第10話 空白
桜子が少し「しまった」という顔をした。
私はもう一度、「その名前をなぜ……」と聞く。
——その名前を知っているはずがない。
桜子はちょっと躊躇ってから、
「さっき、泣いてるときに『さくら、ごめん』って何度も言ってた」
と言った。
覚えてなかった。私が言ってたのか……。
「高校のときの同級生なの」
それを桜子のような高校生に言ってしまっていいのか、複雑な思いもあった。だけど、私の一番弱い場所に触れた彼女には、その理由を最後まで聞く権利があるのかもしれない。そして彼女に救われた私は、ちゃんと話すべきだと思う。
しばらく時間をおいてから私から話し出した。私をじっと見つめながら、桜子は黙って聞いていた。
「私が彼女を傷つけて……」
「そして……」
「彼女は、さくらは一人で死んじゃった」
さっきあれほど泣いたばかりなのに、私のどこにその水分があったのかというぐらい、また涙で前が何も見えなくなっていた。
「先生、無理に言わなくていい。もういいよ、先生」
そう言いながら、桜子がまたそっと私を抱きしめた。
あのあと1年間、私はただひたすら勉強に集中した。私から避けられていることを判ったのだろう、さくらはある時期から私の前に現れなくなった。私ももう一度さくらと向き合うきっかけを失ってしまっていた。
勉強の成果が出て成績の回復した私は、さくらと目指していた大学に無事合格できた。あれだけ一緒に行こうと語り合ってたさくらは、同じ大学は受けていなかったようだった。
合格発表のあった日の薄暗くなった夕方、私が部屋の明かりをつけたそのときのことだ。
「合格おめでとー。いい先生になるんだよー。ヨーコなら大丈夫だからぁ」
さくらの大きな声が窓の向こうから聞こえた。
閉めたドアの前に立ったまま、私は窓に駆け寄るのを躊躇った。あれだけ私の方から彼女を遠ざけておきながら、いまさら彼女に顔を合わすのがむしろ恥ずかしいと思った。
それもほんのわずかのことだった。私は窓に駆け寄り、窓の向こうにさくらの姿を探したが、もうそこにはさくらの姿は見えなかった。慌てて玄関に向かい、裸足で飛び出してさくらの声の跡を探し回る背中に、
「葉子、合格祝いに食事に行く時間よ」
玄関からお母さんの声が聞こえた。
——明日こそ、ちゃんと謝りに行こう。
それがさくらの声を聞いた、最後の夜のことだ。
どうして亡くなったのか、私には誰も教えてくれなかった。
私は希望どおり教師になった。だけど、なぜ教師を目指したのか、とても大事なピースが私には欠けたまま、恋愛などにも踏み切れずに今まで生きてきた。
——それが私だ。
私はそう諦めて生きてきたのだ。
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