眼は、ニコにこそ宿るべきだった。


 ライカは自分を責めた。


 そして、修行あるいは鍛練において、自分を虐め抜くことでしか、この手に余るほどの自責の念を和らげる術はなかった。


 それは、自己への憎しみと言い換えても良い。


 ライカの努力は実り、彼女の才は花開く。


 彼女は谷間で一番の剣の使い手になった。


 屈強な兵士でも、ライカの斬撃を二合と受けられないほどになり、部族最強の両親ですら、ライカとの試合では連敗を余儀なくされる。


 ライカは自分を責め、ひたすら自分を苛め抜くことで、強さを手にした。


 ライカには夢ができた。


 妹を守ること、それに加え、自らの忠義を捧げるに値する人物に仕えたい。


 寛大で自らの命を顧みず意志を貫くような人物。


 そんな主を持ちたい。


 ライカはいつしか、谷間の族長の護衛として重要な役職に就くようになった。


 しかし、谷間の族長が自分の理想の人物であるかと問われれば、首を捻らざるを得ない。


 ライカは悶々とした日々を過ごす。


 そんなライカに、ニコは冷めた感情を持っていた。


 今のライカは自分より強いが、それは自分が鍛練をしていないからに過ぎず、一月でも鍛練を積めばすぐに追い越せる。


 ニコはそうやって、冷静に分析していた。


 ライカの夢は知っていた。


 しかし、ニコはそれを下らぬものであると考えていた。


 自分には天賦の才がある。


 そんな自分が仕えるに値する人間など、この世に存在しないだろうと。


 いるとすれば、南方を死地に変えるほどの力を持つ者。


 すなわち、魔王くらいのものであると。


 いつしか姉妹は口を利かなくなっていた。



 その頃、姉妹の両親は苦しい立場に立たされていた。


 兎狩りのローライは同族である犬族から裏切り者と蔑まれ、犬除けのハッセルも同様に、同族から裏切り者と呼ばれるようになっていた。


 二つの部族は永く争っていたのだ。


 親兄弟を殺された者からしてみれば、不意に訪れた平穏に、心が追いついていなかった。


 部族最強の戦士の間に子供ができた。


 そして平和が訪れた。


 だから何だと言うのか。


 兄を殺した戦士と、明日から仲間だと言われて納得できるわけもなかった。


 親を殺した兵士と肩を並べて戦場に立つなど、考えるだけで怒りが込み上げる。


 次第に、ローライとハッセルへの嫌悪は募った。


 谷間の領主は二人いた。


 一人は犬族の男。


 一人は兎族の女。


 二人は老齢だったが、谷間に募る不満の種に気付かないほど朦朧してはいなかった。


 そして、後継の問題もあった。


 犬族と兎族には最強の戦士を長に据えるという掟があった。


 谷間の戦士で最強は間違いなくライカとニコのどちらかだ。


 犬族の血を濃く引くライカを長にすれば、兎族から不満が出る。


 兎族の血を濃く引くニコを長にしても、結果はわかり切っていた。


 二人を族長とする選択もあったが、姉妹の両親は谷間の兵士から憎まれている。


 例えそれが謂れのない悪評であっても、谷間の後継者問題で平和が壊れることだけは、族長として許容出来ない。


 

 二人の族長は、非情な決断を迫られた。


 ローライとハッセルとニコを、谷間から追放することにしたのだ。


 ライカは忠義に厚く族長としての器は申し分ない。


 ライカを自分たちの養子とし、部族の長の後継とすることにした。

 

