第184話 魔王と愛

「……」


 ハティナは無言で僕を睨みつけている。


 僕は助けを求めるようにモノロイを見る。


 彼は言った。


「……! さ、さて、捕虜の管理もございます。我らはこれにて……」


 そう言って、戸惑う名前の長い隊長と共に縛られた金色のおっさんを引き摺り、天幕を後にした。


 モノロイよ! 


 お前、友達を見捨てるのか!


 そんなことを思うが、僕の思考が彼に伝わることはなかった。


 いや、実際には、僕の思考は彼に伝わっていただろう。


 伝わっているからこそ、モノロイはこの場を逃げたのだ。


 進化前の人類にしてはなかなか賢い。


 そして、次にニコを見る。


 僕の視線に気付いたのかはわからないが、ニコは口を開いた。


「お、奥方さま──」


「……出ていって」


「──! ……はい」


 聖女ニコもあっさりと玉砕した。


 天幕には、シクシクと泣くイズリーと、ブチ切れているハティナ、そして、そんなハティナを恐れる魔王だけとなる。


「……シャルル」


「はい!」


 僕はその場で片膝をつく。


 一応、僕はリーズヘヴン国王に準じる地位にいる。


 どんな高位貴族も僕には跪き、首を垂れる。


 そんな僕が、今は国の師団長の副官に対して臣下の礼をしているのだ。


 他の貴族が見れば卒倒するのではないだろうか。


「……シャルル。……わたしは、あなたのことが大好きだよ。……あなたを心底、愛している。……でも、わたしの愛は他の人間のそれとは違う。……もっと深く。……もっと重い。……ニコやライカ、それにミリア。……彼女たちのそれとは違う。……格が違う。……わたしは、あなたの行いの全てを肯定したりはしない。……わたしを、都合の良い女だと思わないで」


 ハティナの言葉は、まるで終末のハルマゲドンに巨大な隕石が降ってくるような衝撃だった。


 ハティナは言葉を続ける。


「……わたしたちは、出逢ってから大きく変わった。……あなたは宰相になったし、わたしは初めて人を殺した。……例え、それが敵軍の兵士の命だとしても、人の命を奪うのは辛い。……わたしとイズリーのせいで、シャルルに幼い頃からこの苦しみを課してしまったこと……今更だけど、とても……とても後悔している。……だからこそ、わたしはあなたを支えたい。……シャルルが道を外れる時、わたしがあなたを正道に引き戻す。……だから、シャルル。……あなたもイズリーを全肯定するべきではない。……あなたはもう、力を持ってしまっている。……あなたは絶大な権力と強大な戦闘能力を持ってしまっている。……あなたがイズリーを肯定すれば肯定するほどに、あの娘のことを、周りの誰もが諫めることができなくなってしまう。……大なる力には、大なる責任が伴う。……このままじゃ、いつかイズリーは戦死する。……そして、あなたはきっと、イズリーを殺した人間を許さない。……あなたのことだからイズリーを殺したその国、いいえ。……その種族ごと。……あるいは、人類そのものを滅ぼしてしまうでしょう? それを止める力が、……わたしにはないの」


