第200話 キッシュの戦い

 奈落と呼ばれる魔物、アビスは高さ10メートルほどに膨張し、巨大な目玉をギョロギョロと動かし、その粘液状の身体をうねらせながら井戸があった場所から這い出てきた。


 アビスはその流動性を持つ肉体を変化させ、まるで蛭が蠢くように膨張する。


 それを迎え撃つ八黙の三人。


 彼らは、とんでもない強さを持っていた。


 ゲナハはどこに隠し持っていたのか何本ものメスを次々に投げつけ、アビスを牽制する。


 アビスの巨腕──この魔物の不定形な肉体という特性から、それが腕なのかは定かではないが──をコッポラが大きなノコギリ状の大剣で切り刻む。


 狂乱状態とでも言うのだろうか。


 平静さを失ったマーラインが両手に宿した無慈悲の合掌ルースレスパームでアビスの肉体を掴む度に、アビスの液状の身体から異臭を放つ煙を昇らせる。


 三人の戦いには、およそ連携という物は存在しなかった。


 彼らは巨大な魔物に対して、一対一の戦いを挑んでいるかのように、互いの動きなど歯牙にもかけない。


 そればかりかコッポラがピンチに陥った隙にゲナハはコッポラのその隙を突くように彼女にまで攻撃を仕掛け、コッポラが危機を脱すると「おやおや、邪魔者が減るかと思ったのですが生き残ってしまいましたかぁ。うひひひひ、この魔物にも少しは頑張っていただきたいものですねぇ」なんてことを言ってのけた。