 谷間の火種を消す為の苦肉の策であった。


 ローライとハッセルとニコが二人の長に呼ばれ、追放を言い渡された時、ライカは地面が崩れるような感覚を覚えた。


 両親と妹が故郷を追われる。


 ライカはまたしても、世界から理不尽を突きつけられた。


 ニコは考えた。


 谷間の平穏を守るのであれば致し方ないと。


 しかし、許容できなかった。


 谷間の獣人は両親を裏切り者と呼びながら、両親が齎した平和を享受している。


 自分は盲目として生まれた。


 すでに充分過ぎるほどの理不尽を世界から押し付けられている。


 それなのに、まだ世界は自分に理不尽を強要する。


 ニコは思った。


 滅びれば良い。


 自分に理不尽しか与えない世界も、両親を裏切り者と呼ぶ谷間の獣人も。


 ニコが自分たちに追放を告げる族長たちの前に進むと、族長の側に控えていたライカが前に出た。


 ライカは虚ろな目で言った。


「ニコ……やるのか?」


「姉さま……これ以上、わたくしは許容できません」


 姉妹が交わした、久しぶりの会話だった。


 ニコは目が見えなかったが、ライカが剣を抜いたのが分かった。


 ライカをどう殺すか、ニコは瞬時に脳内でシミュレートした。


 百通りを優に超える姉との戦いを思い描き、成功確率の高いイメージを残した結果、無傷のまま姉を殺す方法は四つあった。


 その中から、最も楽な方法を選択し、ニコは実行に移そうとした。


 しかし、ニコが動くことはなかった。


 族長二人の心音が停止していることに気付いた。


 ライカが、族長二人を斬っていた。


 そして、ライカは言った。


「私はお前の姉だ。私はお前を愛している。お前が手を汚す必要はない。私が、お前を守ってやる」


 ニコは驚愕した。


 姉の言葉に、姉の行動に。


 ニコの気持ちを置き去りに、突如として戦端が開かれた。


 姉妹とその両親に、谷間の兵士たちが襲いかかる。


 一瞬の出来事にローライとハッセルはたじろぎはしたものの、二人は歴戦の強者。


 すぐにライカとニコを守るために奮戦した。


 姉妹と両親は谷間の兵士と死闘を繰り広げた。谷間にて最強の四人であっても、数という暴力を覆す程の力はなかった。


 ローライとハッセルは、迷うことなく姉妹を逃した。


 両親がその場に留まり、ライカとニコの退路を切り開いた。


 ローライは最期に言った。


「ライカ、ニコを頼む」


 ライカはニコを抱え上げ、走った。


 そんな姉妹の背後に、ハッセルの声が届く。


「私たちのことは忘れて、姉妹で仲良くね」


 ライカに抱かれたニコは泣いた。


 自分は間違えていた。


 どれだけ自分を賢いと思っていても、自分は愚かだった。


 自分はこの世の真理を知ったつもりでいたが、近しい家族の愛すら知らなかった。


 何でも解る頭が、それを曇らせた。


 例え目が見えていたとしても、きっと自分には見えなかった。


 ライカも泣いた。


 泣きながら走った。


 左腕でニコを担ぎ、右手で剣を振った。


 目の前に現れる兵士の全てを切り伏せ、全力で走った。


 もう二度と走れなくても良い。


 手足が千切れても良い。


 妹が生きてさえくれれば。


 ライカは何も考えずに走った。


 心に沸き立つ焦燥と、胸の内でとぐろを巻く怒りだけを、ライカは感じていた。


 不思議と、ライカが追い付かれることは無かった。


 今までの人生で一番速く走れた。


 走れば走るほど、地を蹴れば地を蹴るほどライカは加速した。


 そうして、ひたすら走り続け、風を追い抜くまでの速度になった頃、ライカは追っ手を振り切っていた。


 それから二人で歩き続けた。


 途中の村々で、自分たちが悪辣姉妹という呼び名で追われていることを知った。


 とある村で、親切に自分たちを匿ってくれた村人に裏切られた。


 自宅に姉妹を匿って、裏で国に告げ口をしたのだ。


 懸賞金が目的だったのだろう。


 ライカはその村人を切り伏せ、ニコを担いで再び走った。


 明け方、獣人国の国境を越えた。


 そこで、ライカは力尽きる。


 ニコは、ショックで動けなかった。


 未だに父と母の声が頭の中でこだましていた。


 