 ハティナは瞳に涙を溜めている。


 僕のことを思って、彼女は泣いている。


「……だから、今、変わらなければいけない。……それは、イズリーも同じ。……そして、わたしも同じ」


 僕から、さっきまでの恐怖は無くなった。


 代わりに、自責の念が湧き起こる。


 僕はイズリーとハティナのためなら死ねる。


 僕はイズリーとハティナのためなら魔王を殺す。


 僕はイズリーとハティナのためなら人類も滅ぼす。


 僕はイズリーとハティナのためなら『神』も、この世界そのものも。


 それが。


 そんな愛が。


 彼女を苦しめた。


 まるで、呪いのように。


 彼女を蝕んだ。


 僕の重すぎる想いが。


「悪かった。今回、イズリーが危険な目にあったのには、僕に非がある。ハティナ、ありがとう」


 僕は言った。


 僕は正直、叱られることに慣れていない。


 この世界に生まれてから、叱られるなんてことはほとんど無かった。


 無かったし、アスラに小言を言われても、僕はそれを真に受け止めては来なかった。


 それでも、今回は。


 今回ばかりは、ハティナのお叱りは僕の心に深く深く突き刺さった。


「……わたしも、あの時イズリーを止めなかった。……痛い目を見ないとわからない。……そう思っていた。……でも、戦場ではその一度の痛い目で命を落とす。……それを、失念していた。……わたしも悪い。……本当は、わたしが一番悪いの」


 ハティナはそう言って、天幕を出て行った。


 彼女は泣いていた。


 大好きな女の子を泣かせた。


 その事実が、僕の一番深い場所をグサリと抉った。


 天幕の隅で、イズリーが泣いている。


 彼女も、ここに来る前にハティナに説教をされたのだろう。


「……イズリー」


 僕が彼女に声をかけると、イズリーは鼻を啜りながら言った。


「あたし、強くなりたい。……強くなりたかったの。……強くなれば、もう、あの時みたいにシャルルを苦しませないですむでしょ? でも、あたし、バカだからわからないの。……強くなるには、戦ういがいのほーほーが、わからないの」


 僕はイズリーの隣に座って彼女の頭を撫でる。


 彼女も。


 普段、天真爛漫で無邪気な彼女も、苦しんでいたのだろう。


 子供の頃に攫われたこと。


 そして、僕とハティナに助けられたこと。


 結果として、僕たちを危険な目に遭わせたことを。


 だからこそ、彼女は強さを求めた。


 強さを求めて、戦いを求めた。


 今思えば、イズリーが戦闘へ固執する姿はどこかおかしかった。


 何かに取り憑かれたように、彼女は戦場に身を置いた。


 何かに呪われたように、彼女は戦闘に身を委ねた。


 何かに誘われるように、彼女はひたすら修羅の道を求めた。


「僕も、今でも弱いままだ」


 イズリーは嗚咽を漏らして言う。


「ひっく。シャルル、ごめんなさい。……ハティナに言われたの。……あたしが、シャルルのお、お、……おもに? になってるって。あたし、もう、わがまま言わないよ。これからは、ちゃんと言うこと聞く。言うこと聞くから、だから、見捨てないで」


 そう言って、イズリーは声を上げて泣いた。


 以前、演武祭出場祝いで父から貰った漆黒のローブ。


 背中にコウモリの刺繍が入ったローブ。


 僕はそのローブを広げて、イズリーを包み込んで抱きしめる。


 イズリーの細い身体が、僕の腕の中にすっぽりと収まり、イズリーの涙で濡れた頬が、僕のローブの内側も濡らす。


「僕とイズリーとハティナ。三人揃ってやっと一人前だ。僕たちは一心同体。イズリーを見捨てるなんてこと、絶対にしないよ。僕も、イズリーに謝らないといけないね。イズリーの本当の気持ち、考えていなかったよ。僕たちは幼い。成長しないといけない。いつまでも、子供の頃の僕たちのままでは、いられない」


 イズリーは僕の腕の中で言う。


「あたし、ちゃんと大人になるよ」


「僕も、もっと大人になる」


 僕は、そう言ってイズリーの額にキスをする。


 これは誓いの口付け。


 イズリーを護り、共に成長し、共に死ぬ。


 愛は、一方向だけでは成立しない。


 それは、ただのエゴだ。


 愛は、相手の全てを肯定することではない。


 それは、ただ都合の良い役割を演じるというだけのこと。


 愛は、時に暖かく僕を包み込み、時に鋭利に僕を切り裂く。


 僕はハティナに、本当の愛を教わった。


 

 リーズヘヴンの北西。


 獣人国との国境線。


 北方に生まれた魔王はこの日、本当の意味での愛を知った。

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