 三人は強いが、アビスの肉体はまるでダメージを蓄積している様には見えなかった。


 徐々に八黙の三人はアビスに押され、今度はゲナハがアビスの粘液に捕まった。


 それを見たコッポラは彼を鼻で笑い、当然の如くゲナハを助けることなくアビスに向けて大剣を振り下ろす。


「おっとぉ、これはぁ、ヤバイですねえ」


 そんなことを言いながら、アビスの粘液によって捕縛されたゲナハは身体を徐々に侵食されていく。


 そんな時、ニコが救世の陽光ジェネシスを唱えた。


 ニコの救世の陽光ジェネシスの光を浴びたアビスの粘液が、ゲナハを離して縮こまる。


 ゲナハは解放されたが、アビスが滅ぶことはなかった。


 僕の念しには、アビスが瞬時に魔力の形質を変化させたのが解った。


 ニコの魔力を防御するかのように、彼女の魔力の形質に対して相性の良い魔力に自身を変質させたのだ。


 ゲナハを助けたニコは、閉じた両眼を開いて彼に言う。


「ゲナハ……。主さまの御前であるというのに何ですか、その体たらくは。貴方には、またお仕置きが必要に思えますが……?」


 アビスに捕まっても余裕の表情だったゲナハの顔が凍り付くように恐怖に染まる。


「に、ニコ様! こ、これは……」


「嫌なら、ちゃんと主さまのお役に立って死になさい。主さまのお役に立てないのであれば、貴方を飼っている価値も理由もありませんから……」


「ひぃ! ご、ご容赦を! 死にます! 死してお役に立って見せます!」


 ゲナハは戦いに戻った。


 ニコは……。


 いや、ニコ様は。


 一体、どんなエゲツないパワハラを部下に課しているのだろう。


 一体、どうやったらあの変態マッドサイエンティストがここまで従順に人に従うのだろう。


 僕は小さな盲目の美少女に、心の底から恐怖した。


 そして、三人の戦いはより苛烈さを増した。


 それでも、戦況を打開するまでには至らない。


 そんな時、パラケストが三人の戦いを観察しながら言った。


「ほーん。どうやらコイツも不死身っぽいんじゃぜ。ただ、エンシェント程の魔物じゃねーやな。コイツ、わかりやすく弱点守ってやがらあ」


「お師さん!」


 珍しいことに大人しく戦況を眺めていたイズリーがそれに答えるように叫んだ。


「ほーん? イズよお、なんか視えたんじゃぜ?」


 パラケストの問いに、イズリーは答える。


「目ん玉を庇ってるね!」


「あっへっへっへ! イズよお、そこに気付けたんなら、お前さんもそろそろ一丁前なんじゃぜ! そら、選手交代じゃぜ! 俺らが戦るんじゃぜ!」


 そう言って、イズリーとパラケストが前に出る。


 すると、それを察したニコが言う。


「ゲナハ、コッポラ、マーライン。邪魔ですよ、退がりなさい」


 まるで鶴の一声だった。


 アビスと死闘を演じていた三人が後方に飛び退く。


 髪を振り乱し、絶叫を上げながら戦っていたマーラインはいつの間にか平静さを取り戻していつもの根暗な彼に戻っていた。


「さてさて、イズ。どう料理すんじゃぜ?」


「んとねえ。周りのドロドロを吹き飛ばしてあの目ん玉外に出すでしょ? それからねえ、目ん玉も吹き飛ばす!」


「相変わらずアホな解答じゃぜ。本当なら、それじゃ五十点じゃぜ。周りの液体が吹き飛ばなかったら、その策は通らねえやな。まずは、どの魔法が効くのか確かめにゃあ。つっても、この魔物は自分の魔力を変化させよるかんなあ、やっぱ威力で吹き飛ばすしかねーかも知れんね」


 パラケストとイズリーはそんな会話を交わしながら、アビスに向けて殺気を飛ばす。


 二人は似た者同士なのかもしれない。


 殺気の質感が、とても似通っているのだ。


 まるで身体中に何万もの刃を突き立てられるような、肌を切る感覚。


 それでいて、秋の夕暮れに吹く風のように冷たく、どこかアッサリとしている。


 爽やか。


 殺気に適した表現かはわからないが、そう言い換えても良いかもしれない。


「そかそか。あ、そだ。お師さん、アレやって良い?」


 イズリーはワクワクした表情で言った


「イズよお、お前さん、アレぁまだ一度も成功してねーんじゃぜ?」

 

「でもでも、今なら出来ると思うんだよねえ」


「お前さん、相変わらず命の懸ってる勝負なのに肝が座ってんね。でもま、モノは試しじゃぜ。やってみぃ」


「はい! お師さん! ちゃんと見ててね!」


 ……師弟コンビか。


 胸が熱いぜ。


 僕は巨大な魔物を前にして、そんなことを考えていた。


「んじゃ、戦るかい。あの赤い体液をどーにかすんじゃぜ!」


「はい! お師さん! 殺るぞー! 虐殺! 鏖殺! 惨殺だー!」


 パラケストとイズリーが同時に魔法を唱える。


 パラケストの指先から、火、水、風の魔法が同時に飛ぶ。


 異種魔法の同時起動。


 ハティナなら出来るだろうが、パラケストの威力で撃つまではいかないだろう。


 僕からすれば、ほとんど神業に近い。


 イズリーは得意の土魔法を放つ。


 四種の魔法がアビスを襲い、目玉を守る体液を吹き飛ばす。


 それでも、アビスは強大な魔力抵抗を持っていた。


 弱点である目玉を露出するまでには至らない。


「イズ! 何が見えたんじゃぜ!」


「お師さん! 火で蒸発した! でも水は効いてない!」


「あの体液が防御スキルだったら?」


 パラケストの問題に、イズリーが答える。


「水のスキル! だから雷が効く!」


「そうじゃぜ! つまり──」


「あたしたちの勝ち!」


 パラケストは微笑み、イズリーは笑う。


「俺が体液吹き飛ばす! デカい魔法は任せたんじゃぜ!」


 パラケストは言葉の通り、界雷噬嗑ターミガンを連射してアビスから体液を剥ぎ取った。


 そして、イズリーは唱えた。


 その魔法は、僕もよく知る魔法だった。

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