 気付くと、姉妹は人間の傭兵に捕まっていた。


 国の内乱から逃れて帝国領に入った獣人を捕まえる奴隷狩りが、当時の帝国の傭兵の主な収益源になっていたことを、姉妹は知らなかった。


 そうして、姉妹は奴隷になった。


 故郷での出来事による精神的な苦痛と肉体的な疲労、そして奴隷を縛る手枷と足枷が、二人から本来の強さを奪った。


 女の奴隷は傷物になると価値が落ちる。


 そういった理由から、二人が手籠にされることはなかった。


 それでも、気高い戦士のライカにしてみれば、その屈辱は耐えがたいものだった。


 姉妹を捕らえた傭兵は、彼女たちを帝都近くのカンタラで奴隷商に売った。


 カンタラの奴隷商は、ライカとニコを別々の檻に入れた。


 ライカは自身の胸の内で、誇りを捨てた。


 妹を守るためなら、泥水でも啜り、屍肉でも貪り、脂ぎった狒々のような男にでも腰を振ろうと。


 そして、ニコだけは何としても幸せにしようと。


 ニコは考えた。


 誰かに売られたら、すぐに主人を殺して自由になろうと。


 そして、姉と共にどこかでひっそりと暮らすのだと。


 姉妹はすぐに買われた。


 まず、姉のライカに声が掛かった。


 商談の席に、人間が三人いた。


 一人は傭兵のような男。


 そして二人は子供だ。


 ライカは自分を買おうとしているのが、自分より一つか二つ年下の少年であることに驚いた。


 少年は紺色の髪の気品あふれる少女と旅をしているようだった。


 少年はまるで女子のような顔立ちだった。


 ぱっちりとした眼には、黒く深い瞳。


 鼻も口も大きくないし、顎も細い。


 上背もなければ、腕も細枝のようで、華奢だと思った。


 およそ、強さとは縁遠い印象。


 闇のような黒髪は、先端に行くにつれて鮮やかな深紅の色に変わっている。


 地獄の炎を思わせる色合いだった。


 少年はライカに剣術の心得があるのかと聞いた。


 ライカは迷いつつも使えると答えた。


 答えたが、ライカはこの者のために剣を振ることはないだろうと考えた。


 妹を残して死ぬわけにはいかなかった。


 だから、命の危険のある戦闘奴隷として買われることを拒んだ。


 奴隷商は妹のニコも抱き合わせで買わせようとしていた。


 それは、ライカにとっても都合が良かった。


 しかし、ニコの才を知らぬ者からしてみれば、盲目の奴隷になんて銅貨一枚の価値もないだろう。


 ライカは正直に告げた。


「私を買うことはオススメしません。それに……妹も」


 少年は聞いた。


 それは何故かと。


 奴隷商は怒っていたが、ライカは正直に答えた。


 妹は盲目であると。


 足を引っ張り兼ねないと。


 自分は戦闘奴隷として妹を残して死ぬわけにはいかないと。


 ニコが足を引っ張ることはないだろうと、ライカは知っていた。


 知ってはいたが、ライカは少年が自分たちを諦めてくれるなら何でも良かった。


 少年は呆気なく引き下がった。


 ライカを戦闘奴隷としないことを誓った。


 そればかりか、買ったらすぐに解放するとまで言われた。


 ……なら、なぜ買うのだろう。


 ライカは疑問に思った。


 世界はいつも理不尽な要求を姉妹に突きつけてきた。


 そんな不条理で非情な世界が、こんなに自分たちに有利な状況を生み出すことがライカには理解できなかった。


 少年の言葉を聞いた傭兵の一人が、少年をお人好しだと言った。


 それに対して、少年は邪気のない笑顔で言った。


 自分は冷酷だと。


 平気で人も殺せると。


 そんな豪胆な気配は、少年からは感じなかった。


 そして少年はライカの名前を聞き、それから言った。


「ライカ。一度だけ言うぞ。妹と共に、黙って僕に買われろ。お前と妹を悪いようにはしない。……魔王として約束する」


 自分のことを魔王と呼んだ。


 少年が嘘をついていないことが、ライカには何故だかわかった。


 それでも、ライカは口籠った。


 世界がこんなに優しいわけがない。


 世界にこんなに優しい人がいるわけがない。


 世界で一番優しい人は、両親の二人は、死んだのだ。


 混乱するライカに、紺色の髪の少女が腰からワンドを引き抜き、それを突き付けて言った。


「もし、魔王様から差し伸べられた救いの手を断るつもりであるならば、私が貴女と妹さんに、今この場で引導を渡して差し上げます」


 彼女からは憎しみを感じなかった。


 あったのは、おそらく、慈悲だ。


 ライカは一度己を恥じ、そして言った。


「……よろしくお願い申し上げます」


 ライカとニコは買われた。


 姉と共に引き渡されたニコは、殺気を巧く隠していた。


 それは、ライカにだけは筒抜けだった。


 ライカは迷った。


 妹がその気なら、自分も続かなくてはと。


 しかし、本当にそれで良いのかと。


 一方、ニコはライカと少年の会話を聞いていなかった。


 それ故、彼女は隙あらば主人を殺そうと目論んでいた。


 ニコは聡い。


 聡いが、人間を知らなかった。


 ニコは再び愕然とした。


 自分たちを買った少年が、自分とライカに服と武器を与えた。


 ニコは少年の思考を読もうとしたが、彼は一度も嘘をつかなかった。


 顔はわからないが、幼い。


 何故かその声は透き通るように自分の心を暖かく包む。


 ニコは混乱しながら、武器屋で弓を所望した。


 盲目の少女が弓を選べば、何かしらの反応があると思った。


 人の気持ちは手に取るように解る。


 心拍、呼吸、発汗。


 少年の思考を読むために、ニコは弓を選んだ。


 少年の感情から読み取れたのは、一割の疑念と九割の無関心だった。


 ニコのことなど、どうでも良いようだった。


 ニコは、そんな少年の反応に少しだけがっかりしている自分に気付いた。


 そして、二人に武器を与えた少年は奴隷の首輪を外し、さらに余ったからと金貨をくれた。


「また悪い人たちに捕まったりするなよ?」


 なんて、酷くあっさりと。


 ニコはさらに混乱した。


 本気なのだ。


 この少年は、本気で武器と金を与えて自分たちを解放したのだ。


 姉妹は同時に跪いていた。


 ライカは思った。


 今、自分の仕えるべき主を見つけたと。


 ニコは思った。


 一度だけ、人を信じてみようと。


 獣人の姉妹は、故郷から遥か遠い帝国の地で、自らの主人に出会った。


 彼女たちは魔王の側近として、少年の偉業の助けとなった。


 姉妹は一生を賭けて魔王に仕えた。


 魔王の両腕として、世に平穏を創り上げた。


 主への愛と忠義のために奮闘する二人の勇姿は正しく、谷間に平穏を齎した両親と同じ姿であった。




 ──完





 あとがき



 本書を書くにあたって、私は戦鬼ライカと聖女ニコ本人より聞き取りを行った。


 二人は私にとって姉のような存在だったので、彼女たちはとても親切に、尚且つ、包み隠さずに話をしてくれた。


 彼女たちの働きが歴史の闇に葬られ、無かったことになることを、私はひどく恐れた。


 本書を手に取った読者諸兄におかれては、どうか思い出して欲しい。


 世界はいつでも理不尽である。


 世界が我々に優しくするのは、我々がその死を迎える時だけである。


 それでも、彼女たち姉妹は救われた。


 彼女たちを救ったのは他でもない、人の優しさだ。


 魔王シャルル・グリムリープとの出会いが、彼女たち姉妹に救いを齎したのだ。


 かく言う私も、魔王シャルル・グリムリープに救われた人間の一人である。


 彼の尊き御方は、孤児であった私と兄を奴隷商から救ったばかりか、私たち兄妹を弟子に迎え、更には自らの両親に養子として迎えさせることで、卑しき生まれである私と兄を栄えあるグリムリープ家の末席に加えてくれた。


 ライカとニコ、二人の姉妹が愛した魔王シャルル・グリムリープは仁義に厚く、それでいて、他人からの評価や心象を歯牙にもかけない御仁だった。


 そんな、私にとって師であり義兄たる魔王シャルル・グリムリープと、私を本当の妹であるかのように接してくれた二人の姉妹に、この本を捧げる。



リーズヘヴン王立魔導図書館所蔵


フォーラ・グリムリープ著『悪辣姉妹の生い立ち』より一部抜粋

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